第5話 先観蜻蛉の章
りんとあきが集落を訪れて二日目。
小屋を静寂が包んでいる。
既に日は傾き始め、橙と薄紫に染まった空は、間もなく訪れる闇を孕んでいる。昨夜と変わらぬ静かな一日の終わりだった。
ひたひた、ひた。
ひそめた足音が、小屋に近付く。やがて足音は入り口の前で止まり、男の低い声で、
「……薬を売ってくれ。銭ならある。子が高熱を出して、中々引かん」
応えが返らぬ内に、狭苦しく薄暗い小屋に身体を滑り込ませた男が、ひっ、と息を呑む。
男のすぐ目の前、仄白い面が浮いていた。三日月に細く彫られた目と口は、薄闇の中で不気味な笑みを浮かべている。そして、どこからともなくただよう樟脳のにおい。
面が喋った。
「少々お待ちくださいませ。今、明かりを用意いたします」
再び息を呑んだ男の目の隅で小さな明かりが灯る。面と見えたのは、年齢も性別も知れない人物であった。
灯明皿の頼りない火に、男はまだ動悸の治まらぬ胸を押さえ、
「……あんたが薬屋か」
「左様でございます。『クスノキのりん』と申します。りん、とお呼び下さいませ」
過ぎる程に慇懃な挨拶を構いつけず、男は早口で、
「名なんぞどうでもいい。早く、薬を売ってくれ」
「ですが、どのような症状か伺わない事には薬を選べません」
よろしければ、こちらにお座りくださいませ……と、りんが男に藁座を勧めた。
「頼む、早くしてくれ。とっとと帰りたいんだ」
藁座に腰を下ろし、いらいらと首を巡らせた男の目が小屋の隅で止まった。小柄な影が、身じろぎせもせず膝を抱えている。僅かな明かりに目を凝らせば、影はどうやら女のようだった。
「それで、お子様はどのようなご様子なのでございましょう?」
その言葉に、男の目がりんに戻る。
「熱が引かん。息の度、胸からゴロゴロとおかしな音を漏らす。それから、手足を引き攣れた様に震わせ……」
男から話を聞き終え、りんは頷いた。
「それでしたら、薬をお出しできるでしょう。少々お待ちくださいませ。すぐに調薬いたします」
「頼む」
安堵の息を吐いた男は、すぐ脇に気配を感じた。顔を向けると、さっきまで小屋の隅で蹲っていた女が、水入りの椀を差し出している。何故か顔の上半分を布で覆った、みそぼらしい女だ。やや不自然な位置に差し出された手に男が気付く……もしかしたら、この女は
男は女の手から椀を引ったくり、一気に飲み干した。からからだった喉に、水が甘露の如く染みる。
人心地着いた男はほくそ笑んだ。
――山で出会った若造に薬売りの話を聞いてから、この集落まで随分と急いだ。薬が手に入る目処はついた。ひょろひょろの男と痩せこけた盲目の女しか居ないなら、銭を払う必要なんぞありゃしない。後はこいつ等から薬を奪い、急ぎ、ここを離れるだけ――
男の意識が途絶えた。
手から椀が落ちる。
その掌には、並んだ黒子が二つ。
ゆらゆらと前後に身体を揺らす男に、あきが命令した。
「
「…………」
言われるままに、男は懐から
やがて櫛をぎゅっと握りしめ、男を睨んだ。
「やっぱり、かか様のだ。お前……よくも、よくも!」
「わたくしにも商いがございます。折角拵えた薬ですので、是非こちらの方にお売りしたいのですが」
するりと吹き抜ける声と樟脳のにおいに、片膝立ちで握った手を振り上げたあきの動きが止まる。
「……りん、さん……そう、そうだった。お前、銭をお出し」
ちゃら、と音を立て、男が懐から銭袋を取り出す。あきは空いた手でそれを引ったくり、袋ごとりんに差し出した。
「はい、どうぞ」
「随分と多うございます」
「あたしはこいつをよく知ってる。どうせまともな銭じゃあない。それも、今更、誰かに返すこともできない銭よ。それに、きっとこいつは端から払う気なんて無かったわ」
「……成程、あき様はわたくしをお守り下さった、という事でございますね」
りんは袋から必要な分だけ取り出し、残りの銭は拵えたばかりの薬と共に男の懐に返してやった。男はされるがまま、ぼんやりと
りんが訊ねた。
「この方に、何を飲ませたのでしょう?」
咎めるでもなく、ただ疑問を口にしただけと分かる声に、
「これよ」
あきは首から下げた守り袋を摘まみ上げる。
「ここに入れてあるのは、あるものを手元に留めておく為の
御神体の一つとして伝わっていた粉香は、相手を意のままにする、そういう代物だった。とは言え、男に飲ませたのは極僅かだ。やがては正気に返るだろう。が。
(まだよ。まだ持つ)
自分はそれを知っている。
「あき様が以前仰っていた『面白い物』とは、この香のことでございましょうか」
あきは首を振り、小さく笑うと、
「これも面白いかもしれないけど、違うよ……ほら、これ」
そう言いながら、己の後頭部に手を伸ばした。
はらり。
あきの顔を覆っていた布が床に落ち、灯明皿の火が露わになった顔を照らしだす。
目元から額にかけての引き攣れた傷跡に、被せるように彫られた精妙な蜻蛉の刺青が、揺れる明かりに仄浮かぶ。
あきの両瞼を覆う、細かな翅脈までも再現された蛇の目模様の翅も、鼻筋から額に掛けて沿わせた細い胴の意匠も、実に見事なものだ。
瞼の上の翅が、ぴくりと動いた。
「もう分かってるんでしょ――『
よく見れば、それは刺青でも、蜻蛉ですらなかった。本来ならば頭部にあるべき特徴的な大きな眼は、何処にも見当たらない。
雲母よりも薄い、蟲に似たそれ。
あきは首から守り袋を外すと、それを手にしたまま顔を覆い、すぐに離した。白い顔から蟲の姿は消え、酷く引き攣れた傷跡だけが薄明かりに浮かんでいる。
「りんさん、手を出して」
枝を削ったようなりんの手に、あきの手が重なる。
あきが手をどかすと、守り袋に止まった蟲がりんの手の上で羽を震わせていた。
「お返しします。この御神体、いえ、先観蜻蛉は、りんさんのものなんでしょう?」
「正確には、わたくしのものではございません。主が集めているものの一つでございます」
「そう。じゃあ、主様にお渡ししてください。この子には随分と世話になりました」
「お訊ねしてもようございますか」
「何?」
「あき様は、何をご存じなのでしょう?」
どこか硬質な響きの混じる声に、あきが小さく笑った。
「何も。あたしが知ってるのは、この男がかか様の仇って事と、ご神体様とりんさんは多分同じモノって事だけ」
御神体と呼ばれる蟲の羽を透かし、都に迫るかもしれぬ危難に備え、先を観る。父からは、それがこの土地神に仕える者の役目だと教わった。
とはいえ、あきも母も、恐らくは父ですらそんな話は信じていなかった。「先観蜻蛉」と書かれた粗末な箱に収められた、死んでるのか作り物なのかも分からない鉱石のような気味の悪いモノに触れるなど、論外だった。代々伝わる守り袋くらいはと、香の入ったそれを首から下げてはいたが、それも真心からではなかった。
「あの日。この男が、あたしを殺し損ねた日。香の匂いにつられて、その子があたしの顔に止まったの」
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