祖父
六散人
久しぶりの帰省だった。
地方で農家を営む実家を出て東京の大学に進学し、そのまま東京の会社に勤め始めて、既に10年以上が過ぎていた。
実家には年に一度帰るか帰らないかだ。
仕事が忙しいからと理由をつけているが、実際は帰るのが嫌だったからだ。
自分の生まれた家を疎ましく思う理由は、幾つかあった。
そもそも集落中が全部知り合いのような環境が鬱陶しかった。
閉ざされた空間の中で暮らすのが、とても嫌だったのだ。
しかしそれよりも、実家を出たいと思った最大の理由は、祖父だった。
私は何故だか、子供の頃から祖父が怖かったのだ。
祖父が厳しかったからとか、叱られたからとか、そういう理由ではなかった。
むしろ祖父は、幼い頃の私に対して、過剰に優しかった気がする。
だから祖父を怖いと思う、はっきりとした理由は、今でも分からない。
ただ何となく怖いと思っていたのだ。
東京の大学を卒業する際に、両親は地元に帰って就職することを希望していた。
私には兄弟がなく一人娘だったため、実家に戻って欲しかったのだろう。
その気持ちは痛いほど分かったが、私は実家での暮らしに戻ることがどうしても嫌で、反対を押し切って東京の会社に就職したのだ。
今回帰省した理由は、祖父の老衰がかなり進行しているため、両親に一度帰って来て顔を見てやって欲しいと言われたからだった。
祖父は私が東京の大学に入学した直後に脳梗塞を起こし、要介護状態になった。
その後病状が回復することはなく、両親が実家でずっと介護を続けているのだった。
最初の頃は意識もはっきりしていて、言葉を発することも出来たのだが、ここ数年は朦朧とした状態が続いているようだ。
昨年帰省した時には、私が呼び掛けても、祖父からは何の反応も返って来なかったのだ。
実家に着くと、母は取り敢えず祖父の顔を見てやって欲しいと言った。
「爺ちゃん、意識がある頃は、いつも瑞穂に会いたがってたよ」
それが帰省する度に聞く、母の口癖だった。
そして祖父がつけた<瑞穂>という自分の名が、私はずっと嫌いだった。
祖父の老衰はかなり進行していて、医師からはいつ亡くなってもおかしくないと言われているようだ。
ベッドに横たわった祖父は、去年よりも一段と
眼も虚ろで、私が呼び掛けても、こちらを見ることはなかった。
――ああ、この人はもうすぐ、いなくなるんだ。
そんなことを考えるのは良くないと思う反面で、私は少しホッとしていた。
その日の夜、私は一人で二階にある和室で布団に入っていた。
両親はここ数年、何かあった時のために、階下で寝起きしている。
実家の夜は静かすぎて、かえって寝苦しかった。
東京に戻った後の仕事のことばかりが頭を過り、夜更けまで眠ることが出来なかった。
その時階下から物音がした。
何だろう?――と思ったが、布団から出るのが億劫で、そのままやり過ごす。
するとその音は少しずつ大きくなって、近づいて来る。
やがてその音は階段下に至り、続いて階段をずるずると昇ってくる音に変わった。
恐怖に駆られた私は、両親を呼ぼうと思ったが、声が出ない。
起き上がって音の原因を確認することなど、もちろん出来なかった。
やがてそれは廊下を這いずる音に変わり、私の部屋の前で止まった。
続いて襖がゆっくりと開いていくのを感じた私は、頭まで布団を被って震えるしかなかった。
そして襖が開け放たれ、畳を這いずってくる音が聞こえ始めた。
音は私の枕元まで来て止まる。
すると私の耳元で、掠れた声がした。
『みずほ』
それは祖父の声だった。
私はそのまま、声も出せずに失神した。
翌朝私は、母の声で目を覚ました。
「爺ちゃん、駄目だったよ」
どうやら両親が朝起きた時、祖父は既に亡くなっていたようだ。
「最後にあんたの顔が見れて、ホッとしたんだろうね。
穏やかな顔だったよ」
その言葉を聞きながら私は、昨夜の出来事が夢だったのだろうと思った。
霊魂など信じたことはなかったが、祖父の霊が夢の中で私に会いに来たのかも知れない。
結局私はそのまま実家に留まり、祖父を見送ることになった。
葬儀が終わり、東京に戻った私は、ベッドに横になりながら、ぼんやりと考えていた。
――私は一体、祖父の何を怖がっていたのだろう?
祖父についての嫌な思い出というのはなかった。
今思えば、祖父を怖がる理由などなかったのだ。
――馬鹿みたい。
そう思った時、廊下で音が鳴った。
音は徐々に寝室に近づいて来る。
私は息を呑んで、その音を聞いていた。
あの夜実家で聞いた音にそっくりだったからだ。
あの夜と同様に、音は寝室の前で止まり、ドアノブがゆっくりと降りる音に変わる。
そして開いたドアの隙間から声がした。
『みずほ』
その時私は気づいた。
私は祖父の、私に対する執着が怖かったのだ。
そして思った。
祖父はこれからも、ずっと私に執着し続けるのだろうかと。
了
祖父 六散人 @ROKUSANJIN
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