24.二人

 まず最初に感じたのは、薬品の臭いだった。多分病院にいるのだろうと、樹季は推測した。


 ――ってことは、俺は助かったのか。

 樹季はどこか他人事のような気持ちで思った。初瀬との戦闘後に倒れたことを覚えてはいたが、それすらもあまり自分のことだとは思えなかった。


 ひどくあいまいな夢を、繰り返し見た気がする。十分すぎるほど寝たはずなのにまぶたは重く、体も熱を持ち、動かせない。

 あまりにもだるいので、樹季は二度寝しようかと考えた。しかしうとうとしているうちに、樹季は薬品の臭いどころじゃなく、周りの様子が普通じゃないことに気がついた。


 ピッ、ピッ、ピッという心電図の冷たい音が、樹季の鼓動に合わせて鳴っていた。口へは一定の間隔で規則正しく、空気が送り込まれている。その他にもいろいろ繋がれているのか、機械の作動音が聞こえていた。


 ――やばい、結構一大事じゃん。

 戦闘中に受けた傷を考えれば不思議なことではないのだが、樹季は焦った。自分の置かれている状況が急に不安に思えてきて、恐る恐る目を開ける。想像していた通りの白い天井と照明が見えた……と次の瞬間、左手をすごい勢いで握られた。


 体を動かせないので、樹季は何とか顔と目だけ動かして手を握っている人物を見た。

 そこにいたのは雅古だった。


「……樹季、樹季っ!」

 雅古は泣きながらベッドに身を乗り出し、声を震わせて樹季の名前を呼んでいた。大粒の涙がぽろぽろと、雅古の頬を流れていく。多分、今泣き出したところなのだろう。雅古自身はまだ、泣いていることに気づいていないようであった。


 ――雅古が……泣いてる……?

 泣いている雅古の姿を見るのは初めてのことだったので、樹季は驚いて何も言えなかった。

 樹季がただ戸惑って雅古を見つめていると、雅古は樹季の手を握る手にぎゅっと力を込めた。


「まだ、苦しい?」

 返事のない樹季の顔を、雅古は心配そうにのぞきこんだ。

「いや、もうわりと平気だけど……」

 樹季は慌てて、本当に平気なつもりでそう答えた。だが酸素マスク越しの声はかすれてしまって、あまり大丈夫そうには響かなかった。


 そんな調子でも声を聞いたら少しは安心したようで、雅古はわずかに表情をゆるめて椅子に座った。

「良かった……俺……樹季が死んだらどうしようって……」

 両手で樹季の手を握っていたのを片手に代えて、涙をぬぐう。肩を震わせ、潤んだ目をこする様子は、本当に小さな子供みたいに見えた。


 ――そうだった。雅古は、記憶を……。

 樹季はその時、雅古がシュラに侵蝕された後遺症でここ数年の記憶を失っていることを思い出した。一応樹季のことをそれなりに考えてくれているあたり、小学校の途中くらいまでのことは覚えていそうだが、元々高くはなかった精神年齢はさらに幼くなっているようだ。もしかしたら失った記憶以上に、心は退行してしまったのかもしれない。


「……雅古」

 樹季はそっと、雅古の名前を呼んだ。様子は違ってしまってはいたが、それでもやはり雅古は樹季の一番大切な存在だった。たまらなく、好きだと感じた。愛おしかった。

 緊張がとけたせいだろう。雅古はしゃくり上げて泣きはじめていた。

「俺も樹季も知らんうちにでかくなっとるし……樹季は変な化物みたいな女子と戦っとるし……何でか教えてもらったけどわけがわからん。だけど……」

 雅古はたどたどしく、不安や戸惑いを吐露しだした。


 ――俺だって、わけがわからんからなぁ。

 全部覚えている樹季ですら、何がどうなのかは説明できない。全部忘れてしまった雅古に理解しろ言っても無理な話だし、混乱もするだろう。


「あの辻っていう人が言うには、樹季は、俺のためにっ……俺のせいでっ……、死にかけてるんだって……っ」

 そう言って、雅古は息を詰まらせた。しゃくり上げて泣いているため、続きがうまく言えないらしい。


 ――辻さんも、もう少し雅古を傷付けない形で話してくれればよかったのに。

 樹季は泣いている雅古の顔を見上げ、辻に文句を言いたい気持ちになった。どんな説明をしたのか知らないが、配慮が足りていないのは確実だ。


 うつむき涙にむせながら、雅古は消え入りそうな声で言った。


「俺はいらん人間なのに……、何で、何で樹季は……、俺のためなんかに死ぬんだよ?」


 それを聞いた瞬間、樹季の胸の奥が締め付けられた。雅古の雅古たる所以であると同時に、ずっと樹季が否定したくてしょうがなかった、その言葉。

 しかしそれこそが、雅古が一番樹季に伝えたかったことなのだろう。雅古は懸命に、途切れ途切れになりながらも続けた。自分がいかに社会に必要とされていない人間なのかを、必死で証明しようとした。


「母さんだって、ばあちゃんだって、俺がいなくても気にしない。学校だって俺がいない方が楽しそうだし……。だから俺は別に、死んだっていいんだよ。なのに……」


 そう言って、これ以上何を言えばいいのかわからなくなったのか、雅古は黙った。すすり泣く声だけが残り、病室に響く。


 幼くなった雅古が今樹季に見せている弱さは、きっと成長した雅古もどこかで抱えていたものなのだろう。それを自分すらもどこにあるのかわからなくなるほどに隠した結果、人として何かが欠けてしまっていた。しかし根源を辿ってみれば、雅古も弱く孤独な、親に捨てられた子供だった。

 そしてその負い目でしか表現できなかった未熟な思い遣りは今、樹季に向けられている。


 ――俺のためにこんなにも泣いてくれるお前が、死んでもいいわけがないだろ。少なくとも俺にとっては、お前はいらない人間なんかじゃない。


 そのときやっと、樹季は雅古に届けられる言葉を得た気がした。


 樹季は少々無理をして、雅古に握られている左手を動かした。そして雅古の手を、自分の頬に押し付けた。

 軽く引っ張られた雅古は、求められるままに樹季に顔を近づけた。戸惑った表情に反して造りだけは精悍な顔が、樹季のすぐ真上からのぞきこむ。


「お前が死んだら、俺は嫌だ」


 樹季は酸素マスク越しに、雅古に言った。声を発する樹季の呼気に、マスクの内側が白く曇る。

 樹季の言わんとすることを少しは理解したのか、雅古の目がわずかに見開かれる。

 伝わったことに安堵しつつ、樹季は続けた。


「お前はいらない人間なんかじゃない。俺が死んだらお前が嫌なように、俺もお前が死んだら嫌なんだ。だからもう、自分をいらないとか言うのはやめろよ……」


 至極簡単な、理屈である。だがその単純な結論に至るのに、樹季は現実に死にかけなければならなかった。自分も雅古もどちらも馬鹿なんだな、と樹季は思った。お互いがお互いを大切に想っているけど、自分もまた相手にとって大切な存在であることには気づかない。


 最初に出会った、夜の森の中。

 樹季はずっと、自分が雅古に救われたのだと思っていた。だが同時に、雅古も樹季に救われたのではなかったのか? 不幸な子供がより不幸な子供に出会って手を握る。どちらが求めてどちらが求められたのか、その区別は難しい。


 窓のない病室の中で、雅古の顔は照明の影になっていた。ゼロか一しかない子供の目をして、雅古はただ樹季を見つめている。

 樹季はどうしようもなく切ない気持ちになって、頬に押しつけた雅古の手を、指を絡ませてより強く握りしめた。熱っぽい樹季には、少し冷たい雅古の手の温度が心地よい。

 雅古はその手を握り返して、目をつむって頷いた。


「うん……」

 止まっていた涙が、また雅古の頬を流れていく。

 樹季と雅古は、それ以上はもう言葉を交わさなかった。ただ黙って、手と手でお互いを感じ、想った。


 樹季はしばらくずっと、雅古の頬を伝っていく涙を眺めていた。どれくらいの間、そうしていたのかはわからない。


 そのうちにやっぱり疲れてきたので、樹季は再び眠りにつくことにした。隣に雅古がいるので不安はもうなかった。安心してまぶたを閉じて、眠気に身を任せる。眠りの中でも、雅古の存在を感じていた気がした。

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