長文読解は、タイパに反する?脊椎反射では、言語や文化の発展はない。

動画やSNSでは「タイパ」が重視される昨今。
ファスト映画の倍速再生は、そもそも意味のある行為なのか?
脊椎反射で、「自分が経験したことの咀嚼・定着」は可能か?

「長文読解・小説の楽しみ」は、文化が短小軽薄(タイパ重視)する時代には、確かに逆行しているだろう。
ガラケー前提の「ケータイ小説」も、そうした先駆けを担っていたわけだし。

「俺が理解できない文化は悪だ。集団で抗議の声を上げ、撤回させよう」
・・というキャンセルカルチャー運動も、「理解の閾値」が低くなることによって生まれた、不寛容な流れといえる。

日本語を守らなければ「多様性の確保」「熟議による民主政治」もなくなる。
現代に蔓延する「長文への忌避感」に、メスを入れるべきだろう。

参考文献:小林よしのり「民主主義という病い」幻冬舎

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