第5話 梨割り

 匂い。

 音。

 感触。

 あらゆる感覚を刺激され、赤音の頭は混乱した。

 何だこの匂いは?

 青射の声?

 悲鳴が聞こえる。

 何かをなぎ倒すような音も。

「赤音君! 赤音君!」

 黄美華に肩を揺すぶられた。

 いつの間にか、目を強く瞑っていたらしい。

 視界が開ける。

 辺りが明るい。

 電力は回復したようだ。

 いつまでも暗いと感じていたのは、赤音が目を閉じていたせいだったか。

 ああ、でも。

 赤音は、目を開けてしまったことを強く後悔した。

 いっそ、全てが暗闇のままだったら良かったのに。

「畜生! 何なんだよ、何なんだよー!」

 白兎が顔中をぐしゃぐしゃにして、泣きわめきながらノートパソコンを叩きつけている。叩かれているのは、市民だ。いや、違う。肌が土気色で、爪が剥がれかけ、腐りかけた手足を引きずりながら職員に噛みつこうとする市民など居ない。

「あああ、ああー!!」

 ラウンジでお茶を楽しんでいた老婆が、飲み物を零した床に倒れ込んでいた。床は飲み物だけでなく、彼女自身の血で鮮やかな色に染まっている。

「たすけて! ヨネさん、たすけてー!」

 悲鳴を上げる老女の腰の辺りには、やはり土気色の肌をした『何か』がしがみついて、その細い腕をガリガリと噛っていた。

 ヨネさんと呼ばれたもう一人の老女は、友人を救う為に日傘で懸命に『何か』を打ち据えている。

「く、来るな! くるなぁー!」

 茶太郎が叫んだ。普段の陽気さはどこへやら、竹箒を振り回しながら子どものように泣き叫んでいる。

「何だよこいつら! わけわかんねぇよーっ!」

「ひ、ひ、ヒトデナシ。 贄、贄、捧げましょ」

 茶太郎の悲鳴を背に、ラウンジの生活保護受給者の老人がくるくる回りながら歌っている。

「あ、か、ね、くん」

 吐息を吐くような声がして、赤音は咄嗟に視線を下に向けた。

 仰向けに倒れた桃代が、虚ろな目を赤音に向けながら、肉付きの良い腹を両手で抑えて小刻みに痙攣していた。

 ブラウスが血に染まっている。破れた腹からは太い管のようなものが飛び出し、耐え難い匂いを撒き散らしている。

 ああ、そうか。

 赤音は、自身のスーツの袖と肩口を濡らす生臭い液体の正体を知った。

 これは、桃代の腹から溢れた血と消化液と、肉片の混じり合ったものか。

「あかね、くん。わたし、しんじゃう? ねえ、しぬ? しぬの?」

 桃代の太腿には、2体の土気色が齧りついている。顎の動きからして、どうやら肉を咀嚼しているらしい。

 土気色の、『何か』…。

 見た目は人間に見えた。

 だが、赤音はこれを人間だと認めたくはなかった。

 手足があらぬ方向に曲がり、傷口から蛆を落としている者。胴体の肉が腐り落ち、骨だけが突き出した者。両足が斬り落とされ、ほとんど骨だけの両腕で這っている者。

 姿は様々だが、皆が共通してがちがちと汚れた歯を打ち鳴らしている。

 誓っても良いが、終業時間を過ぎた支所内に、これだけの人数は残っていなかった。

 職員を除けば、ここに居たのは黒鉄とシングルマザーとその息子、後はラウンジの二人組の老婆と、生活保護受給者。

 後から飛び込んできた分を加えても、到底今の数には及ばない。

 ぶちり。

 嫌な音がした。

 赤音の意志とは反対に、視線はそちらを向いてしまう。

 刺青のシングルマザーが、喉の千切れるような悲鳴を上げた。

「やめてあああやめてやめて痛い痛いいだいぃー!!」

 子ども特有の、甲高い泣き声。

 太矢君の右足が無い。こちらは比喩ではなく、本当に食い千切られている。

 傷口は潰れ、ブツブツ泡立つ皮下脂肪と鮮血が、尖ったまま突き出た大腿骨を伝ってフローリングの床に真っ赤な水溜りを作っていた。

「あんたたち公務員でしょ何なの何なの助けてよ何で太矢がこんな将来どうすんのよ責任とれるの…」

 太矢君を抱きしめながら、シングルマザーが涙と鼻水と、誰のものかもわからない血でぐちゃぐちゃに汚れた顔で喚いている。

 この人、化粧落としたら別人だな。

 太矢君の右足をばきばきと咀嚼する土気色の『何か』を見ながら、赤音は場違いにもそんなことを思った。

「ざっと10体か。思ったよりも、少なかったな」

 黒鉄がつまらなそうに呟いた。

「何も知らないものと思ったが、どうやらお前達を死なせぬ為に骨を折ってくれた者が居るらしい」 

 黒鉄の足元に、びくびくと痙攣する『何か』がうつ伏せに転がっている。

 数は、目視できる限りで3体。

 朱塗りの杖は、T字の持ち手から20センチ程先で色が変わっていた。

 血塗られた銀色が、血脂を帯びて鈍く光っている。

 仕込み刀。

 時代劇か漫画でしか見ないようなそれを目にして、赤音は自分が無事な理由を初めて悟った。

 たまたま黒鉄と向かい合って座っていたために、赤音と黄美華を襲撃した『何か』は黒鉄に倒されてしまったのだ。

「な、ななな、何…」

「おい、おっさん!」

 赤音が口を開くより先に、鋭い声が響き渡った。

 青射だ。

 両手で握っているのは…農具だ。

 畑を耕す為の四角い刃も、木製の柄も、血で濡れてぬらぬらと光っている。

「こいつら一体何なんだ?」

「儂らはヒトデナシと呼んでいる。人では無いから殺して構わん」

「よし、オッケー!」

 叫んだ後で、青射は農具の刃をヒトデナシと呼ばれた『それ』に叩きつける。

 胸元の肉が割れ、黒鉄曰くヒトデナシの土気色の傷口から血と蛆と腐った匂いが零れ出た。

「次、緑ちゃん!」

 青射が、背後で重い文鎮を構えた緑に話しかける。

「梨割り、って何?」

「はい? え、えぇと、人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりの…」

「ごめん、手短に頼む!」

 がむしゃらに農具を振り回す青射を見て、仕込み刀の黒鉄は呆れたように首を傾げた。

「何だ、見ていなかったのか」

 朱塗りの仕込み刀を胸元に構える。

 口元から桃代の臓物を垂れ流したまま、土気色のヒトデナシが歯を鳴らして襲いかかる。

 一閃いっせん

 ヒトデナシの顔面は表面がべろりと剥がれ、綺麗に割れた眼球と鼻の痕跡と奥歯を残した赤い断面を晒した。

 べちゃり。

 床に落ちたのは、顔面のみ。

 滲んだ赤を見なければ、出来の良いお面が落ちているようだ。

「顔面だけ、斬り落とせ。これで噛みつくことはできん」

 黄美華がふらついて、赤音の肩に寄りかかった。

 悪夢さながらの光景の中、青射だけが「なるほど」とでも言いたげに頷いていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゴキカブリのヒトデナシ 酒呑み @nihonbungaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ