ごくふつうの事故物件

遠野文弓

ごくふつうの事故物件

 これは、わたしが一人暮らしをはじめたときに体験した話です。


 これまでは両親の好意に甘えて実家から通勤していたのですが、激務から身体を壊してしまい、転職することにしました。実家からかなり離れた会社に転職先が決まったので、晴れて一人暮らしデビューとなりました。


 初めての一人暮らしですから、部屋探しの勝手が分かりません。しばらくは寝に帰るだけの家になるだろうと思っていたので、家賃は極力抑えるつもりでいました。駅から遠くてもいいやと思い、条件を広げて検索したところ、手頃な価格帯の物件がちらちらと上がってきます。その中から、いちばん安い物件情報をクリックしました。


 家賃5.2万円。約30㎡で洋室の1K。築年数13年。

(数字はいじっていますが、おおむねこんな感じでした)


 北向きだけど角部屋。駅までは少し歩きますが、徒歩5分圏内にコンビニと大きめのイオンがある、かなり立地のいいエリアです。


 周辺の物件と比べると家賃は2~3万円ほど安いのですが、サイトに掲載されている物件写真を見ても、不審な点はありません。ごく普通の4階建てのアパートに、住みやすそうな1Kの洋室。バストイレ別で、こぎれいな印象すら受けます。


 下へと読み進めていくと、〝告知事項あり〟の記載がありました。


 しかし、事情があったとしても、家賃がそう簡単に安くなるものでしょうか。立地がよく、きれいな部屋なのですから、もっと強気の価格設定にしても借り手はつくはずです。


 告知事項の中身は気になりましたが、安くて利便性の良い物件というのはとても魅力的でした。


 告知事項について話を聞いて、嫌だったら借りなければいいだけだ。そう思ったわたしはすぐに不動産屋に電話をして、二日後に内見の予約を取りました。



 

 不動産屋さんに鍵を開けてもらい、一通り室内を案内してもらったその部屋は、おおむね不動産検索サイトにあった写真のとおりでした。床は少し軋むところがあったり、壁に染みがあったりしましたが、すべて経年劣化の範疇です。


 そして、部屋を案内し終えた不動産屋さんは、〝告知事項〟の話を切り出しました。


 なんでも、このお部屋の前の住人が亡くなったそうです。死因は病死でしたが、発見が遅れて特殊清掃が入ったので告知対象となったようでした。


 最初こそ、ここで人が死んだという事実に薄気味うすきみの悪さを感じていましたが、同時にどこかホッとしている自分がいました。人が死んでいるなら、実害はなさそうだと思ったからです。

 どちらかといえば異臭とか、騒音とか、空き巣の懸念があるほうが嫌でした。


 他に問題がないならここに決めちゃおうかなあ、というわたしの考えを知ってか知らずか、不動産屋さんはわたしに入居申込書を差し出して、こう言いました。


「お安い物件ですので、他の方からも申し込みが入るかもしれません。申し込みが重なったらオーナーさんに話を通して決めてもらうので、申し込みをしたら必ず入居できるわけではないんです。そこのところはご了承ください」


 今思えば実に不動産屋らしい煽り文句です。でも、当時のわたしはその言葉をすっかり信じて、その日のうちに入居申込書を記入し、母に連帯保証人になってもらって、急いでその部屋を借りることにしました。


 賃貸契約はあっさりと進み、二ヶ月後にはその部屋に入居していました。




 引っ越しをしてから荷ほどきを進めましたが、一日では終わらず、その日は諦めてベッドに入ることにしました。


 慣れない環境にドキドキして目を閉じると、突然ぐうっと身体が沈み込むような感覚がして、胸が苦しくなりました。


 耳元で、低い女性の声で「ああ」「うう」という唸り声が聞こえてきて、背筋が凍りました。部屋の隅に誰かいるのが見えたので、慌てて起き上がろうとしたのですが、身体がまったく動きません。


 金縛りです。


 それからは、毎日のように金縛りに遭うようになりました。


 ただ、何度か金縛りを体験すると、金縛りになる直前には「あ、来るな」とピンとくるようになります。どこまでが現実で、どこまでが妄想なのかはわかりませんが、わたしの金縛り前の兆候は、ふだん聞こえている音がすうっと遠のいて、ザワザワザワ……と耳鳴りがするところから始まります。


 そして、白いもやのようなものがわたしの身体に飛び込んでくるようなイメージが浮かびます。その白いもやは、タイミングよく身体をひねることで避けられて、それで金縛りも回避できそうだ、ということはわかりました。


 ただ、そうとわかっていても、金縛りを避けるのは難しく、ちょっとでもタイミングを誤ると白いもやが身体のなかに入ってきてしまい、身体が動かなくなります。疲れ切っていて避ける気力がないときは、まず避けられませんでした。


 そして、金縛りに遭うと、必ず女性の姿が視界の端に映ります。


 時には、わたしの胸の上に乗ってきたこともありました。白い服を着た、長い黒髪の女性で、顔は見えませんでした。


 それにしても、いかにも幽霊だという見た目をしていたので、わたしは怖がりつつも「幽霊ってほんとにこんな姿なんだ」と頭の片隅で感心していたのを覚えています。


 こんな感じで、恐怖こそしたもののわたしは金縛りに慣れていき、よほど疲れているときでなければ、金縛りを回避できるようになっていました。




 ……ところで、この事故物件でいちばん怖い思いをしたのは、実はこの金縛りではないのです。


 それは、ある日の夜のことでした。もう午後11時を回っていたのですが、明日が休みだったこともあり、ベッドに入ってだらだらとゲームをしていました。


 すると、外のほうから男の声が聞こえてきました。酔っ払いが大声でしゃべりながら歩くのは珍しくなかったので、特に気にしませんでした。


 でも、どこかの部屋のドアノブが乱暴にガチャガチャと回され、苛立ったような男の声がぶつぶつと聞こえはじめてから、雲行きが怪しくなりました。


 嫌な予感は的中するものです。


 ガン! ガン! と、どこかの玄関扉が思いっきり蹴られる音。

 次いで、「おい! おい! 開けろ!」という怒号。


 幽霊ではありません。生きた人間です。


 わたしは怖くなって息を殺して布団をたぐり寄せ、頭までかぶり、枕を胸に抱きました。その間にも、どこかの玄関扉がドンドンドンドン!と、激しく叩かれる音がします。


 開けろ! と叫ぶ男はろれつが回っておらず、酔っ払っているのは明らかでした。激昂して、たぶん部屋から閉め出されてしまって、玄関扉を蹴り続けているのです。


 おおかた、夫婦喧嘩でもして夫が家を飛び出し、報復として妻が鍵をかけたのでしょう。夫はヤケ酒をして帰ってきたものの、家から閉め出されていることに気がついた。そんなところだと思います。


 どれほど続いたでしょうか。体感では1時間くらいに感じられましたが、たぶん実際はもっと短い時間だったのでしょう。布団の中でうずくまって、玄関のほうをじっと見つめて、念のため……と、包丁、ハンマー、はさみの正確な位置を頭に思い浮かべていました。


 しばらくすると、古株の住人か、警察かがやってきたようで、年配の男性らしき声が男性をたしなめはじめました。そうしているとドアが開く音がして、女の声が聞こえてきました。


 女が出てくると男女はすぐに言い合いをはじめましたが、仲裁者がいるからか、ヒソヒソと声を潜めていました。お互いに苛ついているようでしたが、もうこれ以上にヒートアップすることはなさそうで、わたしはホッとひと息つくことができました。


 そして、声はだんだん聞こえなくなり、玄関扉がバタンと閉まる音がして、再び静かになりました。


 ……。


 その日、白いもやは見えませんでした。「今日はさすがにかわいそうだ」と、がわたしに気を遣ってくれたのかもしれません。


 なぜかは分かりませんが、これをきっかけに、金縛りはぱったりと止みました。


 やっぱり実害があるほうが嫌だ。幽霊のほうがよっぽどわきまえている。そんなことを思った夜でした。




 結局、この部屋には4年住んで、契約更新を機に引っ越しをすることになりました。


 今でも時々、あの部屋のことが頭をよぎります。金縛りを起こしたのが本当に前の住人だったのかどうかはわかりません。住人にどんな家庭の事情があるかも知る機会はありませんでした。


 金縛りについてはともかく、酒癖の悪い隣人がいたことは、次の住民のためにもクレームとしてあげておけばよかったなあ、と後悔しています。

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ごくふつうの事故物件 遠野文弓 @fumiyumi-enno

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