日本語が読めない日本人が増えているらしい。
教養や学習レベルの話ではなく、自ら望んで日本語の語彙を放棄しているということだ。
なぜそんな事態に陥っているのか。
否、敢えてこう表現すべきなのかもしれない。
何をそんなにこだわっているのか。
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日本語は面倒くさい。
母国語で馴染みがあるから扱えるけれども、何を表現するにも選択肢が多すぎるのだ。
漢字はともかく、ひらがなの組み合わせによる奥行きは無限大だ。それは文章だけでなく音声においても同様だ。
良く言えば味わい深く、悪く言えば煩雑である。
今さら検証しようもないが、英語と日本語を同じスタート地点から学んだら、
英語の方が先にマスターできる自信がある。
だから英語教育を熱心にすれば、日本語より英語が喋れるようになるのは、納得ではある。(言葉だけ学習したとして、文化の把握なしに実戦で使えるかは別とする)
それが世界の主要語だというなら、学習を否定する理由もない。
ただ……母国贔屓も多分に入ってるかもしれないが……
やはり、日本語は素晴らしい。凝れば凝っただけ美しくなる。
特に湿り気、翳りのある表現、短いなかに広がりをもたせる力において、
日本語は最優だと思っている。その曖昧さが面倒なのだというのは認める。
日本語に限らず、文章というのは動画に比べると、受け手が主体的に動かないと真価を楽しむことができない媒体である。
動画なら出してくれる画を、自分で想像しなければならない。
それだけでなく、五月雨やにわか雨という言葉が出たら、正確に変換する語彙も必要だ。
面倒だ。
でもそれを楽しめた時、最高のライフワークになる。
結局、どれだけ効率重視になろうが、簡略化を是とする文化となろうが、
自分の経験とは、他の誰でもない、自分自身がどれだけ世界に主体的に向き合えたかによって決まるのであって、
文章は主体性を磨くための至近にして至高の媒体だと思っているからだ。
動画やSNSでは「タイパ」が重視される昨今。
ファスト映画の倍速再生は、そもそも意味のある行為なのか?
脊椎反射で、「自分が経験したことの咀嚼・定着」は可能か?
「長文読解・小説の楽しみ」は、文化が短小軽薄(タイパ重視)する時代には、確かに逆行しているだろう。
ガラケー前提の「ケータイ小説」も、そうした先駆けを担っていたわけだし。
「俺が理解できない文化は悪だ。集団で抗議の声を上げ、撤回させよう」
・・というキャンセルカルチャー運動も、「理解の閾値」が低くなることによって生まれた、不寛容な流れといえる。
日本語を守らなければ「多様性の確保」「熟議による民主政治」もなくなる。
現代に蔓延する「長文への忌避感」に、メスを入れるべきだろう。
参考文献:小林よしのり「民主主義という病い」幻冬舎