一時間後

「た、ただいま……やっと着いた……」

「ふう。大丈夫ですか。脚」

「うん……だいぶマシにはなってきた。なんとか骨は折れてなかったみたいだ」

「だから、折れてたらそんなもんじゃ済まないって言ってるじゃないですか」

「悪かったね。肩貸してくれてありがとう」

「ホントですよ。走るのよりよっぽど疲れました……まあそれもボロ勝ちでしたけど。しかしまさか二歩目で捻挫するとは」

「あ、あれは、革靴だったから……」

「そもそもなんでスーツと革靴なんかで行ったんですか。自分でかけっこ勝負だって言い出したくせに」

「だって着替えろって言ったじゃんか」

「場合場合にふさわしい格好をしてくださいって言ったんですよ。河川敷に走りに行くのに、スーツ着て行く間抜けがどこにいるんですか。あ、ここにいたんでした」

「まぬ……」

「ちゃんとした格好といえばとりあえずスーツ、って発想だったんでしょうけど、それ自体が、なんていうか、いかにも子供っぽいですよね。単に無知ってだけかもしれませんけど」

「子供じゃねーし! ベリベリ運動靴の方が子供だし!」

「そのベリベリにボロ負けしたんですよ。おじさん、若いころに運動とかやってなかったんですか? なんというか……すごい走り方でしたけど。よく知りませんが、ああやって内股で両腕を振り回しながら走るのが、おじさんの言ってたストライド走法ってやつなんですか?」

「あれはスーツのジャケットが突っ張って走りにくかったから……」

「またそうやって言い訳ばっかりする。大人なんだったら潔く負けを認めたらどうですか? 大体、スーツスーツって偉そうに言ってますけど、吊るしの安物ってのが一目でわかるリクルートスーツだし、着慣れてない感が尋常じゃないし。あとそのネクタイ、結び方が明らかに変ですよ」

「ええ……? そういうことは先に言ってよ……」

「すみません。直視するのが辛かったので、気付くのが遅れました。ところで、転んだ時に膝とか破れてませんか? ちょっとくらいなら繕いますよ」

「大丈夫。ちょっと草の汁がついただけ」

「洗っときますから後で出しておいてください」

「うん……にしても、走るの早いね。クラスで一番とかじゃない?」

「普通ですよ。おじさんに較べたら三歳児でも韋駄天です」

「いだて……」

「おっと。すみません。おじさんの教養を高く見積もり過ぎました。私の落ち度ですね」

「韋駄天くらい知ってるわ! 小学生なのに難しい言葉知ってるね」

「だから、おじさんは子供を舐め過ぎなんですよ。そして自分を過信してます。いいですか? ちゃんと覚えておいてくださいよ? おじさんは、五十メートルもろくに走れないどころか、三メートルも進まないうちに一人で勝手に両脚をひねって、奇声を発しながら無様に転倒する、もはや生き物としてもちょっとどうなの? ってレベルの哀れな存在なんです。そこんところをちゃんと把握しておかないと、この先またきっとどこかで怪我しますよ」

「……泣いてもいいかな?」

「近くで見てた子供はおじさんのこと爆笑してましたけどね」

「あ、あの堤防道路にいた小学生か? あん畜生……今から行って泣かしてやろうか……!」

「やめてください。実害のある不審者はさすがにかばい切れません」

「そういえば怖かったね、あの警察官。凄い形相で、とんでもない勢いで走ってきて。そのまま警棒で殴り倒されるのかと思った」

「傍目にはヨタヨタ走りの不審者がゼエゼエ言いながら小学生を追い回してるようにしか見えなかったですからね。そりゃ警察も来ますよ。よかったですね。たまたま通りがかったワタベさんが、私たちのことを説明してくれてなかったら、今ごろ確実に手が後ろに回ってましたよ。もしくはその場で射殺されるか」

「でも、ああいう時にすぐ駆けつけてきてくれるのって、なんというか、見守ってくれてるんだなってちょっと安心したなあ」

「そうですね。そういう人たちの迷惑にならないように、普段からもっとちゃんとするように心がけたらどうですか」

「うん。普段からスーツで出歩くようにするよ」

「私の話聞いてました? ……っていうか、わからせるうんぬんの話はどうなったんですか。肉体的な力関係がどうとか言ってましたが、おじさんの肉体が生物として終わりかけてるってことくらいしかわかりませんでしたけど」

「……そうだった」

「忘れてたんですか」

「わ、忘れてない! そうだ! こんなの別に大人とか子供とか関係ないんだ! 走るのが速いからってそれがどうした! 足が速ければ偉いのか! そんな単純な価値観が通用するのは小学生の間だけだ! だったら人間よりトムソンガゼルの方がはるかに偉いってことになるじゃないか! そういう子供の浅はかな思い込みをわからせるために、俺は大人として体を張ってあげたのだ!」

「自分で何言ってるのかわかってます?」

「シャットアップ! 最後は料理で勝負だ!」

「また今度は唐突な」

「そう! 大人かどうかというのに肉体的優位性は関係ない。正確な知識と、それに裏付けられた確かな技術……それらを兼ね備えたもののことを『大人』というのだ」

「あとそれから、自分の言ったことを平気な顔でひっくり返す厚かましさもですね」

「ええっ? 誰がいつそんなことしましたっけ? ちょっと記憶にございませんが……」

「うわぁ。最悪の大人ですねぇ」

「ふふふふ……そのチビっこい身長では台所に立つのもままなるまい……文字通り、子供の身の丈ってものを思い知るがいい……。包丁を使うのは危ないから、お前はこのカット野菜セットでカレーを作ってもらう! しかも直火じゃなくてIH卓上ヒーターだ!」

「急に大人の気遣いをしてきますね」

「俺様はこの肉屋さんで買ってきた見切り品の霜降りロース肉を、スキヤキ鍋で焼いてジューシーなステーキを作ってやろう。ふははは……金に物を言わせた大人の力というものを見せつけてやる!」

「正確な知識と技術はどこに行ったんですか?」

「加熱するときはちゃんと言うんだぞ。それでは、はじめっ!」

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