第3話 その人はまるで陽だまりのように
からん、ころん。からん、ころん。
藍色の浴衣に着替えた男の足元で下駄が鳴る。太陽はすっかり西側に傾いて、吹き付ける風も湿ってはいるけれど温度は高くない。古民家から歩いて十五分のところにある銭湯で汗を流し、ついでに足を伸ばして定食屋で腹も満たした。これ以上ないくらい心地よい夕暮れだ。
腹ごなしもかねて歩いて帰宅した男はがらりと扉をあけて古民家の中へと入る。散らかった廊下を抜け、一番手前のふすまを開いた。「あ、おかえりー」二時間前に出ていった時とほとんど変わらない姿勢で本を読んでいたらしい青年が顔をあげて笑う。
「……ただいま」
こんな風に誰かに出迎えてもらうのも、それにこたえるのも、随分と久しぶりのことで男の反応が少し、遅れる。その間に青年は軽く首を傾げたけれど、特に追及することなく男の書いた小説に目を戻した。朝からずっと読んでいるのか、すでに全体の半分ほどまでページが進んでいる。
「おもしろいか」
男はつい、青年の隣に腰掛けて問う。
「ん。おもしろいってか、なんか綺麗だなーって感じ」
「きれい?」
物語に対する感想としては、あまり聞かない形容詞だ。男は首をかしげて、青年の言葉の続きを待った。「んー、うぅん……なんていうんだろう」青年は本に両手を置いたまま、天井を見上げたり、体を左右に揺らしたりする。その様子がまるで幼い子供のようで、男はふっと口元を緩めた。
「あ!」
唐突に、青年が動きを止める。青年の緩く笑った顔が、男の方を向いた。
「今日、せんせに拾われる前に見てた、朝日とおんなじ感じ。おれが、いままで知らなかったきれーなものが、合体した、みたいな」
男は今朝の歌舞伎町の空を思い浮かべて、目を細める。今日の朝焼けは、ビルの隙間から、白く輝く陽光が街に差し込んで、それはもう、美しい景色だった。
「そうか」
男の声は静かに弾む。胸の奥がじん、と熱かった。そんな風に自分の書いたものを受け取ってもらえるのは、素直に嬉しい。
「お前の、世界の見方は綺麗だな」
男の言葉に今度は青年の方が目を丸くする。けれど、青年が驚いた表情を浮かべたのは一瞬のことで、すぐにへらりとした笑みに変わる。視線が、男からすっと逸れて。
「んは、せんせえ変なことばっか言うねえ」
「そうか?」
「そうだよー。おれ、ゴミだよって言ってるのに拾うしさー。ゴミに見えてる世界が綺麗なわけないし」
青年が耳にかけていた髪が、ひと房零れ落ちる。それだけで、男からは青年の表情がよく見えない。指先でそっと、青年の頬に触れる。髪をはらって、身を乗り出して青年の顔を覗き込んだ。
安物の電灯を反射して薄茶色の瞳が光る。ごく薄く、涙の膜が張っているのが見えた。
あぁ――
胸の中に、感嘆の息が落ちる。
――これは、美しいな。
「なぁに、」
目が合うと、青年は歪な笑みをつくる。人と目が合ったら、笑う。そう刷り込まれているような動きだと思った。青年の浮かべていた表情が変わると、男はようやく我に返って、青年から距離をとる。
「ぁ、あぁ、すまない。あまりに綺麗な顔だったから、つい」
「んはは、せんせえ、まじでおれの顔好きだねー」
「今までに出会った男の中で、いちばん好みの顔だ」
「ふーん」
まじまじと青年の顔を見つめて断言する。見れば見るほど、綺麗な顔だ。
「じゃ、おれ、体でお礼した方がいーい?」
体で、お礼。
言葉の意味をはかりかねている間に、青年の細い指がゆっくりと伸びてくる。指先は、意外と冷えていることを知る。衣擦れの音がして、膝立ちになった青年の足元で捨てられた紙束が歪む。「ぁ、」電灯を背負って、こちらを見下ろす青年の姿が、記憶の中の『誰か』に重なる。知らず零れたか細い悲鳴を飲み込むように、青年の端正な顔が迫って。
ふに。
「んえ」
男はかろうじて反応した左手で、青年の顔を押しとどめた。遅れて、心臓が早鐘を打ち始める。キスを止めた男の手を青年は不思議そうな顔で見つめた。宇宙を背負った猫のような顔をしたいのはこちらなのだが。
「せんせえ、なんで?」
男はひとまず後ろに下がって青年から距離をとった。
「おれの顔、好きなんでしょ? おれ、男の経験はあんまないけど、最後までしなくても、気持ちいことできるよ? たぶん、うまいよ?」
男が下がった分だけ、青年が距離を詰めてくる。
「まてまてまて」
男はどうにか青年の肩をつかんで、ぴんと肘を伸ばした両腕で青年との距離を確保する。
「そもそも、そういうことのために拾ってきたわけじゃない。お礼がしたいなら、俺が疲れたときに、その顔を思う存分眺めさせてくれればそれでいい。というか、お礼をもらうようなことは何もしてない」
矢継ぎ早に並べ立てれば、両腕にかかっていた青年の体重が次第に引いていく。ちらりと視線をあげて様子を窺う。青年は、ぺたん、と力が抜けた様子で座り込んでいた。眉をさげて、目を丸くして、唇が力なく半分開いている。
この世の終わりに、人類が浮かべる表情のモデルケースみたいな顔だ。
「おれ、体以外で払えるもの、持ってない」
「だから、お礼自体、いらないって言ってるだろう」
「出てけってこと?」
「どうしてそうなる?」
「だって、おれ、体以外で払えないし、お礼しなきゃ人の家にはおいてもらえない」
青年の声は頼りなく揺れていて、なんだか体も一回り縮んでしまったような気がした。長い前髪がうつむく青年の顔に影を落とす。
「俺が勝手に拾ってきたんだし、お前はお礼なんて考えなくていいよ。払わなくても、ここなら居ていい」
そもそも、男が勝手に拾ってきたのだ。青年に言われるまで、お礼をもらうなんてこと、考えもしなかった。むしろ、男の方が生活費を支払うべきのような気がする。ゴミを自称しているが、一応人間のようだし、腹が減ることも、風呂に入りたくなることもあるだろう。
「……いーの? ほんとに? おれ、なんもできないのに、ここに居て、いいの?」
青年が目を丸くして、男を見る。そういう顔をしていると、存外幼く見えることを知った。男は迷子になった幼子の手を引くような気持ちになって、頬を緩める。
「いいよ。というか、ゴミは捨てられるまで、その人の家にいるものだろ」
青年はぱちくり、と何度か瞬きを繰り返した。そうしている間に、染み込むように男の言葉を理解したのか、驚きの表情がゆっくりと笑みに変わる。
「んはっ……おれ、こんなに優しいゴミ扱い、初めてかも」
「奇遇だな。俺も、喋るゴミを拾ったのは初めてだ」
男が言うと、青年はさらに顔をほころばせる。自分の言葉が誰かを笑顔にするのがうれしくて、男も笑った。二人分の、内緒話のようなささやかな笑い声が、更け始めた夜の空気に溶けていく。
こうして、人を遠ざけてばかりの小説家と、人から捨てられてばかりな観賞用のゴミの、同居生活が始まった。
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君を欲しがる貝の名は 甲池 幸 @k__n_ike
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