第6話 仕舞の章

 あきが、無残に庭石に打ち付けられてから一刻程が経った頃。物色を終えた賊はとうに立ち去り、屋敷は静寂に包まれている。


 静まり返った闇の中で、頭に走る耐え難い痛みと真っ暗な視界に、あきは身動き一つ出来ずに庭に転がっていた。血の塊がどろりと肌を滑る感覚に、このまま死ぬのだと思った。

 突然、一際の痛みの直後、視界の闇が形をなした。

 全てが真っ黒なのに、何故か判った――屋敷を襲った賊が必死で何処かを駆けている。自分が知らない真っ暗な風景の中を、真っ黒な影がひた走っている。


 痛みを越える怒りに身が震えた。呻きながら上半身を起こすと、何かが手に触れ、手触りで守り袋だと分かる。それを握りしめ首を廻らすと、眩暈に嘔吐した。


(そうだ、かか様はご無事かしら。かか様は何処……何も見えない……痛い……)


 目元に手をやり、激痛と違和感に再び嘔吐する。

 ぐしゃりとした肉の感触。それを覆う、雲母のような手触り。あきは自分の目玉が使い物にならなくなっていることに気づいた。そして、瞼を覆う硬質な手触りの正体にも。

 箱に収められた御神体。蜻蛉によく似た形のなにか。


(どうしてここに……? それに、さっきから見えている、これは一体……)


 賊に荒らされた室内の片隅に、御神体を収めていた箱が蓋のずれた状態で転がっていたが、それをあきが見ることは永久に無かった。手探りで触れた庭木も石も、潰れた目は何一つ映さない。映るのはただ、賊の影だけ。


 理屈は分からないが、自分が見ているものは顔に止まった御神体が見せているに違いない。を失ってはいけない。誰かに見つかって、取り上げられるわけにはいかない。


 幼いあきの身も心も、既に限界だった。震える手で着物の裾を裂き、御神体ごと顔に巻き終えると、意識を失った。

 

 意識が戻ったところで、やはり、あきの目が光を捉えることは無かった。

 寝ても覚めても闇。闇。闇。あの時確かに見えた筈の男の影も、いつの間にか見えなくなっていた。


 よたよたと敷地の周囲を彷徨っていたあきは村人に保護され、ようやく屋敷の惨状が明らかになる。その知らせは、都に住むあきの父の許に届いたものの――。



「あたしは親切な人の家で厄介になってた。とと様は……一度も訪ねて来なかった」


 少し悲しみは覚えたが、恨みはない。父の立場も理解出来る。娘の為にせめて、と送られてきた見舞いの品の数々は、精一杯の親心と思えばありがたかった。それを礼代わりとして、村と、身を寄せている家にそっくり渡したお陰か、随分と皆からよくして貰えた。


 あきは顔への治療を全て断り、布の下は誰にも見られない様に細心の注意を払った。お陰で傷が癒えるまでには時間が掛かったが、その間に、目以外の感覚で物を見る方法を身に付けた。

 音、におい、肌に触れる風。何故今まで気付かなかったのかと不思議に思える程、目で見ていた頃と同じか、それ以上に周囲が見える。


 その頃には、先観蜻蛉で見えるものの意味にも気付いていた。


 近過ぎるものは見えない。遠過ぎるものも見えない。知らないものは見ることは出来ない。見えるのは風景そのものではなく、黒い影。

 そして……今でも過ぎた時でもなく、影を見た時から先、おそらくは二日から四日の間に起きる出来事、だということ。


 それを誰かに話す程、あきは迂闊ではなかった。母と目を失くして懸命に生きる哀れなただの子供として、村人の手伝いをしながら、静かに暮らしていた。


「とと様は、なんとかあたしを引き取ろうとしたみたい」


 だが、あの正妻の許で暮らすことなど出来ようはずがない。自分達を襲った賊もあの女の手の者ではと疑ってもいた。尤も、それはすぐに考え過ぎだと知る事になったが。

 あきは男を顎でしゃくり、


「この男はね、とと様のお屋敷どころか、警備の行き届いた所には近付こうとしなかった。都でも外れの方やその周りの、ちょいと小金がありそうな家屋敷に押し入るだけの小心者よ。こんな男にも妻子が居るみたいでさ。そいつらを、汚い銭で養ってるつもりになってるのよ」


 男は、時には誰かを手にかけ、都を出入りしながら盗みを繰り返しては、うろつき暮らしていた。


「こいつは、多分本気で家族の為だって思ってんのよ。ちょろちょろと逃げ回って、結局は自分の勝手で引っ張り回してるだけのくせにさ。お陰で見失う事も多くてね、中々先回りが出来なかったのよ」


 あきは櫛を握る手に力を込めた。


「許せないの。こいつも。夫を止めないこいつの女も。かか様の櫛を、いつか自分の子にくれようとしてたことも!」


 己が知らないものを見ることは出来ない……男の周りで起きていること全てを、先観蜻蛉が覗かせてくれるわけではない。それでもあきは農作業の合間などをぬい、何度も見失いながらも、男を

 男の仕草を。行いを。そこから伺える暮らしを。少しずつ見えてくる、ささやかで偽りの幸せを。次第にはっきりと形を成していく、名も知らぬ家族の暮らし。

 その全てを……いつか壊してやる為に。


 数日前のことだ。暫く見失っていた男をようやく見つけてみると、何やら慌ただしい気配が伺えた。

 子を抱え酷く焦る男。狼狽える女をどやしつけ、子を押し付けると、隠れ住んでいた山から急ぎ下る。男は途中で誰かと出くわし、話し込んで大きく頷く。やがて男はどこかの集落に辿り着く。小屋とも呼べないほどの粗末な小屋の入り口。小屋に滑り込んだ男の前には――。


「あたしと、もう一人の誰か……御神体様に少し似た気配。だから、のかな」


 ここだ。ここなら、必ず先回り出来る。それを知ったあきは、村を飛び出した。


「……後はりんさんも知っての通りよ。こいつの影を、りんさんと出会ったって訳」


 口元を歪めて男から顔を背けるあきに、りんが訊ねた。


「これから如何なさるおつもりでございますか?」

女子おなごの秘密よ……お前、お立ち」


 男がゆらりと立ち上がった。あきも立ち上がると、りんに頭を下げた。


「おいとまいたします。りんさんの薬は、必ず子に飲ませます。子に恨みはありませんから」


 男を連れ、立ち去ろうとりんに背を向けたあきは、暫し俯き、ゆっくりとりんを振り返った。


「……図々しいかもしれないけど、お願いがあるの」

「どういったことでございましょうか?」

「見えたの。これから都で病が流行る。とと様もあの女も罹るわ。多分、こいつの子と同じ病だと思う……だから、薬を沢山用意しておいて欲しいの」

「それを、都のお父君にお届けしろということでしょうか」


 あきは薄く笑い、


「ううん。その薬を、あたしが世話になってた村に分けて欲しいの。皆、何くれと気にかけてくれたのに、何も言わず出てきちゃったから……出来れば、この集落の人にも分けてあげて。悪いけど、とと様は後回し。ついでのついででいいわ。代金は、これで足りる?」


 そう言って、あきは母の形見の櫛をりんに差し出した。


「承知いたしました。それでは、お代を頂戴いたします」


 りんが櫛を取ると、あきはほっとした様に一つ息を吐き、


「良かった。では今度こそ本当にお暇いたします。りんさん、御神体様、お世話になりました」


 優雅に一礼すると、男を伴い小屋を出た。



 薄暗い小屋の中。りんは三日月に撓んでいる口を更にきゅうっと持ち上げ、掌に収まった先観蜻蛉を撫でた。


「あき様は、お気付きになってはいなかったのですね。お前に観えるのは、未だ起こらざる先の事だけ……遠見の力など無いことに」


 先観の力では、潰れた目に何も映せない。あきに見えていた幻視の像は、自身に隠された力に因るものだ。目覚めるべくしてのことか、潰れた目の代わりに得た力なのか、そのどちらもか。


「人の間には、時折、常ならぬ力を備えた者が生ずると聞きますが……神を祀るお血筋、実に、不可思議なものでございます。さて、薬でも拵えましょうか。頂いたお代分のお勤めは致しませんと」



 それから暫くの日が過ぎ。


 流行り病に庶民も地位ある者も等しく蹂躙される都で、不思議と軽症者ばかりの村と集落があった。旅の薬売りが薬を振る舞ったという噂を頼りに訪れる者も居たようだが、既にどちらにも薬売りの姿は無かった。


 集落には、山の麓で途方に暮れていた所を保護された娘が居付いていた。どうやら病で寝込んでいる隙に親に捨てられたらしく、自分が何故そこに居るのかも分からない様子を憐れんだ下山途中の若者が連れ帰った、という話だった。娘は結局、集落を訪れた、子の無い夫婦に引き取られていった。


 それと時を同じく、山中の洞窟を利用したぼろ小屋に三体の骸があった。


 男が一体。女が二体。

 麓に暮らす老人は、薬草を摘みに山に分け入った余所者にそれを聞かされ、確かめに行くと、果たして流れ者の言葉通りの状況に迷惑そうに顔を顰めた。余所者の見立てでは、恐らくは男が女達を殺め、後に自分も首を括ったのだろうとの事だったが、本当の所は誰にも分からない。


「まったく、熊でも引き寄せられたらかなわんわ」


 老人は文句を言いつつも、人手を募り、骸の弔いを済ませてやった。


 骸の一人、うら若い女の顔には古い傷があったとのことだ。

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先観蜻蛉―さきみとんぼ― 遠部右喬 @SnowChildA

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