世界を操る水の砂

蜜柑桜

星の訪れを告げる砂

 さらり、と軽い音を聴いた気がした。

 少女ははっと顔を上げる。枕がわりにした手の甲に当たっていた頬に少し痛みと熱が残る。案の定、目の前の紫紺色の球体に映る顔は赤いあとが出来ていた。

 しかし少女は自分の顔がそんな状態になっているのには全く気が付かない。

「光った?」

 それよりも、いよいよ濃さを増す球体の表面を食い入るように見つめる。

 吸い込まれそうな濃紺の中に、一筋の閃光。見間違いと思っても仕方のない一瞬の煌めき。しかし通り過ぎた光の線は、少女の輝く黄色の瞳を確かに通った。その証拠に球面上でそれが見えなくなっても、眼球の後ろに残像が残る。

 だが、まだ一回。閃光はただの一回にすぎず、世界を一巡りするには足りないはずだ。

 しかし、確かに一回。果てしのない間、ついぞ見なかった光が現れたのなら、兆しだ。

——『最初の光の筋は、脈動だよ』

 もう会えない人がそう言った。

 石壁に囲まれた部屋を、卓上のランプの光が半円状に照らし出す。少女はぐるりと首を回した。壁のある一点で、その灯火が作った輪と水色の光輪が重なりあい、鮮やかな緑色を作り出している。

 新しく生まれた草の色。この地で皆が待ち望んだ、命芽吹く色。

 さらにその生命の源となる水の色へ向かって、少女はバネの如く駆け寄った。背伸びをして高い位置に造りつけられた棚へ手を伸ばす。なかなか届かないのに痺れを切らしてついには跳び上がり、目的のものを掴み取る。

 手の中に収まった次の瞬間、少女はそれをひっくり返した。

「落ちてる」

 手のひらに包み込んだガラスの中で、水色に輝く砂が少しずつ落ちている。木目の見える柱に囲まれてずっと壁際に佇んでいた標は、前の主人から少女に託された世界の指標だ。

 この世界が厚い雲に覆われ、空が星という光を見せなくなってからどれほどの時が経ったのか。奇跡的な瞬間を掴めるのは何十年に一回、あるかないか。しかしその一回を確実に掴めば、世界は変わる。

 その一回を掴む——それはすなわち、兆しとともに世界の指標を操れるかどうか。

 世界の指標が兆しを掴めば、動き出す。そして万物の調べと同調すれば、水の砂はいつまでも落ちるという。

 止まってしまった世界と同調するかのように、重力に逆らい、どんなに待っても落ちることのなかった水の色がいま、流れを作り出した。

「始まる」

 時計というものが他に無かったこの空間に、時の流れが生まれた。

——光の筋と水の筋。二つの脈が動き出したら、天が動く。

 球体を覆い尽くす紺色の中に、一筋、二筋、刹那的に生まれる光の帯。ある時は針のように、あるときは糸のように、朧げながらのものもあれば、はっきりと煌めいて消えるものもある。だがいずれも確実に球面を走り、そしてそれらは次第に数を増している。

「始まる」

 少女は卓上に置いた砂時計の上をそっと指で押さえると、煌めきながら線を作る水色の粒をじっと見つめた。

 ゆるやかに波打つ青色の髪がガラス面に映り、砂の色をうっすらと濃くする。水の深い深いところの色と同じ髪色と太陽の瞳を持つ者にしか、この砂時計は持ち得ない。たゆたう海と似た柔らかな髪と、温かで強い瞳の色は、自然と通じる者の証。

 ただし、少女の記憶にない遥か昔に、世界が空の動きを忘れてしまってから、唯一無二の色を持つ者も役目なく何代も経ていたのに。

 やっと来たのか。

 食い入るように砂を見つめる。ガラスの中で生まれた動きが聞こえるはずはないのに、少女の耳には世界の脈動を告げるしるしが鼓膜を震わす錯覚があった。

——また光った。

 今度はやや強い閃光が球面に走る。それは砂がいくらか落ちる間、濃紺の世界を横切った。先ほどまでよりずっと長い。

 それが合図だったのか、突如、煌めきがいくつもいくつも、瞬く間に球面のあちこちに線を引く。あちらが消える前に今度はこちらに、絶え間なく、重なり合い、激しさを増して。

 来る。

 もはや予感ではなく、確信。

「——雷鳴」

 少女の発語が終わらぬうちに、轟きが空気を震撼させた。

 石の壁が揺れ、卓上の砂時計が軽く弾む。咄嗟に手で囲むと、いまや水の色が見えなくなるほどに発光は烈しく、木の柱を超えて少女そのものを飲み込むように。

——『嵐が起これば空は再生する』

 頭上で叩きつけるのは石礫のようなけたたましい音の襲来は、初めて経験する雨音か。

 それとも聞こえているのは、世界の再生に対して高鳴る胸の鼓動か。

 全身を包み込む轟音が少女の小さな体を小刻みに揺らし、時折の爆音が鼓膜に圧をかける。石壁の向こうは目に見えないが、球面の閃光がどんどん激しさを増していく。

 水の色が落ち切るまで、あと数秒。

 球面を光彩が覆い尽くす。

 轟音が止み、身体が束縛から解放される。

 少女は知らずのうちに扉を開けて駆け出していた。

 


 


 見上げた遥か先で、ひときわ清い煌めきが走る。

 暗く分厚い雲の間を、光の粒が横切った。


「あれが、流れ星」

 

 筋が通り過ぎた空間に、無数に輝く星々。 

 空は再び動き、世界が息を吹き返している。


「掴んだ……」


 大気が孕む湿気は、命の水と同じはず。

 風が少女の髪の毛を巻き上げる。雲の間が見る間に開いて、煌めきが惜しみなく降ってくる。



 胸に抱いた時計の砂は、いまなお流れ続けていた。



——了。それともこれは、始まりか。

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世界を操る水の砂 蜜柑桜 @Mican-Sakura

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