25.後始末

 それからしばらく、樹季は退院するまであまり雅古には会わなかった。

 辻によれば雅古は、失った記憶を埋めるように、菊川に勉強を教えてもらったり、また戦うために訓練したりしているらしい。


 樹季の方は時間がかかったが、それなりに順調に回復した。新学期には、学校にも戻ることができる予定であった。

 樹季が入院した病院は、タケフツ社と関係がある特殊な病院らしく、病院と言うよりは研究所のような場所だった。そこで治療を受けながら、意識を失っていた間に樹季無しで進んでいた世界に樹季はゆっくりと向き合った。


 ◆


 樹季の病室を一番見舞うのは、やはり母・文月だった。だが、その様子は樹季の知っている姿とは違うので、樹季は驚いた。

 文月は以前のような異常な愛情を樹季に向けなくなっていた。憑き物が落ちたような文月の普通さに、最初の内は樹季は戸惑い、疑いを覚えた。だが、母親が変わった原因が父親にあると理解するうちに、腑に落ちた。


 樹季が危篤状態になったことで、今まで仕事のことしか考えていなかった父親はやっと家庭を顧みた……顧みざるを得なくなった。樹季が意識を失っている間、父は母の相手をするはめになったのである。

 その間に二人が何があったのかはわからない。しかし樹季が目を覚ましてみると、文月は依存対象を息子から夫に変えていた。それは樹季にとっては幸いなことであった。


 ――まぁ、父さんにとってはどうだかわからないけど……。でも自分が選んで結婚したんだから、耐えてほしい。

 樹季はほっとした気持ちで、父親に全部任せた気持ちになった。それが親の義務だとも思った。もしかしたら父親も、樹季のために母親の面倒くささを全て引き受けてくれたのかもしれないと、都合の良い解釈もした。


 ◆


 次によく樹季を訪ねたのは、医者以外では辻だった。どうやら樹季の状態を把握しておくのも、責任者としての仕事らしい。定期的にやって来ては、健康観察表みたいな紙に記入していた。


「そういえば、樹季君がシュラの記憶を通したあのドライバーなんだけどさ」

 ある日、いつものように夜に病室にやってきた辻は、適当に書類のチェック欄にレ点を書き入れながら言った。

 樹季はそんな物もあったなと、すっかり忘れてしまっていたその存在を思い出した。一体今更何の話だろうと不思議に思ったが、辻の話の切り出し方が軽いので、身構えることなくベッドの上で雑誌をめくりながら尋ねた。


「それがどうかしたんですか?」

「あれさ、黒く変色はしてるけど、別に中身は壊れてなかったんだよね。そこで試しに菊川に使ってみてもらったんだけど、うんともすんとも言わなくて」


 辻はぼさぼさの頭をかきながら言った。

 よく再び動かしてみる気になったなと、樹季は辻と菊川の図太さに驚いた。あのドライバーは、敵の強大な力により普通ではないものに変質していた。運が悪ければ、暴走し人を傷付けてもおかしくはないだろう。

 だが、辻はまったく気にしていないようだった。それよりも、なぜ動かない理由の方が気になってしょうがない様子であった。


「あのとき雅古君から樹季君へと乗り移ったシュラの記憶は、消えてしまったのか……。それともあのドライバーはもう樹季君専用になっちゃったから動かないのかな。ね、樹季君、今度またあれ使ってみる?」

「絶っ対に嫌です」


 樹季は雑誌を閉じて、即座に断った。あんなに痛い思いはもう二度としたくはなかったし、敵のものとはいえ人の記憶をあのような形で利用するのは、倫理的に良くないことのように思えた。

 ――できれば消えて……成仏みたいな感じで、安らかになってくれてればいいけど。

 樹季は弥雲と呼ばれていた、子供の記憶を思い出す。断片的にしか覚えていないが、恨みとなって残るのも納得できる、つらい記憶であった。だが、あんな記憶を抱えてこの世に残ったところで苦しいだけである。


 初瀬は何か違うことを言っていたが、誰もが皆初瀬のような考え方をするわけではないだろう。初瀬がむりやり覚醒させるまで、弥雲と呼ばれていた魂は雅古の中で眠り続けていた。樹季にはそれが、本当は戦いたくなかった気持ちの表れであったように思えた。

 はっきりとした樹季の回答に、辻は笑って書類に戻った。


「そうだよねぇ」

 その声はわずかだが、残念そうな響きがあった。半分は冗談だったにしても、もう半分は本気だったらしい。

 それから先、辻がそのドライバーの話をすることはなかった。


 ◆


 佐久夜はいろいろ思うところがあるのか、なかなか樹季の前には現れなかったし、頭の中に語りかけてくることもなかった。

 やっと姿を見せたのは、樹季が退院する日の前日だった。就寝時間が来たので寝ようとしていた樹季の頭に、実に数か月ぶりの佐久夜の声が響く。


『樹季』

 樹季はもうそのころには健康そのものだったので、立ち上がって部屋を見回した。

「……佐久夜? 来てんの?」

 樹季が呼びかけると、電気を消した病室の隅から浮き出るように、佐久夜が現れた。その日は紺色のブレザーではなく、灰色のハイネックを着ていた。


「久しぶりだ、な」

 気まずそうに佐久夜は、樹季の前に立った。

「うん、久しぶり……」

 佐久夜が会いにくるとは思っていなかったので、樹季は間の抜けた返事しかできなかった。


 佐久夜の方も、来たはいいが何を話そうかはちゃんとは考えていなかったようで、慣れない様子で挨拶を続ける。


「その……退院おめでとう」

「厳密に言うと明日だけど、ありがとう」


 樹季はとりあえずお礼を言った。

 しばらく無言で、二人は向き合っていた。


「……それじゃあ」

 本当に何も思い浮かばなかったらしい佐久夜は、気まずくなったのかそのまま背を向けて帰ろうとした。


 樹季は慌てて、佐久夜を呼び止めた。

「別に用がなくても、お前がいても構わないよ、俺は」

 わずかに振り返って、佐久夜が言った。

「俺はお前に友達を殺させようとしたのに?」

 どうしたってそれ以外は返せない、根深い拒絶。佐久夜は自分に枷をしたように、幸せを自主的に遠ざけていた。


 その遠さは、とても樹季が手を伸ばせる距離ではなかった。だけどそれでも届く何かがあることを信じて、樹季はその後ろ姿に声をかけた。


「それを気にしているのはお前で、俺じゃないだろ」

 樹季の声が、暗い病室にしんと響く。


 何も言わずに、佐久夜はそのまま姿を消した。

 樹季は佐久夜のいた場所を眺めながら、いつか佐久夜が復讐以外にこの世に残った意味を見つけることを願った。


 ◆


 そして退院して数日後、樹季は久々に雅古の家を訪ねた。何でも樹季の快気祝いとして、雅古が夕食を用意するらしい。

 雅古がインスタントラーメン以上の調理をしているところを見たことがないので、樹季は一抹の不安を覚えた。しかしそこは頑張って信じて、玄関のチャイムを鳴らした。


「やっと来た。早く鍋、鍋始めんと。俺もう昼ご飯抜いて待ってんだけど!」

 引き戸が開くなり雅古が飛び出して、樹季の袖を掴んで家の中へと引きずり込む。

「わかった。わかったからそう急かすなって」

 樹季はまんざらでもない気持ちで、雅古に引っ張られて居間へ進んだ。


 ――鍋か。鍋ならほとんど小学生の雅古でも何とか……。

 思ったよりも普通に夕食が食べれそうなことにほっとする。


 居間のちゃぶ台には出汁の入った鍋がカセットコンロで温められ、周りには白菜やしいたけ、豆腐や肉が載った皿が並んでいた。


「どうよ? 練習の成果は」

 雅古が誇らしげに、樹季を座布団の上に案内する。


 樹季はちゃぶ台の前に座って、鍋の具を見た。切り方はめちゃめちゃだが、まぁ雅古が切ったと思えば合格点だろう。このために雅古が野菜を切る練習をしている姿を想像して、思わず頬を緩める樹季。


「何にやにやしてんの?」

 反対側の座布団に座りながら、雅古は尋ねた。

「いや、別に」

 樹季は何でもないふりをした。


「何か馬鹿にされとるような……。まぁ、いいや。樹季、鍋奉行お願い」

「え、俺がやるの?」

 当然のように菜箸を渡してくる雅古の顔を、樹季は思わずまじまじと見た。

「だって、そっちの方が美味しいじゃん」

 まったく悪びれずに、雅古は答えた。雅古は、だんだんと記憶を失う前の調子を取り戻しつつあった。記憶が戻ってくる気配はまるでないが、そういうものなのだろう。


「普通、主賓にやらせるかぁ?」

 樹季はもったいぶって、菜箸を受け取った。


 こうして樹季と雅古は、数か月ぶりに二人で夕食を食べた。

 数か月の間に、変わったことと変わらなかったことがある。きっとこれから先も、様々な出来事が樹季と雅古を待っている。

 しかし何があったとしても、樹季は雅古の隣を歩き続けるのだろう。永遠という言葉を嘘ではなく感じた。暖かさに包まれ、そう思った。

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最初から終わっていた世界でヒーローは、 名瀬口にぼし @poemin

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