五分後

「……おじさん」

 上半身を起こして、私はおじさんの方を向く。

 早々と寝入ってしまったらしいおじさんは、目をつむったまま、穏やかな寝息を立てている。

「おじさん」

 その顔を見ながら、私はボソリと言う。

「無理に大人ぶらなくってもいいんですよ」



 両親が亡くなってから二年になる。孤児になった私は児童福祉施設への入所が決まりかけていたが、その時手を挙げてくれたのがこのおじさんだった。遠縁ではあるが、唯一の血縁者として。

 大学を出て入社した企業をほどなく辞め、以来、ずっと定職も決まらないままでいるおじさんのことを訝しんだ人は多かった。中には下卑た空想をそのまま言葉にしてぶつけてくる人たちもいたらしく、おじさんは精神的にも肉体的にも、かなり疲弊させられたに違いない。

 それでもおじさんは手を下ろさなかった。自分が引き取って立派に育ててみせると言って、頑として譲らなかった。

 結局、私は施設ではなくおじさんのところを選んだ。たとえ経済的な地盤が多少危うかろうと……あるいは、それが何らかの欲望に基づいた行為であったとしても、そうまで必死に自分のことをを求めてくれる他者の存在が、私には嬉しかったのだ。私の家庭は冷えきっていた。両親はそれぞれに愛人を作り、互いにそのことに感づいていながら、それを相手の存在ごと無視することで、ようやく形を保っているような、世間体のためだけにあるような家庭だった。もちろんその程度のことくらいは子供にだってわかる。たとえ五つや六つのメスガキであっても。

 ——一人でお留守番、できるわよね。

 出掛けに、母は私に言った。

 ——いつまでも子供じゃないんだから。

 それは父が出張で——本当のところはどうだか知らないが——一週間家を空けることになった、その日の夕方のことだ。門の外には父の不在時にたびたびやってくる若い男が車を停めて待っていた。

 ——うん、大丈夫だよ。お母さん。

 ——いってらっしゃい。

 私が次に二人に会ったのは霊安室だった。それぞれ別々の病院で、父は浮気相手との痴話喧嘩の果てに腹を刺され、母は男と一緒に車ごと峠から落っこちたということだった。辛うじて保たれていた世間体は、最後の最後で跡形もなく粉々になった。

 私の新しい住まい——つまりおじさんの安アパートには、一週間とあけずに市の児童福祉科の職員がやって来て、暮らしのこと、おじさんの態度のことなどを根掘り葉掘り私に聞いてきた。ちゃんと食べさせてもらっているか、嫌なことはされていないか——そんなことを尋ねながら、彼らの視線が太股や二の腕に走ることが私には耐え難かった。無理もないことかもしれない、とは少しは思うけれども、ちょっとした怪我や蚊の噛み跡にすらいちいち目くじら立てる彼らのことが、私は正直煩わしかった。

 決して暮らし向きがいいとは言えないにせよ、おじさんがおじさんなりに努力していることは明らかだった。収入から必要経費を引けば手元に残るのは僅かだったが、おじさんはそれを惜しみなく私に遣ってくれた。そんなのは保護者として当然のことだ、と言う大人たちもいたけれど、寝る間も惜しんでかけずり回るようにして働き、それでいながら共に時間を過ごせないことを詫びるおじさんの姿を見て同じことを言えるのかと私は腹が立った。ある種の諦めとともに受け入れた可能性は全くの杞憂に終わり、むしろ少しでもそのようなことを疑った自分を恥じた。

 内職などと大袈裟におじさんは言ったが、そんなのはごく些細なものだ。もちろん正規の雇用なんかではない。大家のおばさんが片手間にやっている、ちょっとした軽作業を少し分けてもらう程度のことで、賃金なんて雀の涙ほどにもならなかったが、おばさんはそこにかなり色をつけた額を家賃から引いてくれた。おばさんは無愛想な感じのする人ではあったが、なにかにつけて私たちのことを気にかけてくれている。他にも私たちの境遇に同情的な人は多く、それはたぶんおじさんの人徳——と言うと大層だけれど、これまで築いてきた人間関係があってのことだろう。それがだんだんわかってきたのか、おじさんに対する福祉課の人たちの態度も次第に柔らかくなっていった。

 この生活がいつまで続くかはわからない。でも、少なくともおじさんは今できることを精一杯にやってくれていて、だから私も同じようにしていくつもりだ。何の貯蓄も、準備も、保障もない暮らしではあるけれど、いつかきっと全部うまくいくだろう。仮にもしそうならなかったとしても、私はおじさんと一緒にいられたらそれで十分だ。私のことを本当に思ってくれている人と、私も心からそう思える人と生きていくことさえできれば、たとえ何もかもうまくいかなかったとしても、私はそれをよしとできる。



 ——無理に大人にならなくてもいいじゃないですか。

 私はおじさんの寝顔に囁くように言った。

 大人とか、子供とか、そんなの、くだらない、馬鹿みたいなことじゃないですか。

 メスガキとおじさんでいいじゃないですか。

 口を半開きにして眠るおじさんの顔には小皺が目立ち始めていて、生え際には白いものが混じっている。

 その寝顔を覗き込むように体を起こしていた私は、少し迷ってから、やがて布団に横になって、再び目を閉じる。

 今はまだ、これでいい。

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メスガキvsわからせたいおじさん 戯男 @tawareo

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