第15話 宮中はそういうところ

「ドレスがないって……そんなことで?……それほど重要なことですか?」

 なかば信じられない、なかば呆れたようなフィリップの口調に、ジュディスは心の中でああやっぱりと呟いた。


 国立劇場での芝居の初日。それは観劇に名を借りた上流階級の重要な社交の時間である。


 皆、実は芝居など二の次で客席しか見ていない。誰が誰をエスコートして現れるのか、どの家が桟敷席ボックスシートを買ったのか、はてはそこで幕間に空けられるシャンパンのグレードの上下に至るまで、その全てが貴族社会の縮図であり、時に格好のゴシップのネタになる。そしてそこでは女性達の美しさと装いも重要なピースであった。貴婦人は皆ドレスや宝石がいかに豪華でセンスが良いか妍を競い、また年頃の息子を持つ母親は鵜の目鷹の目で品定めしていた。どの家の令嬢が美しくてどの家の令嬢がかを。……そこで演じられるのは作家が書いた戯曲ではなく、生身の人間同士の虚飾と思惑のせめぎ合いのドラマだった。


 たかがドレスじゃないか、そう言ってしまうのは簡単だ。特にフィリップは男性で軍人だから、あまりそういったことに頓着しないのも無理はないだろう。だが大公妃殿下付きの、しかも筆頭侍女という立場にあるジュディスはそうはいかなかった。貴族の女性にとって公の場で纏うドレスというものは、騎士のしろがねの鎧と同じ意味を持つのだ。


 それでも普段は妃殿下付きの侍女としての立場でしか劇場に出向くことはなかったから、まだ何とか切り抜けられていた。当たり前だが常に一番お美しいのは妃殿下、であれば侍女が着飾る必要など全くない。だからジュディスはこれ幸いと、妃殿下付きの侍女に上がった時に作ったほとんど飾りのない、まるでメイドかあるいは未亡人が着るような地味な紺色のドレスで、いつも貴賓席ロイヤルボックスの後ろのカーテンに隠れるようにして立っていた。


 だが今回はそういう訳にはいかない。今をときめくバーデット家の嫡男フィリップ様が、国立劇場での芝居の初日に、女性をエスコートして現れる……考えただけで寒気がする。ジュディスの頭の中にそこで起こりうるであろう光景が瞬時に浮かんだ。


 まあ奥様ご覧になって、バーデット家のフィリップ様は随分とご令嬢とご一緒ですのね。あらあの方、確かフィッツジェラルド大公妃付きの……ああ、成程……。


 無理、絶対に無理。わたくしは何を言われても構わない。でもフィリップ様と、そして何より妃殿下の評判がわたくしのせいで貶められるなんてこと、絶対にあってはならないわ。


「殿方に……いえ、フィリップ様にとってはかも知れません……でも、宮中というのはそういう所なのです……わたくしのような人間が貴方にエスコートされて劇場に現れなどしたら、わたくしではなく貴方の評判が下がるのです。どうかご理解下さいませ……」


 最後は消え入りそうな声になってしまったジュディスの言葉にフィリップはなおも食い下がった。だがその言葉はジュディスの心を更に悪気なしに抉るものだった。


「だったら、だったら私が貴女に相応しいドレスをお贈りします! まだ公演まで日がある……そう、今からすぐ仕立て屋のところへ行きましょう。大丈夫、ドレスの1着や2着……」


「お止め下さい!!」


 ぐらい、という一言に、ジュディスのはらわたが一瞬にして煮えくり返った。思わずフィリップの言葉を遮って声の限りに叫ぶ。フィリップがびっくりして口を噤む。


「ぐらい、ですって……? 貴方に何がお分かりになるの? わたくしが皆を羨ましいと思ったことがなかったとでもお思い? 貴方にあのみすぼらしい靴を見られて、色褪せた去年のくたびれたドレスで大公殿下の私邸にお邪魔して、借り物のドレスを貴方に褒められて……わたくしがどれだけ恥ずかしかったか……いつも……いつも……どうしてわたくしだけ……」

「ちょ、ちょっと待って下さい。違う、私はただ貴女に喜んで欲しくて、何か事情がおありそうなのが気の毒で……」

「同情など結構ですわ。わたくし、貴方の人生の染みにはなりたくありません。どうかもうこれ以上惨めにさせないで!」

「違う!! そうじゃない!!」


 突然ジュディスは逞しい腕に抱きしめられて動きを封じられ、唇はフィリップの唇で塞がれた。咄嗟に顔を離そうとするが、片手で顎をがっちりと掴まれてしまっていてぴくりとも動かせない。苦しくなってきて息を吐きだそうと少し口を開けると、フィリップの舌が隙間をこじ開けて入って来た。初めて味わう男と女の口づけ……全身が震える。恐ろしいようで同時にこの上なく甘美な感覚に、ジュディスは膝から崩れ落ちそうになった。……でも違う。今すべきことはこれじゃない。最後の理性を振り絞ってジュディスはフィリップの足を思い切り踏みつけた。フィリップがぎゃあっと悲鳴を上げてジュディスから身体を離した。


「ひ、酷いではないですか! そんなに思い切り足を踏まなくたって……違うんだ、なぜ分かってくれないんですか、私は貴女を……」

「こうでもしなければ離れて下さらないでしょう? こんな時になんという不埒な振る舞いを……卑怯ですわよ、


 ジュディスの刺々しい他人行儀な口調にはっと冷静さを取り戻したフィリップは項垂れ、しょんぼりと一人呟いた。


「どうやら私は色々と考え違いをしていたようです……貴女を傷つけるつもりはなかった……そう思われていたのなら謝罪します……」


 素直に謝罪の言葉を口にされて、ジュディスの怒りは急速に萎み、入れ代わりに怒涛のような悲しみが襲ってきた。だがここで有耶無耶にしてしまう訳にはいかない。ぺしゃんこになりかけた心を奮い立たせてジュディスはフィリップに引導を渡した。


「わたくしのことなどお気になさらずに、お心に決めた方をお探しなさいませ。見つかったかもしれないと仰ってらしたでしょう?……きっと、その方も待ってらっしゃいますわ。そして想いを告げて、幸せになって下さいませ。今までありがとうございました、バーデット少佐。……わたくしは宮中へ戻ります。ご機嫌よう」


 それだけ一気に言うとジュディスはお辞儀をしてからフィリップに背を向けて歩き出した。フィリップは追いかけて来ない。……これでいいのよ、よく頑張ったわね、ジュディス。さあ、夢を見るのも、自分を憐れむのももう終わり。


 ジュディスは昔からせっかちと言われることが多かった。だからこの時もフィリップを置き去りにして、自分の言いたいことだけ言うとさっさとその場を立ち去ってしまった。フィリップは去っていくジュディスに向かってこう言っていたのに、その言葉はジュディスには届いていなかった。


「私が探していたのは貴女だ、ジュディス。やっと見つけたのに……なぜ私の話を聞いてくれないのですか……」


 フィリップ、気持ちは分かる。でももう少し空気を読みなさい。突っ走るだけでは大人の恋は成就しないのだよ。





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 ※『その溺愛、過剰です!?』コンテスト応募対象の内容はここまでとなります。審査結果発表後を目処に更新を再開する予定です。











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筆頭侍女ジュディス 〜縁は異なもの味なもの〜 碓氷シモン @nekosukee

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