親政後期(1713〜1716)

 この節ではグロワス13世の”回心”から枢密院創設までの3年間を概観する。

 3年という短時間の中でグロワス13世が行った政治行為は多岐にわたるが、そのどれもが後のサンテネリが進む方向性に多大な影響を与えるものである。



 近衛軍の発展的解消と海軍再建の停止

 前節でも紹介したとおり、近衛軍の段階的な縮小と国軍への統合は、王グロワス13世が為した出来事の中でも最大のものと言えるだろう。旧来の通説では、”回心”により——実態としては心神喪失に近い状態に陥ったと考えられる——王の元、家宰以下ルロワ譜代官僚群が実権を握った結果と見なされている。

 グロワス13世の数ある悪名の一つである「白痴の王」が歴史に登場したのはかなり早い時期、つまり”回心”直後からである。仇名が生まれる原因となったのは御前会議における”回心”以前とは全く異なる態度であり、各種夜会の停止、あるいは不参加である。”回心”以前の王は御前会議の半分近い時間、大演説をぶつのが常であった。また、夜会も頻繁に開催している。お気に入りの臣下を呼び、あるいは臣下の邸宅に赴き、酒に酔いながら気勢を上げる新王の姿は多くの貴族の手記に残されている。

 ”回心”以降、グロワス王が公的な場で言葉を発する姿はほとんど見られなくなった。御前会議のそれは顕著であり、従来は3時間、あるいは4時間を越すことも珍しくなかった所要時間が最短で1時間半程度にまで圧縮された。

「偉大なる国王陛下が臣下に下賜されるものは、この世で最も大切でありながら最も元手のかからぬもの。時間である」

 会議に出席した外務副官の一人は同僚への手紙の中で皮肉を込めてそう記した。

 会議は各卿の報告と討議が主体となり、王はそれを退屈そうに眺めていたという。懐から取り出した懐中時計——これもブラーグ製である——に視線を落とし、閣僚達の方を一瞥さえしないことも稀ではなかった。

 口角泡を飛ばし王国の栄光について長広舌を振るった当人が、2週間の療養を終えてみればそのような具合である。事情に深く関わらない人々が王の精神に残った「重大な差し障り」——現代的に表現するならば軽度の知能障碍——を懸念したのも理解できる。

 この認識は十数年前、グロワス13世に対する研究が本格化する以前において一個の定説と化していた。”回心”により知能にの障碍を負った王は主体的な政務を遂行することが不可能となった、というものだ。よって”回心”の1713年から死去の1735年までの22年間に行われた政治活動は基本的に当時の権力者——枢密院創設までは家宰フロイスブル侯爵。創設以降はアキアヌ大公、ガイユール公、デルロワズ公、フロイスブル侯爵による合議——によるものと見なされてきた。


 ここで留意を求めたいのは、またしても現代と第18期における人々の感覚の違いである。第18期には人権と福祉の概念はまことに希薄であった。各種障碍を持った人々に対する支援は正教会により宗教的情熱のもと細々と続けられてきたが、あくまでもそれは「憐れみ」を動因とする「施し」である。

 現代の我々が持つ「人権」の概念自体がほぼ存在しなかった第18期において、世間の障碍者に対する扱いは非常に冷酷なものであった。嘲弄、罵倒、侮蔑。これらはまだな方である。中流階層までの家庭であれば、憂さ晴らしを含む物理的な攻撃すら行われた。下層民の世界にはそういった問題は見受けられない。というのも、労働力になり得ぬ存在は気軽に捨てられ野垂れ死んだからである。

 王を頂点とする上流階級の社会において、その存在は覆い隠された。しかし、多種多様な社会階層の人々が織りなす噂話が情報伝達の中核を為す社会において、それを隠し通すことは不可能である。中途半端に隠匿を行うがゆえに憶測はかえって加速する。結果として、実像とは全く異なる”事実”が流布する。知的な存在であることを自認する貴族達は障碍を持った同胞に「憐れみ」を垂れる。だが、少し酒でも入れば薄い憐憫の皮はいとも簡単に剥がれ落ち、平民と何ら変わらぬ侮蔑を含んだ笑い話の種になるのが常であった。

 グロワス王が当時の人々が述べる「白痴」——現代で言うところの軽度の知能障碍——を負っていなかったことは、少しでも当時の文献に当たればすぐに分かる。しかし現代の我々が見ることができる政府高官や妃達の手記、書簡の類いを目にすることができた人間は18期当時にはほぼ存在しなかった。情報伝達手段といえば薄っぺらい一枚紙の「新聞」しか存在しなかった時代、一度流布した噂は簡単に「真実」と化してしまう。よって、歪められたグロワス13世像に責任を負うべきは「定説」あるいは「時代の情勢」や「党派性」に引きずられて訂正を怠った研究者達に存するものだろう。


 では、御前会議を上の空で過ごすグロワス13世はどのように政治に関与したのか。前節で登場した内務卿プルヴィユ子爵や財務監モンブリエ伯爵、近衛軍監バロワ伯爵(グロワス13世妃メアリ父)、陸軍副卿デルロワズ公、海軍卿グリルエン侯爵など、家宰フロイスブル侯を除く閣僚達の覚書や手記、書簡の中にその様は豊富に残されている。

 大きく短縮された御前会議の後、王は彼らのうちの一人か二人を執務室に招く。ほとんどの場合家宰が共に招かれる。そこから王の「下問」が始まる。前掲した財務監の逸話にあるように、各職域の込み入った話が展開されるのが常であった。シュトロワ市内に存在する下層民(より正確には無産市民)の実数を問われた内務卿は「およそ”大陸一の高貴な方”が心を向けられる問題ではない」と、肯定否定判別せぬ感想を残している。1712年に亡くなった父を継いでデルロワズ公家の当主となった陸軍副卿は砲と銃の月間生産数を尋ねられ返答に窮した。海軍卿も同様に、軍船の乗務員確保について質問を受けている。

 これら王の問いは数値的な情報に始まり、時を経るにつれてより大きなもの——政策——への疑問へと転化していった。各部門の長たちから受ける報告を統合し、国策の検討を図るとき、その相手は恐らく家宰フロイスブル侯爵であったことだろう。しかし、まことに残念なことにその細密な記録は一切残されていない。

 いずれにしても閣僚達がグロワス13世を「白痴」と見なさなかったことは火を見るよりも明らかである。当時警察機構を管轄したプルヴィユ子爵の動きは象徴的である。”回心”から数ヶ月後、彼は外様の諸侯に関する様々な情報を王に報告するようになる。それはつまり、当時サンテネリ内にありながら半独立を保った二つの公領——ガイユール公領とアキアヌ公領についてのものである。それは一つの政治的選択であった。


 このような下問を積み重ねた上で決断された二つの政策、上述した近衛軍と海軍の処遇について、ここで改めて細目を述べることはしない。ただ、それを受けた近衛軍監、海軍卿ともに、指示が「誰から」発せられたものかを明確に認識していたという事実を提示しておく。彼らは共に、家宰や財務監に対して何らかの反応を見せることはなかった。それぞれの書簡にも家宰、財務監に対する恨み言の類いはない。「陛下のご判断」の語のみが存在する。近衛軍監のそれが諦念を含んだ納得であるのに対して、海軍卿のものは若干の不満が含意されているが。もしも王が完全な「お飾り」であるのならば、両者の不満は王の意を騙った者に向かうはずである。「お飾り」まで行かずとも、家宰や財務監に操られていると感じたならば、やはり同様の矛先を示したことだろう。

 つまり、両者は自らの職分が縮小するという官僚にとって最も忌避すべき事態に直面したとき、その判断の主体を王と見なしていた。操り人形ではない、強い主体性を持った王の命令ならばこそ、心内の波乱はさておき両者は従ったのである。地位は異なれど同輩たる家宰や財務監の仕掛けであれば、彼らが唯々諾々と手を挙げることはなかったはずだ。近衛軍監と海軍卿はいずれも軍という暴力装置の最高権力者たちであったのだから。重ねて言うが、第18期において文民統制は存在しない。


 ◆


 婚姻政策

 グロワス13世の治世から分かりやすい特徴を探すとすれば、それは婚姻政策の妙であろう。ご存じの通り、グロワス13世は4人の妻を持った。

 王国正妃アナリゼ(帝国正妃子第一皇女アナリース・ヴォー・エストビルグ)、側妃ゾフィ(ガイユール大公正妃子第一公女)、側妃ブラウネ(家宰フロイスブル侯爵正妃長女)、側妃メアリ(近衛軍監バロワ伯爵正妃長女)である。

 政治の表舞台を避けたメアリ妃を除き、他の妃達はいずれもグロワス13世死後のサンテネリ政界において隠然たる勢力を誇った有名人であるが、従来の通説は彼女達をある種の”犠牲者”として描く傾向が強かった。国家、あるいは公領や所属勢力のため、精神に障碍を負った王に身を捧げた哀れな女性達、というものである。実際に”大改革”以降に流布した新聞——実際には落書の類に近い——には、怯えおののく美姫達に襲いかかる正気を失った醜悪な王の戯画さえも存在する。

 だが、前述の通り、巷間に流布したその印象が全くの誤りであることはこれもまたすぐに分かる。そのためには、ほぼ無傷で残されたブラウネ妃の手記を一読するだけよい。もちろん穿ちすぎた見方をすれば、手記は生贄めいた結婚に耐えられなかった彼女が空想した「理想の殿方」を書き綴ったものと考えることも可能ではある。もしそれが真実であれば、ブラウネ妃は王妃としてよりも希代の女流として中央大陸の歴史に名を残す天才であろう。

 内心が丸々残されたブラウネ妃は例外として、他の妃達の真情をうかがい知ることは難しい。近年のグロワス13世流行りを受けて、これまでとは逆の方向に大きく脚色された小説や絵物語、映像演劇が数多く発表されている。サンテネリ国王という高貴な血を持ち、有能で精悍ながら時代特有の粗野を感じさせない「紳士」の王——しばしば目を惹く美男子に擬せられる——と、双肩に家や国家を担いながらも、王の愛に守られて幸せを手に入れる美貌の姫たちという、なかなかに分かりやすい構図である。グロワス王研究復興以前を知る筆者にとっては、あの悪評の塊だった王が「理想の男性像」として描かれる現状はまことに感慨深いものだ。いずれにせよ、現代では完全に廃れた複数婚の風習と相まってグロワス13世の閨房は我々に、好奇心を刺激する「情感」を提供してくれるものだ。

 しかし、残念ながらそれらはあくまでも創作である。実態として、姫君たちが皆、王に親密な感情——現代的には恋愛感情——を抱いていたかとなると難しいところである。従者達の証言や当人の覚書などには「陛下を恋い慕う」様が残っているが、それはある種の定型句である。男権的傾向が強く、公的な場では貞節と愛をことが善しとされた社会にあって、夫を悪し様に罵ることは礼に叶わぬ行為であった。ただし、王との関係が破綻していたとも考えづらい。それを証明するには一事で事足りるだろう。王妃達は誰一人として愛人を持たなかったのだ。また、王も同様に愛人を持たなかった。

 第18期の社会は血族維持のために男性一人に対して女性複数の一夫多妻制をしていた。正教的倫理観からするとそれは望ましいとはいえない行為であったが、必要な慣習として世俗化していた事実がある。さらに、現代と異なり、当時の婚姻は家と家の間で為される一種の契約、同盟であり、個人的感情が差し挟まれる余地は存在しなかった。となれば、婚外の恋愛は人間の感情として必然であろう。よって、特に政治的必要性から多くの妻を娶ることが求められた高位貴族の社会においては婚外恋愛は常態化しており、よほどのことがない限り夫が妻を咎めることもなかった。夫の側も他の女性と関係を結んでいるのだから。

 そんな中でグロワス13世の「家族」にそのような形跡が見られなかった事実は驚きに値する。面白いことに、現代のグロワス13世人気の源泉の一つはこの関係性が人々の共感を生んでいるところにある。一夫多妻制という現代の観点からは歪な形態を取りながらも、その枠内においては誠に現代的な男女個人の関係が成立するという不可思議な状況は明らかに我々の興味をそそるものである。

 先ほどブラウネ妃の日記で述べたと同様に意地の悪い推測をするならば、グロワス13世が極度に嫉妬深い性格をしており、当時としては当然のといっても過言ではない妻達の婚外恋愛を一切禁じた可能性も否定できない。唯一詳細な記録が残るブラウネ妃の場合、その性格からして王の嫉妬に喜びすら感じたであろうから、反駁の材料としては少々弱い。


 さて、妃それぞれが抱えた心内の問題はさておき、政治的視座から見たとき、グロワス13世の婚姻政策は大きな成功を遂げたと言える。アナリゼ妃との婚姻はエストビルグ王国との緊張緩和を達成するものであり、王が志向した軍縮政策と表裏一体を為す。ゾフィ妃とのそれはガイユール公領の取り込みそのものであり、サンテネリが抱えた国家内国家の解消を強く後押しした。ブラウネ妃については明確に、王の支持基盤たるルロワ譜代諸侯との関係を強めるもの。つまり足場固めといえる。メアリ妃は近衛軍の中心として奉職したバロワ家と紐帯を維持し、近衛軍が国軍と合流する中で、当初の予想とは逆に軍における王の発言権をバロワ出自の将校を通じて拡大する結果を生んだ。

 そして全てが合わさった結果、王の最大の競争相手と見なされたアキアヌ大公爵ピエルの動きが封殺された。王朝の交代は防がれたのだ。

 これらの婚姻同盟に含まれるグロワス13世の意図の分量を量るのは難しい。というのも、婚姻は家と家のものであると同時に人と人がなすものである。例えば結びたい家に適齢期の女性がいなければ成り立たないし、婚姻後相手が早死すれば関係は解消されてしまう。よって、18期初頭のサンテネリを構成した主要勢力の家に適齢期の女性が存在したという偶然と彼女達が揃って健康を維持したというもう一つの偶然が、王の治世を下支えしていることは否定できないだろう。

 では、王は何をしたのか。まず、結ぶ相手を決定したのは彼である。各家が娘を妃にと根回しを行ったのは事実だが、それはフロイスブル家やガイユール家に限ったことではない。”回心”以降頻繁に行われるようになった午後の茶会には有力な貴族家の娘が他にも多く招かれている。しかし、徐々に相手は絞られ、最終的にはブラウネとメアリ、そしてゾフィが残った。政治情勢の変遷を観察しつつ、ある程度個人的な好みと合わせて候補を絞ったのであろう。

 もう一つ王が行ったことがある。それは「破局」を防いだことである。ルロワ家譜代諸侯の娘であるブラウネ妃やメアリ妃と異なり、帝国皇女アナリゼとガイユール大公女ゾフィは臣下の娘ではない。ルロワ家と対等に近い家の娘である。よって、王との関係性によっては離婚は十分あり得る選択肢だった。しかし、結果的に両者は王と子を為し、その死まで連れ添った。男女の仲を論理的に判断するのは難しいため両者が王をと断言するのは難しい。だが、我慢できないほど嫌ってはいなかった、とまでは言ってよいだろう。


 ◆


 外交政策

 ”回心”以降の急展開を象徴するものの一つとして外交政策が挙げられている。グロワス12世代末期より、慢性化したエストビルグ王国との抗争を鎮静化させる試みが始まっていた。その一つに新王グロワス13世と帝国皇女アナリースの婚姻を柱とした帝国との和約がある。死期を悟ったグロワス12世の命を受け、水面下で動いたのは家宰フロイスブル侯爵であり、帝国側では皇妃アウグステと宮中伯バダンである。しかし新王の性格と言動はその目論見の実現可能性を極めて低いものとしていた。

 即位以前からプロザン王フライシュ3世と交流を持つ若き王は、”回心”以前の一年、エストビルグを明確な仮想敵と定めていた。御前会議の場においても、いかにエストビルグ領を侵攻するか自ら黒板に模式図を書きながら熱弁を振るったという。

 しかし”回心”は全てを変えた。

 王と家宰の数度にわたる会談の後、和約に向けた動きは俄に活発化する。急ぎ肖像画が製作され、親書がしたためられ、シュトロワとヴェノンの間を両国の使節が間断なく行き来するようになる。

 そして1715年、2年の婚約期間を経て、アナリースの輿入れが実現した。

 サンテネリとエストビルグの和約は中央大陸の勢力構造を大きく書き換えるものであった。プロザンは昔日の優位を失い、後にサンテネリとの和約に踏み切ることとなる。その際に行われたグロワス13世とフライシュ3世の会談がどのようなものであったか、公的な取り決め以外の部分は明らかになっていない。ただし、フライシュ3世の存命中、この変幻自在の王——よりあからさまに言えば信用ならない王——はサンテネリとの友好を維持し続け、後を継いだフライシュ=ヴォーダン2世はグロワス13世への警戒と恐れを公言した。三王同盟脱退時には側近に何度となく「グロワス王とやれるのか?」と尋ねている。当のサンテネリにあっては枢密院体制が発足して久しく、王の存在など半ば忘れ去られていた時期に、遠くベリオンの玉座を占める他国の王だけが恐怖を感じていたという事実は、グロワス13世とフライシュ3世の関係を推し量る一つの材料となるだろう。


 ”回心”以降の初期には安定していた諸外国との関係性は、後半、枢密院創設準備期に入り俄に騒がしくなる。対プロザンで共同戦線を目論むエストビルグは遅遅として行動を起こさぬサンテネリに苛立ちを隠さず、アングランは和約によって一息ついたサンテネリが対アングランで先鋭化することを恐れた。

 前者は枢密院体制発足後三王同盟という帰結に至る。

 そしてアングランとの関係は、再評価以前にさえ知られた演説の一つ「ガイユール館の演説」を導くこととなった。


 地理的な近さゆえガイユール公領と関係の深いアングランは、サンテネリの動揺を誘う方策の一つとしてガイユールをにシュトロワの政府に揺さぶりを掛けた。シュトロワの市民達を顫動する工作がなされ、一時首都は騒乱寸前の状態に陥る。

 この状況を収束させるためになされたのが、王本人によるシュトロワのガイユール館への行幸である。

 グロワス13世は、長い歴史を誇るルロワ王家の王として初めて、民衆に対して直接語りかけた。ガイユール大公女ゾフィを馬に同乗させ、館の前で語りかける王の姿は、庶民の日記にすら記録が残る当時の一大事件であった。ただし拡声器など存在しない時代の出来事である。詰めかけた群衆のほとんどは、王の言葉の数節を辛うじて聞き取れたに過ぎない。全てを聞いたのはかなり前列の一部市民だけである。よって、王がなした演説の全貌は近年までほとんど知られていなかった。アングランを敵視する内容であったことだけが記録に残った。

 しかし、王の言葉を聞き取りえた前列に、偶然にもある男——まだ少年といってよい——が陣取ったことで、サンテネリの運命は大きく変化していくこととなる。


 ◆


 ”大改革”との関わり

 本書冒頭、グロワス13世の再評価を引き起こした切っ掛けの一つとしてレスパン遺稿を取り上げた。

 ジュール・レスパン遺稿の構成は大きく3つに分かれている。一つは日記、もう一つは論文草稿。そして最後に”王”の言行録である。

 日記や論文草稿が大きな価値を持つ第一級の史料であることは論を俟たない。だが、3つめのそれは研究者達にとって史料以上のものであるといえる。それは過去の通説を事実上無価値なものとした。

 サンテネリ共和国の父レスパンは王権の敵対者、批判者として知られる。彼が後の国会でなした演説においても、王位と王制に対する痛烈な批判は常に主題であり続けた。

 自らも貴族の出自を持つ彼が王制に対して決定的な失望と敵意を抱く切っ掛けとなったのは、1716年、グロワス13世への献辞披露の際であったとするのが定説である。

 王制を批判する自身の献辞に対して、褒められたと勘違いした王は無邪気に喜び満足した。初めて肉眼で見た”我らが王”のその余りの低脳振りと、そんな愚王に対して”不正”にも頭を垂れざるをえないサンテネリ社会の不条理こそが、若きレスパンのその後の活動を決定づけたというものだ。

 しかし、遺稿に含まれた王の言行録は文字通り、を吹き飛ばした。

 言行録はガイユール館における王の演説をもって始まる。一部雑音により聞き取れず歯抜けとなった箇所はあれど、ほぼ全文だ。

 さらに驚くべきことに、1715年、アキアヌ大公家で催された夜会に師ポルタ教授と出席した折、王とレスパンは対面を果たしていたのだ。そこで余人を交えず1時間以上に渡って交わされた会話の内容もまた全て書き留められていた。

 生前から知られた驚異的な記憶力を十全に発揮して、王の言葉の一部始終を記録したこの文章群は研究者達に徹底的に分析された。その結果判明した事実は非常に興味深いものばかりであるが、グロワス13世を主題とする本書で解説するのは最小限に留めたい。レスパン遺稿については良質の研究書が多く刊行されているので、興味をお持ちの方はそちらにあたられたい。巻末に文献を掲示しておく。


 この場では判明した事実の中から一つだけ、一般読者諸氏にあまり知られていないものを紹介しておこう。

 華麗な演説を以て知られる共和国の父だが、その語り口が実はグロワス13世のそれに酷似しているというものである。どちらがどちらの影響を受けたのかは明白である。レスパンが歴史の表舞台に本格的に姿を現すのはグロワス13世の死後のこと。その演説もまた、全て王の死後に為されている。

 レスパンは王の演説を記録するに留まらず、数行に一度は自身の見解や注釈を書き込んでいる。そしておそらくは何度も読み返しているはずだ。意図せぬうちに王の言葉と口調はレスパンに受け継がれた。

 グロワス13世の演説を特徴づける背理や対比の構造、倒置表現の多用は、そっくりそのままレスパンの演説と重なる。


 我々が小等学校最終年、国語の時間に学ぶレスパンの演説集。サンテネリの全国民が教科書で読み親しんだ、あの光輝に満ちた共和国の宣言。それがを、現代の我々はついに知った。

 ”賢い導き手コントゥールと愚かな枢密院主催者コントゥール”という高等学校教科書の記述は書き換えられる必要がある。


 ”導き手コントゥールたち”と。

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汝、暗君を愛せよ 本条謙太郞 @kentaro5707

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