(跋)「将門」の祟り
平将門を祀る有名な神社は「神田明神」。七三〇年に
現在の千代田区大手町に創建された。
戦いに敗れた将門の身体は下総の延命院(茨城県坂東市)に埋葬されるが、首級は
平安京に運ばれ都大路の河原に晒された。しかし将門の首は切断された胴体を求め
て夜空に舞い上がり、坂東に向け飛翔したとされている。
首が落ちたとされる最も著名な伝承地が千代田区大手町にある『将門塚』である。
十四世紀初頭、関東に疫病が流行した。首塚の近くにあった神田明神が将門の霊を
供養したところ、疫病が沈静化したことから将門を祀るようになったという。
最初の不可思議な現象は関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建時のこと、首塚を
壊して仮庁舎を建設した僅か二年の間に大蔵大臣を始め関係者が十四人も亡くなっ
てしまう。他にも多くの怪我人・病人が続出したことで、建物は取り壊され慰霊祭
が執り行われた。
しかし第二次世界大戦に突入すると、人手や物資が不足し慰霊祭も次第におざなり
になる。すると将門の没後千年にあたる昭和十五年、大蔵省庁舎に落雷があり建物
が全焼した。
次は戦後。将門のことをよく知らないGHQが首塚を取り壊し始めると、重機が横転して運転手が亡くなってしまう。工事は中止された。
更には昭和の高度成長時代、首塚の一部を残して土地が売却され、その地に日本長期信用銀行のビルが建てられた。すると、その建物の首塚に面した部屋の行員が次々に病気になるなどの不可思議な事態が発生する。現在でもその地に隣接するビルには、首塚を見下ろすような窓は設けないなどの配慮がされているとの噂が囁かれている。
将門の乱を鎮圧するに際して、朝廷から怨敵退治の祈祷を命じられた諸社諸寺の中
に全国的に著名な「成田山新勝寺」がある。
しかし将門やその家来の子孫、神田明神の氏子などは、成田山に参拝すると将門の
怨霊に祟られるという伝承から参詣しないという。毎年NHK大河ドラマの出演者
は成田山の節分豆まきに参加するのが通例となっているが、将門が主人公であった
『風と雲と虹と』の出演者たちは豆まきの参加を辞退したという。
そもそもの発端は坂東の所領をめぐる平一族の中の私闘にすぎなかった。父・良将の死に伴い、国司の立場を悪用した伯父たちと将門との争いである。
平安時代後期、地方行政を担うため朝廷から派遣された国府の役人たちの間には横領などの不正が横行していた。坂東の民は、国司とつるんで私腹を肥やす在地豪族らによって重い負担を強いられ続ける。
そこに桓武天皇の五世である将門が降臨し、その鬼神のごとき強さを目の当たりにして、民はこの高貴な血筋の若者に期待を寄せた。やがて関八州の国司を追放し将門が新皇となって「東国の独立」を成し遂げる。
坂東は沸いた。民の長年の願いが叶った瞬間である。
しかし、それは京から送られた追討軍によって僅か二か月で終わりを迎えてしまう。
夢破れた坂東の民は嘆き悲しみ、怒り、そして京を恨んだ。
それが将門の怨霊となって、都を恐怖のどん底へと陥とし入れる。
民の想いは後に源頼朝によって東国の独立、即ち鎌倉幕府へと受け継がれていく。
江戸時代には庶民の間で将門人気がいっそうの高まりを見せ、浄瑠璃や歌舞伎の
演目、黄表紙や読本などでも多くの作品が誕生した。
しかし明治時代になると将門は朝廷に弓を引いた逆臣であるとの扱いを受け、
神社の祭神から外されるなどの苛酷な待遇が終戦時まで続く。
様々な紆余曲折を繰り返しながらも敗者の祟りが長く語り継がれていく背景には、
怨霊の無念のみならず、その生涯に人々が共感し、支持し、風化させないように
との思いが詰まっている。
歴史は勝者の物語、よって敗者である平将門を伝える資料は少ない。
『将門記』についても正確な成立時期は不明であり、誰が何のために書いたのか
すら分かっていない。
しかし千年の時を経た今、将門は人々に加護を与える神として信仰されている。
「将門」の祟り 山口 信 @masatoUKYO
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