君を欲しがる貝の名は

甲池 幸

第1話 小説家と観賞用のゴミ

 かつん。つま先が何かを蹴飛ばして、男は空を見上げていた視線を地面に向けた。

「…………人間?」

 の、足が、どうやらゴミ捨て場から少し飛び出しているようだ。どうしてゴミ捨て場に人間が? と男は首をかしげる。男はそのまま、人間の足を伝って視線を動かした。傷だらけの黒い革靴。青いスラックスに包まれた棒のような脚。皮ベルトで強調された細い腰。ポケットから万札が少し飛び出した青いジャケット。ボタンが上から三つ外された白いシャツ。無防備にさらされた喉元。

「わァお、綺麗なゴミだ」

 視線でたどった最終地点、そこにあった整った顔に男は思わず、そうつぶやいた。

「んはっ。そー、よく分かんね。おれ、ゴミなの」

 綺麗な顔の青年は男の言葉に気を悪くした風でもなく、笑ってそう告げる。根元が茶色い金髪は前髪が長く、青年のこげ茶色の瞳に影を落としていた。男は、なんだか興がのってしまって、珍しく笑みを浮かべて口を開く。

「おはよう、綺麗なゴミくん」

 青年はぱちくり、と瞬いたあとでまた、ゆるりと顔をほころばせる。

「おはよー。ゴミに挨拶とか、変わった人だねえ」

「ところで、提案なんだが」

 男はいまだ、積みあがったゴミ袋の上に寝そべったままの青年にまっすぐ、右手を差し出した。

「きみ、俺に拾われてみないか」

 ただ、なんとなく、疲れたときに、この綺麗な顔を見たら、少し頭が冴えそうな気がしたから。ただ、なんとなく、初対面で『ゴミ』と言い放った自分の言葉選びの悪さに物おじしない人間が珍しかったから。

「ぶはっ。まぁじで、変な人だね。あんた」

 そう言って笑いながら、青年は男の手を取った。振り払うことも、ためらうこともせず、ゴミに意志はないのだと、言うように。

 そんな経緯で、男は、梅雨前の、まだ冷たい朝の中、不夜を謳う歌舞伎町のゴミ捨て場から、観賞用のゴミを拾ってきたのだった。



「んじゃ、やどかりせんせえ、だねぇ」

 男が拾ってきた観賞用のゴミは、男の部屋に散らばる紙束の中から一冊の本を取り上げていた。「これなぁに」と聞かれた男が「俺が書いた本だよ」と答えると、そこに書かれた著者名を高らかに読み上げる。「やどかりま」『やど』が苗字で『かりま』が名前なのだと説明するのも面倒で、男はてきとうにうなずく。そして、次に返ってきた言葉が冒頭のセリフだった。なにがじゃあ? なのか、なにが「やどかりせんせえ」になったのか、まるで分からない。男は長机の上でせわしなく紙に文字を書きつけていた手をとめて、青年に視線を向けた。観賞用のゴミは、部屋の中の大小さまざまなゴミの中でちょこんと体育座りをしている。

「せんせえが家貸してくれんのに、宿借りってのも、変だけど」

 その言葉を受けて、男はようやく『やどかりせんせえ』が青年の中で自分の名前として定着したことを知る。この世界に自分の家はなく、どこに行っても『宿を借りている居候にしかなれない』なんて、自分の傷を自分で抉るようにしてつけたペンネームを、きちんと『宿借り』として読み取られたのは初めてだった。

「別に、呼びたいように呼んだらいいよ」

「おっけー。じゃ、やどかりせんせえ、ね」

 ぷい、と視線をそらして答えると、ゆるい返事がある。それきり黙ってしまった青年を男は横目で窺う。眠らぬ夜の街、歌舞伎町が微睡む様を見たくて、日課の朝方の散歩で少し遠出をした結果、うっかり拾ってきてしまった青年は、きょろきょろと辺りを見回している。

 男が住むのは、郊外の入口に立つ古民家だ。

 小説家としてデビューが決まった際にもらった新人賞の賞金で、ちょうど買える金額だったのを、特に精査もせずに買い取った。お風呂がタイル張りで丸く、時折屋根の上で何かの生き物が駆け回る音が聞こえるのがお気に入りポイントだ。雨戸は試しに一度開けたら二度と閉まらなくなったけれど、冬はどうせ着込んでいるので大きな問題はない。夏になると家中の隙間から蚊が入ってくることだけは玉に瑕だが、それ以外は概ね好きだと言える、素敵な宿。

 一通り眺め終わったらしい青年は、特に感想を述べるべもなく、今度は両手に収まっていた男の著作を読み始める。昨年末に映画化された、男の代表作のひとつだ。美しい深い青の表紙の上で『今日、この雨が止んだら』という題名が躍る。

「ね、やどかりせんせえ」

「なんだ」

「これ、なんて読むの?」

 ゴミを丁寧にかきわけて傍に寄ってきた青年が指さしているのは二ページ目の最初だった。多くの読者にとってルビの必要がないであろう単語を前に、男はじっと青年の顔を見つめる。

「お前、話し方が馬鹿っぽいわけじゃなくて、本当に馬鹿なんだな」

「んえー? ゴミに読み書き求める方がハードじゃない?」

「……そうか」

 青年の主張に男は心の底から「確かに」と納得してうなずいた。それから少し手を伸ばして、緑の背表紙の辞典を引き寄せる。男が小学校の時に使っていた漢字辞典だ。

「これで調べろ」

「どやって使うの?」

「画数……」

 説明しかけた男は、結局口をつぐんで、自分のスマホを青年に手渡す。この青年に漢字辞典の使い方を教えるよりも、多少のプライバシーの侵害に目をつむる方がずっと楽だと気が付いてしまったからだ。

「あ、おれ、これは使い方わかるー」

「だろうな」

 夜の街のことには詳しくないけれど、派手な髪とピアス、そのうえでスーツを着ているのはホストくらいだろう。ホストの仕事には客との密な連絡も含まれていると聞く。

「パスは?」

「0823」

「せんせの誕生日?」

 聞かれて、男は一瞬、言葉につまった。確かに、その四桁の数字は誕生日、ではあるのだけれど。決して、男の物ではない。

「お、あいたー」

 青年は特に深い興味もなかったのか、男の返事を待つことなく、スマホで読めない漢字を写真に撮り始める。それからいくつかの捜査を経て、ようやく単語の読み方がわかったらしく「ほへー、街、ね。こんな漢字もあんだー。おれ、簡単な方しか知らなかった」と笑ってから、男にスマホを差し出した。

「いい。どうせまた読めないのがあるだろうし」

 なんせ『街』以外の漢字も山ほど出てくるのが小説というものだ。青年はぱちくりとゆっくり瞬いてから、唇を横に広げた。その表情は、下がり眉で、どことなく困ったように見えるけれど、笑みの一種ではある。

「なんだ」

「やどかりせんせえ、知らないやつにスマホ預けっぱはどうかと思うよ、おれ」

「別に見られて困るようなものは入っていない。それに君、ゴミなんだろう? ゴミは、悪さしない。部屋に好き勝手に転がるだけだ」

 この部屋に転がる、いくつもの紙束と同じ。油の切れたライターと同じ。短くなった吸い殻と同じ。もう電池をいれても動かないおもちゃと同じ。男にとって良いこともしてくれないけれど、別に悪さもしない。ゴミは、すでに役割を終えて停止した物体の総称だ。

「…………んはは、せんせえ、やっぱ変わってんね」

 青年はなぜか、うつむいてスマホを握りしめながらそう言った。男は長い前髪で綺麗な顔が見えなくなったことだけを残念に思いながら、それを口には出さず、机上の紙束と向き直る。ほとんど白紙のそれらを埋めていく男のペンの音と、すぐそばに寄ったまま戻らない青年のページをめくる音だけが、蝉の声に重なって六畳一間の部屋に溶けた。


「え。それで、ほんとに家に置いてきちゃったんですか!?」

 屋戸の住む家から鈍行で二駅、駅からは徒歩五分の場所にある喫茶店に担当編集の大きな声が響いた。

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