特等席

真花

特等席

 夜は十一時十五分。メールが来る。凛花りんかからだ。毎日同じ時間に来る。

『――夕方から降り始めた雨はまだ細く落ち続けていた。二人が生んだ熱と湿度が部屋の中を浮遊して、吸い込む度に胸の奥に意味を小さく刻む。横たわった朝美あさみを背中に感じながら、僕はベッドの縁に腰掛けて窓の外を見ている。夜景の中に探しても見付けられないが、あの辺りに僕の家があるはずだ。妻と陽太ようたは僕の視線に気付かないだろう。朝美の呼吸が聞こえる。僕のことを窓の雨ごと眺めている。朝美は自分が見ている枠の内側に僕の家族があることを知らない。朝美の焦点が僕の後頭部に注ぎ、引力を発し始めた。僕は振り向かない。振り向くのは、僕がどの未来を選ぶかを決めたときだ――』

 昨日の続きだ。もちろん今日それが来ることは分かっていた。私はベッドでうつ伏せになって肘を立てて読んだ。

「ごちそうさま」

 呟いてから返信を打つ。ウィットに富んだことを書きたいが、アイデアが出ない。

『よかったよ。面白いよ』

 すぐにスマホが光る。

『よかった。ありがとう』

 いつだって褒める訳じゃない。気になることは指摘する。大体、感覚的に違和感があったりと言った曖昧な伝え方になるが、凛花はそこから何かを拾い上げる。次に送られて来る稿ではよくなっているから、意味があるはずだ。凛花が小説家を目指し始めた最初の日から私は隣にいて、当初は遊びの延長だったものが真剣になって、今や文芸誌の新人賞に投稿している。まだ一度も引っ掛かってはいない。凛花は毎日書いている。私は書いたことがないが、もう四年凛花の小説を読んでいる。

 今一度、送られて来たところを読んでから部屋の電気を消す。

 きっと凛花なら小説家になれる。だって面白い。ずっとずっと成長し続けている。

 

 次の日は仕事が定時に終わって、のんびりした気持ちで駅前をうろついていたら書店の前に出た。何の気なしに入り口を潜って、は、と気付く。

 凛花が応募していた新人賞の中間発表が出ているのではないか。

 私はまるで隠密に文芸コーナーに向かう。道中の全ての視線を躱して、到達した先には件の文芸誌の最新号が、つまり中間発表のある号があった。凛花はもう見たのだろうか。

 私は文芸誌を手に取り、発表のページを出す。

『凛花 アポトーシスクラブ』

「ええっ!」

 店中に響く私の声に、周囲の人が一斉に私を見る。だから何だ。私は何度も凛花と言う名前を確認する。何度見ても書いてある。二次選考通過だ。どうしよう、鼓動が真っ赤に跳ねている。私は二冊その文芸誌を持って、レジに行く。せき立てられるように店を出た。

 公園に着いて、文芸誌の写真と、名前が載っているページの写真に『凛花! すごいよ!』とメールを添えて送る。送ってから、本人より先に知ってしまってよかったのだろうか、怒らないだろうか、つくしのような不安が生える。電話が鳴る。

冬美ふゆみ、今どこ?」

 私は居場所を伝えると、すぐに向かう、と電話を切られた。私は中間発表のページを見ながら待つ。


「お待たせ」

 凛花が小走りに現れた。顔に緊張が薄く張っている。

「凛花、すごいよ。二次選考通過だよ」

「自分の目で見たい」

 私はカバンからもう一冊の文芸誌を出す。

「これは凛花の分」

「ありがとう」

 凛花はページを捲る。開いたそこにある文字を確かめて、頷く。

「本当だ」

 凛花は嬉しそうなそうでもなさそうな微妙な顔をしている。

「嬉しくないの?」

「いや、嬉しいよ。だけど、夢が半分叶ったって言う事実に、プレッシャーを感じてると言うか」

「先に見たの、嫌だった?」

「そんなことはないよ」

「ならいいけど」

 私の目が夕陽が沈むように俯こうとするのを拾い上げるように凛花が、あのね、と声を出す。

「それ見て、冬美はどうだった?」

「めちゃくちゃ嬉しかったよ。声上げちゃったもん」

「いつも読んでくれて、それって誰よりも私を応援してくれている訳じゃん。冬美だけは私が小説家になることを信じてくれている」

「当たり前でしょ。凛花はなるから。これは決定事項だから」

「一番応援してくれている冬美が嬉しかった。これが私にとっては一番嬉しいことだから、先に読んで全然いいんだよ。もし私が先に読んでいたらその嬉しさはもうちょっと弱かったかも知れない」

「そうかな」

「そうだよ」

 凛花は文芸誌を閉じて改まる。

「いつもありがとう」

 私の胸に花が咲く。文字の花だ。

「私も好きでやっていることだから、全然いいって」

「うん。それでさ、アポトーシスクラブはもう過去の作品なんだよね。それよりも今の作品なんだけど、どう?」

「メールにも書いたけど、面白いよ」

「そっか、もうちょっと具体的に……」

 私達はいつものやり取りに戻って、それぞれに記念の文芸誌を一冊持ったら、公園を後にした。凛花の今と次が一番面白い。私がいなくても進むのかも知れないけど、きっと私がいた方がいい。

 だから私は特等席でずっと。


(了)

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