コーヒーフロート

さかな

第1話:コーヒーフロート

心地のよい夢を見ていた気がする。まどろみの中で聞きなじみのある電子音が 耳をかすめ、また夢へといざなうかのように機体が揺れる。長かったフライトももうすぐ終わりを迎え、じきに着陸する。窓の外に目をやると、白い雪が舞う街が見えた。 2023年も終わりに近づき、有給を使っている私と違い、街には年の瀬の慌ただしさが漂っている。飛行機は、そんな街へと静かに降りていく。


飛行機が着陸すると、着陸を知らせるシートベルトサインが消え、機内のスピ ーカーからBGM が流れ始めた。高揚感の中に切なさを感じるような演奏の「Another sky」だ。その演奏はいつも、日本に来たことを実感させてくれると同時に、色々な記憶と、感情を掻き立て、私をこの国へと吸い込んでいく。Another sky のメロディーが頭に残る中、私は足早に近くのカフェへと向かった。


「クリームソーダ一つを、チェリー抜きでお願いします。」


年が同じほどの、横顔が綺麗な男の人がそんな風な注文をして、私の番が回っ てきた。クリームソーダを頼むのにさくらんぼを抜く人がいるのか、と少し動揺する気持ちを抑え、私はコーヒーフロートをさくらんぼ付きで注文をした。しばらくすると、赤く真ん丸なさくらんぼを乗せた、いまにもあふれそうなコーヒーフロートが運ばれてきた。日本に来るとなぜかコーヒーフロートが飲みたくなる。特にこれといった理由はないが、抹茶ラテやミルクティーなどではなく、コーヒーフロートなのだ。コーヒーがあふれない様にアイスクリームを掬い、口元へと運ぶ。そして、アイスが解けきる前に、冷たいコーヒーでそれらを流し込む。目の奥に広がる冷たさと、苦味に包まれた甘さが、言葉にしがたい日本での記憶をふと呼び覚ます。思い出すたびに、どこか胸が締め付けられるような、ほころぶような、独特の感覚が蘇る。


2018 年 12 月


これは何かの悪い夢だろうか。私の国では長期休暇のはずなのに、言葉も知らない国の学校のために、私は向かっている。それも親の都合で。一晩はあっただろうフライトで一睡もできずに、機体は私を地獄へと導くかのように激しく揺れ、着陸へと入る。窓の外へ目をやると、12 月の鬱蒼とした雲が雨を垂らしている。着陸してす ぐ、焦燥感とミゼラブルが織り交ざった旋律のBGMを片耳に、足早に親戚の家に向かう。すぐに始まる日本の高校へ備えるためだ。


私は日本語が話せないのに、なぜここにいるのか。私は今、教室の前に立たされている。30 人はいるであろう同年代の前に。


「じェ蟾ア邏ケ莉九〒できる?」


先生はそう、私に何かを尋ねるが言葉を理解できない。状況から鑑みるに、十 中八九、自己紹介だろう。 「~できる?」というのは、日本語でお願いをするときの言 い回しだし、私の横にくるように、私の名前が黒板に書かれているからだ。私は自己 紹介をした。特に拍手をしてくれるわけでもなく、私の名前を呼んでくれるわけでも なく、皆が頭をそろえて、同時に下げる。なんとも言えない不思議な間ではあるが、 私も真似をするように頭を下げる。先生が、教室に一つだけ空いている机を手で指し ている。あれが私の机なのだろう。この国では、男女がペアになるように席が配置さ れている。これもまた不思議な事だと思う。席に着くと同時に、隣の席の人を見てみ た。彼のまつ毛は日本人にしては長く、鼻筋が通っていて綺麗だった。そんなことを 思っていると、彼と目が合った。気恥ずかしいさのあまり顔をそむけてしまった。


クラスが終わり、昼ごはんの時間になった。正直なところ、この時間が一番辛い。誰も話しかけてくれず、私も話しかけられない。こんなことになるなら日本語を学んでいればよかった。今更、そのようなことも思っても仕方ないので、昼ごはんのデザートとして持ってきたチェリーを食べて自身の機嫌を取ることにする。


「 縺輔¥繧峨sぼ、おいしい?」


不意の出来事に動揺したが、最後のフレーズは聞き取れた。顔を上げてみると、 隣の席の彼がいた。彼の指は私のチェリーを指している。このチェリーが「おいしい」 かどうかを聞いているのだろうか。チェリーは私の大好物なので、私は首を縦に振っ た。


「縺昴l縺ェ繧、峨縺霑代おいしい繧峨s縺シ、縺檎いこう」


何かが「おいしい」らしい。ポカンとしていると、彼は右手を大きく振って「カモン、 レッツゴー」などと言い始めた。周りはクスクスと笑っている。視線が冷たい。ここにいても仕方がないので、私は彼についていくことにした。おいしい何かを楽しみにして。


このカフェに着くまでの道中、彼の話はほとんど理解できなかったが、二つだけ分かったことがある。一つは、彼は私に優しくしてくれていること。もう一つは、 日本語でチェリーは「さくらんぼ」ということ。席に着いた彼は、メニューを取ると緑の飲み物を指さし、何かを言っている。言葉も知らない国で緑のドリンクを飲めるほど、私は勇敢ではない。私は、彼が指さすものの隣のドリンクを選んだ。彼は少し 困った表情をしたが、悩んだのち、緑の飲み物を注文した。


しばらくしてドリンクが届いた。彼が注文した得体のしれないドリンクにはアイスクリームとチェリーが乗っていて、私のものはコーヒーフロートだった。コーヒー単体だと苦くて飲めないが、アイスクリームがあることで、その苦みが心地よく感じる。そんな風にコーヒーフロートを楽しんでいると、彼がふと私の目を見つめ、チ ェリーをそっと差し出した。


「さくらんぼ、あげるよ。」


そう言った彼の眼の奥は誰よりも暖かく、その視線は私の眼の奥を真っすぐに捉えて いる。冷え切った私の眼の奥はすぐに温かみを取り戻した。口に含んだアイスクリー ムが溶けてなくなり、グラスを支える左手には、あふれたコーヒーが手の甲を優しく 撫でるように滴っている。私はお礼も言えず、ただ首を縦に振ることしかできなかっ たが、思わず笑みがこぼれた。すると彼は何も言わずに微笑み返してくれた。こんな ことになるなら、日本語ができなくてよかったのかもしれない。

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コーヒーフロート さかな @SakanaChicken

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