(十四)坂東平氏

天慶三年(940)四月、将門の首は京に届けられ七条河原に晒された。

弟・将頼や藤原玄茂は相模国で、興世王は上総国、藤原玄明は常陸国で殺害される。

五月、陸奥国の乱を鎮圧した鎮守府将軍・平良文が関東に凱旋するも、将門はすでに

討伐された後であった。


首尾よく坂東を平定した朝廷は南海の海賊・藤原純友に対する融和策を翻し、追捕使長官として小野好古よしふる、次官に源経基を任じて武力による鎮圧に踏み切った。

純友は朝廷と交渉し事態の打開を狙ったが、組織立った追捕軍が派遣されると国府を捨てて日振島ひぶりしま(愛媛県宇和島市)に潜伏する。

翌天慶四年(941)、博多湾の戦いで純友は討伐された。

かくして東西の大反乱は鎮圧された。しかし朝廷が願った「平穏な世の中」が到来することはなく、奈良時代より始まる古代律令国家は急速に解体への道を進み始める。


天暦六年(952)、平良文は下総国阿玉において六十七歳で没した。

良文は相模国鎌倉郷に移って村岡城を築き「村岡五郎」を称していた。

良文には五人の子がおり、将門の娘である春姫を正室とした三男・忠頼からは千葉氏上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などが、五男・忠光からは三浦氏、梶原氏長江氏、鎌倉氏などが、更に多くの氏族に分かれて『良文流坂東平氏』を形成した。

後に、源頼朝に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し、有力な御家人となった者の多くがこの坂東平氏に属している。


平貞盛は、将門討伐における勲功が評価され従五位上に叙せられた。

後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した。貞盛の嫡男・維将の孫には、源頼朝と共に幕府を築いた北条氏の始祖とされる

平直方がいる。

妾腹の四男・維衡これひらは伊勢国に地盤を築き、後に平清盛を輩出する。清盛の一族は朝廷に進出したことで、公家と並んで『平家』と称されるようになった。


平将門追討の功により藤原秀郷は従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられる。坂東で勢力を拡大し、源氏や平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。後に源頼朝を支えた比企能員は現在の埼玉県比企郡を本拠地にした秀郷の末裔である。

また『尊卑分脈そんぴぶんみゃく』によれば、奥州藤原氏の初代・清衡きよひらは秀郷から数えて七代目に当たる。


武家源氏の源流は清和源氏、第五十六代清和天皇の孫・経基王の系統である。

源経基は征東大将軍・藤原忠文の副将の一人に任ぜられて将門の反乱の平定に向かうが、既に将門が追討された事を知って帰京する。武勲の無い経基ではあったが武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。

経基の長男・源満仲が摂津国多田で武士団を形成し、朝廷の警護を担ったことから『摂津源氏』と呼ばれるようになる。

満仲の子である頼光・頼信の兄弟は藤原摂関せっかん家に仕え、後に頼信は諸国の受領ずりょうや鎮守府将軍などを歴任する。源頼義、義家ら代々の嫡男は陸奥守むつのかみに任じられ、義家は東国に武家源氏の基盤を築いた。源頼朝や義経はこの系統から輩出されている。






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