第2話 やどかりせんせぇとタンス預金が気になる編集

「え。それで、ほんとに家に置いてきちゃったんですか!?」

 屋戸の住む家から鈍行で二駅、駅からは徒歩五分の場所にある喫茶店に担当編集の大きな声が響いた。周りの人々のおしゃべりの声がぴたりと止んで、大半の視線が屋戸と編集に向く。その居心地の悪さに歪む顔を隠すようにして、屋戸は白いカップに口を寄せた。ずず、とブラックコーヒーをすする。

「俺の家に何を置いてきたって自由だろ」

 それよりもさっさと提出したプロットを確認しろ、と屋戸はテーブルの上に置かれた紙束をこつこつと指先で叩いた。だというのに、編集はぐいっと屋戸の方に身を乗り出す。

「そりゃ、猫でも犬でも人でも勝手に拾えばいいと思いますけど、でもだって先生、金の置き場までゲロって来ちゃったんでしょ!? そんなの空き巣に家の合鍵あげるようなもんじゃないですか!」

「あれは空き巣じゃない。観賞用のゴミだよ」

「ゴミなら尚更金の置き場所なんて教えちゃダメじゃないですか……」

 編集はぐったりとテーブルの上に項垂れる。何がどうしてそんなに不満げなのか分からなくて、屋戸はテーブルの下で足を組み替えた。現在の屋戸は、散歩のときに着ていた藍色の浴衣と下駄ではなく、麻で出来た白い丸襟のシャツに紺色のストレートパンツを合わせた現代風の格好だ。一応仕事だからと、百均のゴムで髪もくくっている。『わー、やどかりせんせえ、髪しばると雰囲気変わんだねぇ』『そうか』『うん。かわいー感じ』『それ、褒めてるのか?』『もち』家を出るときにそんな会話をしたことを伝えたら、この編集はいったいどんな声で鳴くのだろう。それはそれで愉快なものが見られる気がしたけれど、背景に洋楽の流れているカフェでやるべきことではないから、屋戸は小さく息を吐くに留めた。

「よし、今から帰りましょう。先生」

 ぐったりと首を垂れていた編集が今度は勢いよく顔をあげる。「やだよ。今来たばかりだし、そもそも仕事の話が終わってない」屋戸は編集の言葉をばっさりと切り捨てて、酸味の強いコービーを一口、ゆっくりと嚥下した。後を引く苦みが心地いい。

「仕事の話なんてしてる場合じゃないですって。こうして喋ってる間にも先生の金がどこの馬の骨とも知れない奴に盗まれてるかもしれないんですよ?! そんなのっ、そんなの俺……」

 両手をテーブルについて身を乗り出したかと思えば、編集は涙目になって屋戸を見上げた。男性でも背の高い部類に入る屋戸よりもなお図体がデカい男の上目遣いなんて、早々みられるものではない。屋戸は特に話も聞かず、貴重な資料として、スマホの代わりに持ってきたミラーレスカメラで何枚か写真を撮った。優秀な編集は騒がず、慌てず、きゅるんとした顔を維持し続ける。表情筋をどうやって鍛えたら、その顔ができるようになるのか本気で不思議だ。

「あ、終わりました? ちゃんとイケメンに撮ってくれました?」

 屋戸がカメラをしまうと、編集はすくっと起き上がって生クリームののったココアに口をつける。

「被写体が美しい顔をしていないのに写真だけ急にイケメンになるわけないだろう」

「あちゃー。先生とは顔の好みが違いますか」

「君の好みを知らない」

「俺的には俺の顔、めっちゃイケてるんで」

「そうか。じゃあ違うな」

 編集の顔も悪くはないと思うが、屋戸にとっての『美しい』顔ではない。

「って、そんなことはどうでもいいですよ、今」

「今じゃなくてもどうだっていいと思うが」

「そんなことはないですけど、じゃなくて。俺もう、先生の金が心配過ぎて打ち合わせどころじゃないです。早く帰りましょう。金の存命を確認しましょう」

「あいつが盗んだとしても現金は別に死なないだろう。少し、遠くへ行くだけだ」

「少し遠くへ行ったらもう死んだのと同じじゃないですか!」

 ね? 先生、お願いですから。後生ですから。まじでなんでもしますから。

 そう、必死の形相で頼み込む編集に根負けする形で、屋戸は結局、住宅街の端っこに建つカフェを後にした。

 行きはひとりだった道のりを編集と二人で足早に――編集がほとんど小走りだったせいだ――通り過ぎ、屋戸はほんの一時間ぶりに古民家の前に立った。建付けの悪い横開きの玄関を、住み始めてから二か月かけて習得したコツを頼りに開ける。

「まっってください。先生、出かけるとき、鍵かけない派なんですか?! タンス預金してるのに!?」

「いつもはかけるよ」

 今日は、中に拾いものが居たから、かけられなかっただけだ。鍵をかけてしまったら、まるで、彼を閉じ込めているみたいだと、そう、思って。なんとなく、鞄の奥底にしまい込んでしまった。「先生?」編集に声をかけられて、家を出るときの葛藤を振り払うようにかぶりを振る。「なんでもない」答えながら、一歩、先に玄関に入る。

「え」

 そこに、傷だらけの革靴はなかった。青年の靴を置くために屋戸の靴を寄せて作った空白だけが、ぽっかりと玄関に染みついている。屋戸は乱暴にスニーカーを脱ぎ捨てて家に上がった。後ろから編集の戸惑った声が聞こえた気がしたけれど、耳の奥で鳴る鼓動がうるさくて脳までは届かない。

(なんで。どこに。どうやって)

 床に散らばるゴミを踏みつけて、一番手前の部屋のふすまを勢いよく開く。そこにも、青年の姿はない。あの、美しい顔が、見つからない。ずんずんと進んで、次の部屋、その隣、ここから先はもう縁側だけ。最後のふすまに手をかけて、屋戸は思わず動きを止めた。自分の手がかすかに震えているのが目に入る。

(べつに、あいつが出ていったからって、俺の生活に変化はないじゃないか)

 頭の中で、冷静な声がする。屋戸は細く息を吐いてから、ぎゅっと目をつむった。震える手を一度握りしめて。勢いよく、ふすまを開く。

「あ。やどかりせんせえ、おかえり。言ってたより早かったねー」

 呑気な、声がした。男はそっと目を開く。

「ん? どしたの? せんせ、顔真っ青だよ」

 そろり、と息を吐いた。馬鹿みたいに心臓が鳴っている。階段から落ちそうになった時に、間一髪、手すりを握りしめたときの感触に近い。全身から力が抜けて、男はその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。

「やどかりせんせえ? どしたの? ほんとに具合悪い? おれ、救急車呼ぼーか?」

「緊急事態でもないのに呼ぶな」

「んは、元気そー。よかった」

「こんなところで、何してたんだ」

 膝の上で組んだ腕に額を預けたまま、男は青年に問いかける。別に、なんだっていいのだけれど、なにか。自分が焦るに足る理由があって欲しかった。

「んー? なにって。せんせの本、太陽の下で読んだ方が気持ちい気がしたんだよねえ」

 青年の言葉で、男はゆっくりと顔をあげる。真顔でいれば、精緻な彫刻のように美しい顔を、溶けた砂糖菓子のように緩めて、青年は笑った。見ている方まで、思わず気が抜けてしまうような笑みだった。男は、焦っていた気持ちも正体不明の苛立ちも、ぜんぶすっきり溶かされて、息を吐くように笑う。

「そうか」

「ん」

 頷く青年が両手で包み込むように本を抱えている。書いたものを、大事にしてもらえるのは素直に嬉しかった。「先生―? 空き巣は逃げた後だったんですかー?」玄関の方から、叫ぶような声がする。その時になってようやく、屋戸は編集を置き去りにしていることに気が付いた。

「おれ、席外した方がいいやつ?」

「いいよ、別に。ただの仕事相手だから」

「ふーん」

「先生ー? ってウワッ、汚っ!!」

 編集の罵倒に似た鳴き声がだんだんと近づいてくる。開けっ放しになっているふすまから屋戸の姿を見つけた編集はゴミの上を跳ねるようにして、縁側へと進む。「そんなに嫌か?」「やですよ。ま、俺住んでないんで別にどうでもいいですけど」「そこは興味ないのか」「はい、ないですね。俺はゴキブリと同居とか絶対やですけど。先生がしてる分には別に。おもろいので」同じ生活にまつわる話なのに、家に見知らぬゴミを置いてきたと話した時とは、まったく違う温度感だ。

「それで? 空き巣はいました?」

「最初から居ないよ、そんなやつは」

「え。金、盗られてなかったんですか?!」

 編集はぱあっと顔を輝かせる。

「君、なんでそんなに俺の家の金を気にしてるの。狙ってるわけ?」

「狙ってるわけないじゃないですか! ただ、どこぞの空き巣にくれてやるくらいなら俺にくださいよ! って思ってるだけで!」

「遠回しに狙ってるじゃないか。危ないな」

 屋戸が冷静に突っ込むと、編集は「狙ってないですって!」と顔の前で両手を振った。必死過ぎて逆に怪しい返答だ。屋戸は今後、彼には預金しているタンスの場所を明かすのをやめておこうと心の中で決意する。そこそこ信頼している編集に金を盗まれるのは、どこぞの空き巣に盗られるよりもダメージが大きい。

「先生、その顔は全然信じてないですね?」

「あぁ、うん。だって君、お金のためなら犯罪のひとつやふたつ犯しそうだから」

「俺はギャングじゃなくて社会人です、まっとうな!」

 叫んで、編集はがっくりと肩を落とした。「ま、いいや。先生の金が無事ならそれで」「だから君は、なんでそんなに俺の金を心配してるんだよ」屋戸の言葉に、編集はぽかん、として目を瞬かせる。

「そんなの決まってるじゃないですか。先生にちゃんと生きて、小説書いてて欲しいからですよ」

 八重歯をのぞかせて、編集が笑う。夏の空のような、邪気のない笑みだった。

「だって俺、先生の小説のファンですから」

 屋戸はわずかに頬を緩める。

「そうか」

「あ、ちなみに、このプロットも天才的でした。これで進めてください」

「あぁ。ありがとう。じゃあまた、ひとつき後の十時に」

「いつものカフェですね。じゃ、お願いします」

 鞄から取り出した手帳に予定を書きつけて、ゴミの上を通るよりマシだと判断したのか、編集は縁側から外にでて、草の生えた庭を通って玄関へと向かった。その背を呆然と見送った青年がぽつりとつぶやく。

「嵐みたいな人だねー」

「そうだな」

 でも、仕事はきっちりできるのだから、憎めない編集だ。

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君を欲しがる貝の名は 甲池 幸 @k__n_ike

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