幸福な部屋

汎野 曜

幸福な部屋

 2024年8月の10日、土曜日の未明の事です。

 あれが何であったのか未だに私には殆ど分かりませんが、きっと何かを暗示するものだったのだと思います。それを書き留めておくために、久しぶりに筆を取ろうと思います。


 夢を、見ました。


 それは千葉県の某所の事であったと思います。私が在住しているのは関西ですから、きっとその日は仕事の用事か何かで千葉に赴いていたのでしょう。仕事が終わって時間を見たところ、既に関西へ帰る最終電車はとうに過ぎ去っていましたから、私はどこかの田舎町で宿を取ることにしたのでした。


 それは民宿のような、こじんまりとした小さな宿でした。

 一目見て、明るいと思ったのをよく覚えています。

 畳張りの和室には二方に窓があり、障子張りされた窓越しにも外の光が室内に差し込む、とても明るい部屋でした。九千円という宿泊費からはおよそ予想もつかぬほど明るく、そして広い部屋。室内にはあちこちに家具がそのまま置かれ、文庫本や何かの漫画本が山積みに置かれているのが目に入ります。確か、マルクス・アウレーリウスの「自省録」、それも岩波文庫版が置いてあったことが記憶に残っています。

 片隅には古めかしい鉄製のベッドが鎮座していました。ちょうど障子越しに光の当たる位置、少々古びたマットレスが設置された鉄格子の寝台でしたが、よく手入れがされて快適そうに見えました。


 私は宿に入るときに見かけた、「チェックアウトは十六時」といういささか奇妙な文言を思い出します。ふつう「チェックアウト」と言えば午前中、遅くとも正午に設定されているのが当然なものですから、十六時という時刻が何の意味を示しているのかは相当に不可解でした。

 ちょうどその時ぐらい、私が部屋に入ったのと同じぐらいの時刻でした。出入りばなにチェックアウトした同宿人たちと出会うかと思いましたが、そんな人は影も形も見えなかったのをよく覚えています。

 妙に明るく、そして妙に寂しげな夕暮れでした。


 それからどうしていたのかは定かではありません。恐らく私は、仕事の疲れにかまけてそのまま寝心地のよさそうな鉄格子のベッドで眠ってしまったのかもしれません。

 気が付くと、部屋は翌朝になっていました。

 室内の様相が一変していることには、私でなくとも気が付いたことでしょう。

 部屋の中にあったはずの文庫本の山、漫画本の束が、全て私の好きなもの、それも過去の私が大好きだったものに差し替えられているのです。


 ふと自分が包まっている布団に手を触れると、かつて子供時代に私が実家で両親と共に寝転がっていた寝室の布団そっくりそのままです。何なら実家の残り香すら香る布団に身を起こしながら、私はしばし呆然と部屋の中を見渡します。

 室内は昨日よりさらに輪をかけて明るく、閉じたままの障子越しに朝の白い光が燦々と差しています。今にして思えばあの場で障子を開いていたら、その先にはこの世ならざる世界の風景が広がっていたのかもしれませんが、その時の私にはそんなことには思いもよりませんでした。

 それほどまでに室内の様相は変わっていました。畳張りの上には実家と同じ絨毯が敷かれ、実家で食事をしているのと全く同じ食卓がおかれ、私が幼少のみぎりに好き好んで食べていた生卵入りの納豆と白米とが置いてあります。

 見れば見るほど、足元から天井に至るまで何もかもが実家と一緒で、私が見慣れて過ごした家具と装飾品とに置き換えられています。夜半の内にでも従業員が部屋の中に入ったのかと思いましたが、私は生来眠りが極めて浅いの人間なものですから、恐らく気付いて目を覚ましたはずです。それも無かったという事は、これはもう何かしらの神通力によりてでも部屋の中身を取り換えられたとしか言いようがないのでした。


 直感したのをよく覚えています。

 十六時のチェックアウトとは、この宿では多くの宿泊客がこの部屋の中で長い時を過ごしてしまうからなのだと思いました。

 私はふらふらと練り歩くようにして部屋中を見て回り、一つ一つ全てが私自身の幼い頃の風景と同じである事を確かめて回りました。確かにそれは、私がまだ幸せだったころの風景そのものなのでした。


 私は漫画本を手に取ります。

 確か、ヤスダスズヒトの「夜桜四重奏」であったと思います。中学生ぐらいの時分、大好きで読み続けていた作品の一つです。読めば読むだけのめり込んでしまうもので、気が付くと瞬く間に時が過ぎていきます。

 それこそ「夜桜四重奏」を読んでいたころの私は、今とは違って平穏で安閑とした人生を謳歌していたころで、こんな苦痛と暗闘に満ち溢れた人生がやってくるなど想像だにしていませんでした。読めば読むほど、当時の平和で満ち足りた静かな時間が帰ってくるかのような気がして、私は必死になって漫画本を読み続けました。


「お客様」

 突然声が聞こえて、跳び上がるようにして私は周囲を見渡しました。

 部屋の障子戸が少しだけ開けられて、白髪交じりの老婆が足を組んでその場に座り、伏し目がちにこちらを見ています。

「何ですか」

 私が問うと、老婆はゆっくりと障子戸を押し開き、よく洗濯されているらしい、良い香りのする洗濯物を差し出してきます。

「お客様のお帰りに際して、お洗濯ものをご用意させていただきました」

 私はその言葉を聞くや否や、驚いて時刻を確認します。既に十四時になっていました。


「ああ、ありがとうございます」

 いささか取り乱した風を隠すこともままならないうちに、私は老婆に答えてその手から洗濯物の束を受け取ります。洗濯のお願いをした覚えもないのに、一体何を洗濯したというのでしょうか。

 受け取った私は目を見張りました。老婆が差し出してきた衣服は、私が幼い頃にお気に入りだった衣服を大人用にリサイズしたものでした。あの頃着ていたふわふわの毛皮付きの上着、ポッケがたくさん付いて格好良かったズボン、一つ一つ全て、あの頃私がお気に入りだったものばかりです。私がそれらを思わず抱き締めると、懐かしい、実家の洗剤の香りがふんわりと漂ってきます。

 そろそろ、きっとそういう部屋なのだと私は思い始めていたと思います。この部屋はそうして、まだ幸せだった時代の事を見せてくれる場所だったのです。


 あと二時間もせぬうちにここから出て行かねばならない。その事実が何よりも私の心を切なくします。

 私はしぶしぶ、帰りの荷造りを始めたのでした。部屋に入った時のまま無造作にそれだけは放置されていたビジネス用の手提げ鞄。それだけ嫌に黒光りして、まるで苦痛に満ちた会社員生活が口を開いて待っているかのようです。それでも、帰らねばならないのには変わりありません。私は一つ一つ、持ち物を手に取り始めました。スマホ、財布、仕事の書類、パソコン、それらを鞄に詰め直した時、私はふと周囲を見やるのです。

 そこは私がかつて愛したものたちにあふれた、平穏で幸福だったころの部屋そのもの。私は耐えられないほど切なくなりました。


 そうして私は、何を血迷ったか宿の備品であるはずの漫画本を鞄に詰め、そして幼い頃に思い出を搔き抱くようにして布団を丸め、あまつさえ絨毯にまで手を掛けようとします。

 私は全てを持っていきたかったのでした。大切な思い出、幸福な記憶、それら全てを持っていけば、きっとこの先の苦痛に満ち溢れた人生にも何とか耐えられるとでも思ったのかもしれません。とにかく私は部屋の中の全てを持っていきたかったのでした。

「お客様、あと一時間でチェックアウトのお時間でございます」

 そんな声が聞こえましたが、私はもう返事をする余裕すらなくして、必死の形相で部屋中の家具と言う家具を持ち帰るための算段を考えていました。


 やがて小さなビジネス鞄が元の三倍ほどの体積になり、右腕に丸めた絨毯、左腕に丸めた布団を抱えて、私が部屋を出ようとする頃。既に時刻は十五時半となっています。

 私は必死で宿のお会計へ向かおうとしていましたが、その歩みは遅々として進まず、幾ら動こうとしても、部屋の外の明るい廊下に出るだけで精一杯でした。そこで私は初めて気づくのです。

 幸せな記憶全てを持ち帰る事は、できないのでした。


 廊下の向こう、突き当りに、障子の嵌っていない窓が見えました。驚くほど真っ青な空が映り、そこから差す明るい光が廊下全体を照らしているのです。もう相当に陽が傾いてるのだと思いました。

「お客様」

 振り返るとそこに、血色の良い若者が立っていました。彼は荷物の重みで動けなくなった私を見て静かに微笑むと、ゆっくりと口を開くのでした。

「お客様が現世うつしよへ持って帰れるのは、お客様がここへ持ってきたものと、それからお客様が持てる分だけです」

 うつしよ、などという言葉を真正面から聞いたのはこれが初めてでした。恐らくは薄々私の意識も目覚め始めていたのかもしれませんが、私はここがなのだと、事ここへきてはっきりと理解するに至りました。

 ふと腕時計を見れば、時刻は既に十五時五十分を回ったところでした。


 若者は相変わらず静かに微笑みながら、落ち着いた声で話し続けるのです。

「もしお客様がそれをお望みでないのなら、苦しみに満ちた現世うつしよになどお戻りにならずに、ずっとここで暮らせばいいのです。どちらを選択されても、わたくしどもはお客様の選択を尊重いたします」

 そう言われて、その時に私は直感的に「帰らねばならない」と思ったことをよく覚えています。帰るのです、苦しみまみれの人生に、愛する人の待つ場所に、帰らねばならないのでした。


 気が付くと、私の顔は涙でまみれていました。

 泣きながら私は、右腕に抱えた絨毯を手放し、左腕に抱えた布団を手放し、鞄の中に入った漫画本や、子供のころのお気に入りの衣服たちをその場に放り投げました。

 私は全て投げ捨てました。幸せな記憶、平穏で幸福な時代の思い出を投げ捨てて、そうすると私は随分と身軽になって、それまで一歩も動けなかったのが嘘のように身体が軽くなりました。切ない軽さでした。人間はもつべき幸福と思い出を捨て去ってしまうと、それほどまでに軽くなってしまうものだったのです。


「それがお客様の選択ですか。少し残念ではありますが、まだまだお客様は苦しみだらけの現世うつしよで生きていかれるのですね」

 そう呟くと、若者は涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、まるで憑き物が落ちたかのように爽やかな笑みを浮かべました。

「おいでください。お客様、チェックアウトに致しましょう。お目覚めの時間です」


 私は宿のお会計のためにカウンターに立ちました。

 そこにはレジの前に先ほど見た老婆が立ち、若者が私とカウンターを挟んで微笑んでいます。きっとこの二人は人ならざるなのでしょう。そろそろ私にもその事が分かっていました。

 悲しみと、懐かしき幸福、それらの詰まった切ない幻想。一瞬とはいえ、それを私に垣間見せてくれた彼らは、ただ静かに微笑んでいるだけでした。

「朝ですよ。お客様、今日もよい一日を」

 そう若者が言った、その瞬間。


 私は目を覚ましました。

 2024年の8月10日土曜日、時刻は朝の09時。

 私は今見たものを思い出して、枕元を涙で濡らしていました。

 もう一度あの夢が見れないかと思って目を瞑ったけれど、もうあの幸福な部屋の風景が帰ってくることはありませんでした。


 ただ静かに、あの世界で見た光の美しさだけが、私の心の中にいつまでも残ったのでした。

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