第4話 あきむしの章

 その日の深夜。


 横になったりんの隣で、筵を被って眠るあきむしの口から唸りが零れた。


「う……ああ……かか様……かか様……」


 あきは夢を見ていた。


 切れ切れに浮かぶのは、まだ空の青や緑の木々、色とりどりの花に囲まれていた頃の、忌まわしい思い出。

 灯明の微かな明かりに浮かぶ、母の引き攣れた形相。

 壁に映し出された大きな影。

 こちらに伸ばされた掌に並ぶ二つの黒子。

 粗末ななりの、無表情な男。

 身体を放られる浮遊感と、目の前に迫るごつごつとした庭石。

 真っ暗な中を、何かを大事そうに抱え急ぐ影。


 ――暗闇。


「ああ!」


 一声叫び、あきは飛び起きた。大きく乱れた呼吸で、わなわなと震える手で顔に巻いた布をぐしゃりと掴みかけ……激しくかぶりを振ると、その手で己の身体をかき抱いた。


「如何なさいましたか」


 動く気配と、立ち上る樟脳のにおい。


「……悪いね、起こした?」


 ――闇は優しい。あたしの全てを隠してくれる――あきは縮込めていた身体を伸ばし、まだかすかに震えの残る手を握りしめた。


「よく眠れる薬湯でもお淹れいたしましょうか……ただで、とは申せませんが」


 何処まで本気か分からない言葉に、あきは身体の力を抜き、小さく笑う。


「りんさんなら知ってると思ってたけど。生憎、素寒貧でね」


 そう言うと、襟合わせから取り出した守り袋をそっと両手で包んだ。


「以前、それとよく似た守り袋を拝見したことがございます」

「……見えてるの?」


 あきの声が険を帯びる。まだ真夜中の筈だった。火を灯した気配もない。


「夜目は利く方でございます」


 含みの無い響きに、あきはふっと息を漏らす。


「ごめん、夢見が悪くて気が立ってたの。この守り袋を知っているなんて、りんさんは案外年寄りなのかね」

「秘密でございます」


 あきは、かか、と笑った。


「……ねえ、りんさん。りんさんはこの守り袋がどんなものか知ってるかい?」

「いいえ」

「そう。それじゃ、ことだし、話を聞いて貰おうかな。面白いかどうかは分かんないけど……神様を祀りそびれた娘の話」


 都の北東に位置する村、更にその外れの小さな屋敷に暮らす、母子おやこの姿があった。小さいとはいえ、母親と幼い娘の二人暮らしには十分な広さがあり、調度品もそれなりの物が揃った屋敷だ。一見、殿上人の別宅のようだが、その雅な趣味を見る者はそこに暮らす母子以外にない。


 男っ気の無い家である。都を守護する土地神に仕えるが務めの娘に用立てられた物であれば、夫だろうが父親だろうが、おいそれと立ち入ることは許されない。村人も、あまり近寄らぬようだった。


 母は身分ある男の愛人であった。男はこの母子を大事にしていたが、男の正妻がそれを許さなかった。

 母子はことあるごとに嫌がらせを受けるようになり、それは次第に度を越えたものになっていった。命を脅かす程の行為に、手をこまねいている訳には行かない。神職を遠縁に持つ男は、土地神に娘を嫁がせるという名目で、都から母子を遠ざけることにした。


 神に仕えるとなれば、世俗との関りを断つことになる。それなりの暮らしを約束されたとは言え、体のいい厄介払いと変わりない扱いに泣き暮らしていた母子だったが、穏やかに流れる生活に、いつしか明るさを取り戻していった。

 娘の仕える土地神は、今では祀る者などない形だけの存在だ。特別な勤めがある訳でも無い。それでも、ようやく母と平穏に暮らせると神に感謝する娘の胸元には、御神体と共に伝わる守り袋が揺れていた。


 それから幾度目かの秋の夜。

 一人の賊が屋敷に忍び込んだ。値の張る調度に囲まれた女手しかない屋敷。誰ぞの往来も無い。物取り目的の賊には、さぞかし美味しく容易い獲物だったことだろう。

 助けを求めようと大声を上げかけた母は娘の前で縊り殺され、賊の顔を見てしまった娘は頭をかち割られて死んだ。銭も珍しい玉も高価な櫛も、持てるだけ持ち去った賊の行方は杳として知れない。


「――こうして、神を祀る者は途絶えたのです……おしまい」


 そう締めくくったあきに、


「不思議でございますね。一体何方が、母子の死に際を伝えたのでしょう」


 りんの言葉に、あきが素っ気なく応える。


「さてね。まあ、昔話なんてそんなもんでしょ」

「あき様がお持ちなのは、その守り袋と同じものでございますか?」

「あたし、その村の出なの。年寄りは皆この守り袋を持ってるけど、もう新しいのは作られてないのよ。りんさんが何処で目にしたか知らないけど、見たことある人自体が珍しいんだよ」

「お気の毒な話でございました。土地神様はその母子をお護り下さらなかったのですね」

「仕方ないね。都を見そなわすのが御役目だって話だし、荒事には向いてない神様なんでしょ」


 あきは肩を竦め、口を閉じた。沈黙が闇に積もる。

 ややして、あきは、意を決した様にりんに向き直ると、


「……ねえ、りんさん」


 凛とした居ずまいで深々と額づく。


「こんなあたしをお雇いいただき、ありがとうございます。まことに勝手ではございますが、近々お暇を頂戴することになるでしょう。どうか、次の勤めをもって貴方様への謝意と代えさせていただきたく……」

「お顔をお上げ下さいませ」

「…………」


 口元を固く結んだ顔を上げ、あきは真っ直ぐにりんを


「つまり、間もなくわたくしの周りでなにかが起きる、という事でございますね」

「……はい」


 ですが……と。


「決して、貴方の身に危難及ばせたりはいたしません」


 きっぱりと言い切るあきに、りんはこれまでと何一つ変わらぬ調子で、 


「わたくしは自分の為すことをするだけございます。あき様がをお済ませになるのに、関知は致しません」

「……何も、訊かないの?」

「そのようにお約束いたしましたから」


 あっさりした答えに、あきは微笑んだ。


「ありがと……もうすぐだから」


 もうから。


「それまで、りんさんはいつも通りにしていて」

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