第14話 落ちぶれ子爵家の行き遅れ

 王立公園の散歩以来、それまで特に気にしたことがなかっただけで実は普段からフィリップと顔を合わせる機会がそこかしこにあったのだということにジュディスは気づいた。だからフィリップは自分が大公妃殿下の侍女であることを知っていたのだということも納得できた。


 そもそもフィリップは大公殿下、ジュディスは妃殿下とそれぞれご夫婦にお仕えしているのだから、それは考えてみれば当たり前のこと。必然的に二人は王宮で挨拶を交わし合ったりしばし立ち話をしたりする機会が増えていた。


 ジュディスが不寝番の日にはこんなこともあった。その日ジュディスは少し疲れていて、お二人の部屋の前に腰かけながらあやうく居眠りをしそうになってしまったのだが、その時丁度よくフィリップが現れてこっそり眠気覚ましにとミント味の砂糖菓子を差し入れてくれたのだ(ちなみにあれ以来ジュディスは殿下の寝室を覗くなどという不敬なことはしていない)。


 こうして急速に親しくなった二人は、次の休みの日も午後になると王立公園へ散歩に出かけた。そして二人でソルベを楽しみ、日が傾くまでベンチで取り留めのないことを語り合い、笑い、驚き合った。


 ……え、それだけ? 大の大人が午後いっぱいかけて、話をしただけ?


 ……そう、ただそれだけ。だが気がつくと時間はあっという間に過ぎていた。


「そろそろ帰りましょうか」

 そうフィリップに声を掛けられたジュディスは名残惜しそうに立ち上がったが、ふと思い出したようにこう尋ねた。

「そう言えば、お探しの方はもう見つかりまして?」


 特に他意はなく訊いてみただけだったのに、フィリップが真っ赤になるのを見たジュディスは何とも言えない気持ちになった。まあ、こんなに赤くおなりだなんて、きっと見つけられたのね。良かったわ。……でもその方はたぶんフィリップ様の花嫁になられるでしょうから、ご結婚なさったらもうわたくしとの散歩の時間はなくなるのよね。それは少し、残念かもしれない。……少し? うん、少し……少しね。


「見つかった、かもしれません。いやあのまだ……そうだったら良いのだがという、私の勝手な思い込みで……たぶん、きっと、いやでもやっぱり……」

「あの、フィリップ様?」

 どもりながら要領の得ないことを呟くフィリップの姿は少年のようで微笑ましかったが、やはりジュディスの胸はチクリと痛むのだった。


「で、どうなのよ? いつプロポーズされるの?」


 その日の夕方、フィリップに送られて王宮の侍女控室に戻ってきたジュディスは待ち構えていたレジーナにいきなり直球を振られてうう、っと仰け反った。


「ちょ、レジーナ、何を言ってるのか意味が分からないんだけど」

「分からないはずないでしょう? バーデット少佐のジュディスに向けるあのまなざしったら、まるで蜂蜜の樽に頭から飛び込んだみたいなのに!……ね、もちろんお受けするのよね?」

「……」

「ジュディス?」


「……フィリップ様がわたくしに結婚を申し込まれるなんてことは起こらないし……もしそうなったとしてもお受けすることはできないわ」


「はぁ? ちょっとジュディス、何言ってるのよ。どうして? バーデット様の何が不満なの? あんな……」

「違うのよレジーナ。フィリップ様じゃないの。、お受けできないのよ」

「だから、どうしてよ?」

「……」


 ジュディスは黙って目線を窓の外に移した。日が沈もうとしている。空は今まさに青から茜色に変わっていくところだった。


 貴女に似ている。そう言ってくれたフィリップの言葉が胸に蘇る。確かに最近、ふとした時に彼のことを考えている自分がいる。彼が探している人とはどんな令嬢なんだろう。きっととても美しくて淑やかで、豪華な絹のドレスに身を包み、バーデット伯爵夫人としてフィリップの隣にごく自然に寄り添える人に違いない。そう、一点の曇りもない笑顔で。……わたくしではないことだけは、確かだわ。


「……どうしたの、ジュディス? ね、何を悩んでいるの?」


 心配そうに覗き込んできたレジーナから顔を背けるようにジュディスは横を向いて唇を噛んだ。レジーナに打ち明けられたらどんなに楽か。


 貴女には分からないわよ、レジーナ……ジュディスは何とかその言葉を飲み込んだ。レジーナの実家は爵位こそ男爵だが、領地に大きな葡萄畑とワイナリーを所有していてかなり裕福だ。だからジュディスと違って侍女職の給料を全部自分自身のために使えるレジーナはシーズンごとにドレスを新調し、髪も爪もお化粧もいつ見ても完璧だった。それに比べて自分は……羨ましいとか自分が惨めだとか、ただの一度も思ったことがない、と言ったら嘘になる。


 それに何より、メンデル家は降爵された家門だ。士官学校を首席で卒業して、大公殿下の信頼も厚いフィリップなら、この先もっともっと軍人として名を挙げるのは間違いない。彼のお父様だってそれを望んでいるだろう。そんな方の妻が落ちぶれメンデル家の行き遅れの娘だなんてこと、あってはならないのだ。絶対に。


「……ごめん、もうこの話は」

 声を絞り出すようにそれだけ言うと、レジーナは黙って頷き、テーブルの上にあった手紙の束を取り上げると妃殿下の私室へ向かっていった。一人残されたジュディスは、涙が頬を伝ったことにも気づかなかった。


 それでもまた次の休みに、ジュディスはフィリップと会っていた。そしてその帰り際、フィリップが発した一言がきっかけで二人の関係はあらぬ方向へと向かってしまったのだった。


「あの……ジュディスはお芝居はお好きですか?」

「え? え……どうでしょう。劇場へはそれなりに足を運んでおりますけれど、いつも妃殿下付きの侍女として参りますので、正直あまりどういう演目なのかまで覚えている余裕がなくて……嫌い、ではないと思いますが」


 ジュディスが正直に答えると、フィリップはどこか期待のこもった様子で続けた。

「……良かった。実は来週、国立劇場で初日を迎える公演の切符が手に入ったのですが、ご一緒して頂けないでしょうか」

「え……」

「とても前評判の高い演目ですから、ぜひ」

「……」

「あ、もちろん夜遅くまで貴女を連れ回すつもりはありません。公演が終わったらすぐ……ジュディス? どうしました?」


「ごめんなさい、フィリップ様。劇場にご一緒することはできません……」


 俯いて立ち止まり、自分と目を合わせないようにしながら沈んだ声で答えるジュディスの様子に、フィリップは二人の間にいつもと違う空気が流れていることを感じ取って焦った。


「え……あ……なぜ、ですか? その日はご都合が悪いとか?」

「いえ……そういう訳では……」

「であれば……」


 ジュディスは冷静であろうと努めたが、声が震えてしまうのを止めることはできなかった。


「わたくしは、フィリップ様に恥をかかせたくないのです……」

「恥? 何が? 貴女といて恥ずかしいなどということがあるものか。何を気にされているのです?」


 ジュディスは覚悟を決めた。


「……夜の社交の場に相応しいドレスを持っていないのです……どうかこれ以上、何もお訊きにならないで下さいまし。やはりわたくしなど、フィリップ様とは到底釣り合わない人間だったのですわ」


 何かを言おうとして言葉が見つからないまま、一歩踏み出しかけて固まってしまっているフィリップを前に、ジュディスはこの数週間の出来事が自分にとってどれほど輝く宝石のようなものだったのかを改めて思い知らされたのだった。









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