クリームソーダとラフロイグ
未来屋 環
まるで正反対な俺たちは
――君とまた、あの場所に行けたら。
『クリームソーダとラフロイグ』/
「いらっしゃいませ」
穏やかに投げかけられる声に、俺は片手を挙げて応える。
火曜日の夜だからか、店内に俺以外の客はいなかった。
「すみません、ちょっとバタバタしていて最近来れなくて」
「とんでもございません、お越し頂きありがとうございます。いつものでよろしいですか?」
「はい、いつもので」
カウンターに座ってそう言うと、アロマの香るおしぼりを差し出したマスターは上品な
ドリンクの準備をするマスターの背中を眺めながら、俺は彼女を初めてここに連れてきた時のことを思い出していた。
***
「私、バーに来るの初めてです!」
彼女が入社して初めての案件だった。
無事受注できたことを祝して開催された飲み会のあと、指導員だった俺は少し背伸びしてこの店に彼女を連れてきた。
実は俺も、この店には課長に連れられて来たことしかない。しかし、落ち着いた雰囲気がとても心地良くて、アルコールの勢いにも背中を押され彼女を誘ったのだ。
「ここ、よく来るんですか?」という問いに、俺は「まぁね」と答える。このくらいの
店内に入ると、マスターがこちらに視線を投げかけ「いらっしゃいませ」と穏やかに微笑む。
できるだけ堂々と見えるよう胸を張ってカウンター席に座ると、彼女も俺の隣にちょこんと座った。
「何飲む?」
「えっと……」
彼女がメニューを眺めていると、マスターが「アルコール弱めのものや、ノンアルコールのものもありますよ」とさりげなく言う。
すると、彼女の表情が明るくなった。
「そうなんですね。私お酒そんなに強くないので、嬉しいです」
彼女の答えに一瞬俺は息を呑む。
しまった、まさか無理矢理連れてきてしまっただろうか――そう内心後悔をしていると、彼女は「あっ」と明るい声を上げた。
「懐かしい、クリームソーダあるんだ!」
「ございますよ」
「じゃあ、私クリームソーダで。先輩、いいですか?」
きらきらした瞳で俺を見上げる。
その表情は薄暗闇の店内にあっても明るさを
「
「かしこまりました」
聞き慣れない言葉なのか「らふろいぐ?」と呪文のように唱えて首を
そんな彼女を横目に見ながら、俺は「うん、うまいよ」とあたかも自然なことのように言った。
「お待たせしました、クリームソーダとラフロイグです」
俺たちの目の前に置かれたのは、目にも鮮やかな緑色のドリンクと、シックで落ち着いた金色のドリンクだ。彼女の目が輝いた。
「わぁ、豪華ですね」
確かに、彼女の前のクリームソーダは俺が知っているものよりも随分と華やかだ。
グラスを満たすメロンソーダは瑞々しく、小さな泡がぷくぷくと立ち昇っては消えていく。
中にはサイコロ状に切られた色鮮やかなフルーツがごろごろ入っていて、薄切りのレモンが2枚グラスの内側に貼り付けられていた。
彼女が「お花みたいで綺麗」とはしゃいでいると、マスターが「中にはいちじく、マンゴー、ベリーが入っています」と穏やかに補足する。
水面には黄色味のあるバニラアイスが載せられていて、その
「じゃあ、乾杯するか」
「はい、乾杯」
折角のクリームソーダが崩れないように、俺が彼女の方にグラスを寄せてカチンと鳴らす。
ラフロイグを一口。独特な香りを楽しみながら、スモーキーさをふわりと味わう。
課長が飲んでいるのを
今ではこの店に来る度に頼んでいる。
「先輩、それ何ですか?」
「ウイスキー。一口飲んでみる?」
そう言って差し出したグラスを、彼女はすんなりと受け取り一口、そしてなんとも言えない顔をした。
「……なんていうか、あの――」
「
「……それ言ってよかったんですか?」
「うん、俺も最初そう思ったし。でもまぁ、これが大人の味ってもんよ」
「へぇ、先輩かっこいー」
冗談交じりの一言とはわかっていつつも、内心どきりとする。
そんな俺の心の
チェリーをつまんでぱくりと口に入れる。もぐもぐ口唇を動かしたあと、種を遠慮がちに取り出す
不意に彼女がこちらを見つめ返す。
俺は慌てて視線を逸らし、ラフロイグを飲んだ。
「――私、好きなものは先に食べるタイプなんです」
「……ふぅん」
できるだけ感情を抑えてそう返す。
横目で様子を
***
懐かしい記憶に揺られながら、俺はラフロイグを飲み干した。
結局、彼女とこの店に来たのはあれが最初で最後だ。もう7年程前になる。
――あれから、色々あった。
煙草の煙を吐いてから、マスターに新しいドリンクを注文する。
ドリンクを作る背中を見ながら、俺はこの7年間に思いを巡らせた。
あのあと別のラインに異動した彼女が次々と成果を上げたこと、若手のエースとして抜擢され1年間イギリスに行ったこと、帰国してからも忙しい日々を送っていること――どんどん前に進んでいく彼女は
それに比べて俺は随分と気楽なものだ。
煙草を灰皿に押し付けたところで「お待たせしました」とマスターの声がした。
目の前に置かれたのは、クリームソーダ。
あの日彼女が目を輝かせていた逸品だ。
早速ストローで一口。
人工的な甘みが俺の内に眠る郷愁を掻き立てる。
果物のメロンとは似ても似つかないように思うけれど、メロンソーダといえばこの味だ。
チェリーを
『――私、好きなものは先に食べるタイプなんです』
確かに彼女はそういう生き方をしている。
一方、俺は好きなものを最後に残しておくタイプだ。
バニラアイスを食べ進めていく内に、シャーベットのようにざりざりと固まった部分に行き着く。
アイスと氷がくっついたこの部分も俺の好物だ。
だが、こればかりは残しておくわけにもいかず、
メロンソーダを
メロンソーダを啜って、マンゴーを食べる。
メロンソーダを啜って、いちじくを食べる。
順番に順番に、フルーツのバランスが悪くならないように、そして好物があとに残るように。
あの時彼女はどうやってこのクリームソーダを楽しんでいただろうか。
きっとこんなちまちまとした食い方はしまい。
――そう、まるで俺たちは正反対だ。
「ごちそうさまでした。マスター、お会計で」
チェリーまで食べ終えてから声をかけると、マスターが「ありがとうございます」と穏やかに微笑み、レシートと共に小さな紙袋を差し出す。
「こちらお荷物になってしまって申し訳ないのですが、よろしければどうぞ」
中にはオレンジ色の液体で満たされた瓶が入っていた。
カラフルなフルーツがごろごろと入っていて、まるで先程俺が飲み干したクリームソーダのようだ。
首を傾げた俺に、マスターが「こちら、コーディアルです」と続けた。
「お水や炭酸、お湯で割って飲むシロップのようなもので、身体にいいんです。ノンアルコールですので、是非――奥様とお楽しみ頂ければ」
驚いて顔を上げたところで、マスターの穏やかな眼差しが俺を捉える。
「お子さんのご誕生おめでとうございます。またいつか、奥様とご一緒にいらして頂けることを楽しみにしております。その時は、クリームソーダのチェリーを増量してお出迎えしますね」
――そう、この店に来る度に俺はマスターに近況を伝えていた。
3年前に彼女と結婚したことや、思い返せば前回来店した時にはもうすぐ子どもが生まれることも。
子どもが生まれて3ヶ月、とてもこの店に来る余裕などなかった。できる限り仕事を早めに切り上げ、妻であり母となった彼女と共にバタバタの毎日を送っている。
今日はたまたま外せない顧客との会食があり、彼女に「たまには気晴らししてきなよ」と背中を押してもらって、この店に立ち寄ったのだ。
――覚えていてくれたんだ。
俺のことは勿論、一度しか来ていない彼女のことも。
久々にアルコールを飲んだせいか、じわりと胸の奥と目頭が熱くなった。
「……ありがとうございます。必ずいつか連れてきますよ」
そう言葉を絞り出した俺に、マスターは穏やかに微笑む。
瓶の中でチェリーがきらりと赤く輝いた気がした。
(了)
クリームソーダとラフロイグ 未来屋 環 @tmk-mikuriya
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