第4話

 昼食後の休憩時間に、リクが手招きしてサキを呼ぶ。


「どうしたの、リク?」


「ちょっと見て欲しいものがあるんだ」


 陸について歩いていく。どこからか楽器の音が聞こえてきた。廊下の先にあるのは音楽室。吹奏楽部にしては音程が外れた初心者のような演奏だし、そもそも部活の練習なら放課後にやるはず……。


 ドアの窓から中を覗き込むと、楽器を持ったクラスのギャル集団が真剣な眼差しで音符を追っている。その中にはアルトサックスを手にしたアユミの姿もあった。


「えっ、アユミ? なにやってるの?」


 咲に気付いた歩がドアへ駆け寄る。


「ようサキ、待ってたぞ」


「勝手に音楽室を使ったら怒られるよ」


「許可なら取ってるよ。ほら」


 歩が指差した先には、吹奏楽部の顧問で、音楽の先生がピアノの前で手を振っている。その横には謹慎を解かれた宮沢先生が、気まずそうに頷く。


「秋の文化祭でサキのピアノが聞きたいって言ったら、教頭が特別枠でミニコンサートでもやったらどうかって。学校公認なら参加したいって奴らが集まってきてさ、あたしもサックス練習してんだ。ということで、サキはピアノの練習よろしく」


「よろしくって、私はもうピアノは……」

 ――もう弾かないって決めた、と言おうとする前に、陸に先手を取られる。


「昼休みと休憩時間なら音楽室を自由に使っていいって。学校にいる時間ならピアノの練習ができるだろ。音楽の先生も協力してくれるんだってさ」


「吹奏楽部も手伝うって言うし、うちらも頑張って練習するからさ。一緒にやってくれよサキ」


「実は僕も巻き込まれたんだ……」


「え、リクもやるの?」


 歩の何気ないひと言で、咲の周りの環境が大きく変わっていく。

 ピアノ……。また弾けるんだ。




 そして中学最後の文化祭の日がやってきた。

 校内の至るところでクラスごとの展示発表や演劇、部活動の紹介などが行われ、開催早々から多くの人たちで賑わう。生徒の家族も招待されているため、一緒に文化祭を楽しみながら、普段は見ることのない生徒たちの活動を知ることもできる。


 この日のために編成された咲たちの音楽隊が、幕の下りた体育館のステージ裏手で準備を進めていた。

 緊張をほぐすため、咲はステージを降りて体育館を歩きまわってみる。並べられたイスはすでに観客で埋まり始めていた。


「あっ、お姉ちゃんだ!」


 弟のリンが両手を掲げて観客席から立ち上がる。母に連れられ、車イスに乗った祖父も並んで座っていた。


「ママ! よく時間とれたね」


「いつもサキに家のことをやってもらっているから、応援くらいしてあげないとね。それに、サキがまたピアノを弾くって知ってから、ジイジは必ず見に行くって言ってたのよ」


 祖父は咲を見て微笑んだ。


「ママもリンもジイジも、サキが頑張って練習してきた演奏を楽しみにしているよ。きっとパパも見守ってくれてるからね」


「ありがとう。リクやアユミにもたくさん助けてもらったんだよ」


「そう。あとでお礼言わないとね」


 校内放送で、間もなく演奏会が始まると伝えられた。


「お姉ちゃん、みんなで応援してるからね!」


「うん。それじゃ、行くね」


 ステージに戻ろうとする咲を、祖父が呼び止めた。


「無理に頑張る必要はない。やりたいことを思い切り楽しみなさい」


「……うん。わかった。楽しんでくる」


 先ごろ、祖父はリハビリができる施設への入所が決まった。市営なので入所金もだいぶ安く済む。その代わり、部屋に空きが出るまで二か月ほど待つことになるらしい。それでも四人での生活があとわずかと考えると、寂しく感じる。

 そんな祖父からの言葉は、とても心を軽くしてくれた。祖父だって家族から離れて暮らすことに寂しさを感じているはず。決断したのは、咲の負担を少しでも軽くしようと考えたからかもしれない。




 吹奏楽部の演奏が終わり、ステージの幕が下りる。

 次はいよいよ咲たちの出番だ。音楽の先生がアレンジした、吹奏楽とピアノのコンチェルト(協奏曲)。

 放送では、“特別枠のミニコンサート”と紹介され、より緊張感が高まる。

 最初の曲――『ロトのテーマ』には、先ほどの吹奏楽部も応援として加わる。聴衆を惹きつけるホルンの音から始まり、胸が高鳴るテンポで曲が進んでいく。

 何度も猛特訓した甲斐があり、みんなは終始落ち着いている。咲も練習の成果を存分に発揮して鍵盤を叩く。マーチングバンドのような元気な演奏は、会場の外にいた人たちにも聞こえたようだ。演奏の中盤には体育館の席は埋まり、立って見ている人が大勢いた。


 1曲目が終わり、応援の吹奏楽部は舞台の袖へ下がった。

 歩はアルトサックス。咲はピアノ。陸はドラム。ステージに残った3人が『Take Five』を披露する。「死ぬほど練習した」と言うだけあって、歩のサックスは驚くほど上達していた。会場は大盛り上がりで、再び大きな拍手に包まれた。

 鳴りやまない拍手の中、演奏を終えた歩と陸が静かにステージを降りていく。


 スッと照明が落とされたステージ。ひとり残る咲とピアノにスポットライトが照らされる。その一瞬で先ほどまでの盛り上がりが嘘のように、会場は静寂な雰囲気に切り替わった。


 紹介された曲は、シューマン作曲の『トロイメライ』。

 1拍目から穏やかで夢見心地な音が流れる。2分半ほどしかないこの曲は、4小節単位のメロディーが音の連なりを変えながら8回繰り返される。4分の4拍子という拍節を曖昧にして、いかに夢想的な曲とするかは奏者の技量によるのである。

 短い曲ではあるが、咲は最後の一音まで指先に気持ちを込めて弾いた。弦の響きが完全に聞こえなくなるまで、会場はシンと静まり返っていた。


 トロイメライとは、ドイツ語の“夢”から派生した言葉。夢想、幻などの意味も含まれるという。その言葉通り、儚い夢として諦めるつもりでいたピアノ。こうしてまた弾いているのも夢なのか。

 ふと、子供の頃の情景が思い浮かんできた。初めてピアノに触れた日。難しい指使いを克服した日。楽譜を見ながら最後まで弾くことができた日。さらなる高みを目指した日。嬉しかったことや辛かったこと。いつしか目標を持つまでに成長してきた日々が、アルバムをめくるように思い返される。


 演奏は最高の出来栄えであった。これまでの集大成として十分満足できるものといえよう。

 この演奏がピアノに触れる最後になるかと思えば、鍵盤を押える指を離したくない気持ちも湧いてくる。

 気付かぬうちに滴ったひと雫。手の甲に落ちて、とても温かく感じた。氷のように冷えた手の上から滑り落ちる様子が、ぼんやりと咲の瞳に映った。

 満員の会場は、拍手が鳴り響く――。




 咲の中学校にスクール・ソーシャルワーカーがやってきたのは、文化祭が終わってすぐのことだった。学校の応接室に入ったきり、ずいぶんと長い時間をかけて先生たちと話をしている。聞き取り調査というものらしい。咲も呼ばれて聞かれたくないことまで答えなければならないのかと身構えていたら、後日、必要事項を聞きに家庭訪問をするのだと伝えられた。

 学校と家庭訪問で調査した内容を役所の会議で議論するため、支援が始まるまでには時間がかかりそうだ。それでも咲と倫の学業に必要な援助、祖父の介護福祉施設への入所調整、生活面での相談から補助金申請も検討してもらえるなら、一家の負担も少しは減るのではないだろうか。




 秋も深まり、3年生の進路相談は終盤を迎えた。志望校が決まった者は、受験に向けての準備を始めている。

 咲は――


「私、高校に進学することに決めたよ」


 歩の前で、宣言する咲。


「そうか。またピアノ続ける決心がついたんだな」


「ううん。ピアノはやらない。文化祭とかで弾く機会があれば別だけど」


「どうして? サキは音楽ができる高校へ行きたかったんだろう?」


「音楽で生活ができる人はほんのひと握りでしょう? 音楽大学に入って、いい先生に習って……そんなの、すごくお金がかかることだから。ピアノは弾ける時に弾けたらそれでいい。それよりも、私がたくさんの人から支えられてきたように、困っている人たちを助ける福祉の仕事がしたい。だから高校へ行って福祉の勉強をするって決めたの」


「サキは十分頑張ってきたのに、まだ人のためになにかするのかよ」


 近くで聞いていた陸が咲に声をかけた。


「僕はそれでいいと思うよ。サキが自分の意志で決めたことだ」


「で、でもさ……」


「リク、アユミも、私のことを気にかけてくれて嬉しかったよ。ありがとね。進学すると決められたのは二人のおかげなんだよ。私にも夢を持てるんだって気付かせてくれたんだから」


「応援するよサキ。なぁアユミ」


「え? ああ……。サキが決めたんなら、あたしも応援する」


「ありがとう」


「でもよ、この前も言ったけど、困ったり大変な時は相談しろよな。ひとりでなんでもやろうとするなよ。と言っても、あたしなんかじゃ大して役に立たないだろうけどさ」


「そんなことないよ。アユミの言葉はとても心強いんだから」


「ほんとは大人がもっとしっかりしてくれりゃいいんだけどな。自分たちのことばかり優先してさ、人の気持ちってのを理解しないんだ」


 歩の言葉に陸が苦笑いをする。


「大人たちだって、子供の頃はそう思っていたかもしれない。大人は大人の事情があって、一歩を踏み出せずにいるのかもしれないよ」


「なんだよリク、知ったようなこと言って」


「僕だってサキの事情を知っていたけど、どうすればいいのかわからなくて、なにもしてあげられなかったんだ。だからアユミの行動力には驚かされたよ。いろんな意味で」


「見て見ぬ振りはできないだろ。友達だからな。……ん? いろんな意味って?」


 咲はちょっと照れたように俯いてから顔を上げた。その顔は、今まで教室では見られなかった明るい表情だ。


「二人とも、本当にありがとう。諦めていたピアノが弾けて嬉しかった。アユミたちが手をさしのべてくれなかったら、もう触れることもなかったと思う」


「ピアノを弾く機会はいくらでもあるさ。強く願っていればきっと叶うよ」


「おっ、さすがリク。キザなセリフも似合ってるね」


「そういうアユミもサックス続けるんだろ? 知ってるぞ、吹奏楽部に混ざって練習してるの」


「えっ、本当なの?」


「バレてたか……。なんか面白くてさ、高校に行ったら部活に入ろうかなと思ってるんだ」


「そうなんだ。応援するよ。頑張ってアユミ」


「いつかまた一緒に演奏できたらいいな。当然リクもな」


「えっ、また巻き込むのか?」


 咲が堪え切れず、プッと笑い出す。

 それに釣られて歩も陸も笑い出した。




<終わり>



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