23.譲れないもの

 ファルヴェルンに変身して空間移動をすると、工業団地に着いた。倉庫のような建物が砕かれ、整備された道もひび割れている。空物件ばかりであるので、人的被害はなさそうであるが、ひどく破壊されていた。


 ――雅古と初瀬、あと先に来てる菊川さんはどこに……?

 敵と菊川を探して、夕焼けに赤く染まる辺りを見回す。

 すると、金属がぶつかりあうような音が離れた場所から聞こえた。樹季は跳んで、音のする方へ向かった。


 着いてみると、菊川と初瀬は造りかけの大きな工場の屋根の上で戦っていた。樹季は地面に立ち、二人の戦いを見上げた。

 菊川は黄緑色の鎧に変身している。天女を思い起こさせる柔らかい色合いで、デザインも昆虫のようでもあるがどこか女性的でもあった。武器は日本刀で、その動きは洗練されており、無駄がない。


 対する初瀬は黒いコートを着た少女の姿のまま、怪鳥を使役し戦っていた。

 怪鳥は自由自在に飛び、菊川を全方向から攻撃する。それをかわす菊川の動きは素早く、刀による攻撃も幾度かは当たっていた。


「やっと来たね、鏑木樹季」

 初瀬は樹季が来たことに気づくと、鳥を呼び戻してその背に乗って空に舞い上がった。

「まだ完全に力を出せるわけじゃないけど、弥雲は強いよ。あなたで戦えるかな?」

 初瀬はくすくすと、袖で口元を覆って笑った。


 菊川も気づいて、樹季に声をかける。

「樹季君、雅古君は任せていいんだ?」

「は、はい?」

 樹季はよくわからないまま返事をした。


「じゃ、僕はこの女の子の相手をしてるから!」

 菊川はそう言って、蝶が描かれたカードをドライバーにスライドさせた。

 するとその背中から蝶のような翅が生える。金色に縁取られた、色とりどりの翅である。

「明け行く雲に芽吹け、萌黄!」

 菊川はそう名乗り口上を叫ぶと、空に飛んだ。その姿は、本物の胡蝶のように軽やかであった。


 空中で戦い始める菊川と初瀬。二人を見上げる樹季の背後に、シュラの気配が回り込む。

 樹季は素早く振り返り、その姿を見た。


「――雅古っ……」

 そこにいたのは、雅古だった。知らず知らずのうちに、樹季は変身を解いていた。


 雅古は連れ去られた時と同じ学生服を着て、赤茶けた髪を揺らして立っている。よく知っている、日に焼けた顔。だがその目は何も映していないかのように光がなく、もう雅古が樹季の知っている雅古ではないことを示していた。


 口を小さく動かし、表情のない雅古が低い声で何やらつぶやく。すると地面からどろどろとした黒いものが湧き出て雅古の体を覆い、姿を変えた。赤黒い光が放たれ、その黒い塊が定着する。


 そして雅古は、黒い一本角の鬼の異形へと変身した。目の部分が赤く光る他は、全て鋼のような漆黒に包まれている。光を吸い込むような、反射すらない暗黒。その禍々しい姿は今までの変身とはまったく異質で、未知の何かを感じさせた。


 雅古は両手を前に突き出し、武器を呼び出した。赤い光が集まって、武器を形作る。柄の両端から双方に刀身が伸びた、目と同じ赤で光る刀である。


 ――あぁ、もう雅古はシュラなんだ。

 樹季は現実感のない心でそう思いながら、茫然とシュラとなった雅古が着々と戦闘形態へと変化していくのを眺めていた。先ほど初瀬が「まだ完全に力を出せるわけじゃない」と言っていたことから、記憶をすべて侵蝕され尽くされたわけではない可能性もあったが、それでももうほとんど戻れない段階まで進んでいるようにも思えた。


 雅古のもう人のものではなくなった赤い目が、樹季を真っ直ぐに捉える。次の瞬間、雅古は距離を一瞬で詰めて、その刀で樹季に攻撃を加えた。


「――っ!」

 とっさに避けようとしたが、変身していない生身の体で避けきれるわけなく、樹季はその攻撃をもろに受けてしまった。

 体が高く跳ね上がって、数メートル先の地面に叩きつけられる。遅れて神経に伝わる、体がバラバラになるような激痛。衝撃で地面を覆うコンクリートが円形にひび割れた。


「……くっ……」

 樹季は仰向けに倒れ、喘いだ。攻撃そのもののダメージと地面にぶつかったときのダメージで、起き上がることができない。今まで骨折したことがないのでわからないが、手足の骨が確実に何本かは折れているような感じがした。


「えぇ、ちょっと! 何で変身しない?」

「殺す殺さないの選択で、最初から殺されるを選ぶとは思わなかったね」


 上空から、菊川の慌てた声と初瀬の面白がるような声が遠くに聞こえた。


 ――変身して戦わないと駄目なのはわかってるんだけど、でも……やっぱり雅古には……。

 樹季は何とか動いた左手で、ズボンのポケットからカードを出して握りしめた。しかし、それを使うことはできなかった。


 自分がどのような行動をとるのか、最後まで決められなかった樹季は、とりあえず来てみて自分がどういう選択をするのかに賭けてみることした。

 結局、人格を失い敵として自分を殺しにくる雅古を前にしても、樹季は変身することも防御することもやり返すこともできずにその攻撃を受けた。受けてしまった。


 それは雅古に殺されるということを意味していたが、樹季は殺す覚悟はできないのに殺される覚悟はできた。

 樹季は動けないまま、空を見上げた。夜へと色を変えていく夕闇の中で、黒い鋼に覆われた雅古が、樹季に近づいてくるのが視界に入る。


 雅古はそのまま、倒れた樹季の体の上に覆い被さった。そして、鉛のような黒い塊に変化した足で、樹季の胸を服の上から躊躇なく踏みつぶす。


「う……ぐっ……」

 重機で締め付けられたかのよう重苦しさに、樹季は悲鳴を上げることができずに呻く。

 異形となった雅古は、苦しむ樹季を前にしても何の感情も見せなかった。冷酷な鋭さで、手に握った赤く光る刀を樹季の胸の心臓近くにあてがった。


 無残な死の予感に、樹季の体がびくりと震える。

 樹季はどうしようもなくつらい気持ちで雅古を見上げた。日のほとんど沈んだ藍色の空を背景に立つ、真っ黒な影となって浮かび上がる一本角の鬼。かすれた視界の中で、その赤い切れ込みのような化物の目を見つめる。


 ――もし俺が殺されることで、お前に与えられた重荷がなくなるのなら、俺は喜んで殺されるのに。

 漆黒の鋼に覆われた姿の奥にあるはずの、大切な親友を思う。無論、樹季が殺されたところでその呪いは解けないのであるが、樹季はどうにかして雅古が救われることを願った。


 雅古はただ無言で、樹季に刀を突きたてた。

「……ぁ……っ!」

 骨が砕かれ、刃が胸に突き刺さる。変身してなくても多少は体が丈夫になっているのか、即死にはならなかった。鋭い痛みが、体中を貫く。刀が栓になっても流れ出る血が、学生服に染みていく。


 確実にとどめを刺していくように、雅古がより深く刀を樹季の胸に沈めた。びくびくと、樹季の体に痙攣が広がる。

「――っ……」

 樹季は声も出せず、息さえもできなかった。肉を断ち押し進む刃の感覚に、目を見開いた。

 このまま自分は何もできずに死ぬのだと、そう思った。


 その時、樹季の頭に一つの考えが浮かんだ。死にかけた脳が最後に出した、一か八かの賭けである。


 ――でも、それって、可能なのことなのか?

 樹季はその実現性を疑った。だが、数秒後に死んでいてもおかしくない樹季には、吟味している余裕はなかった。

 ――俺は、雅古を……。

 樹季は最後の力を振り絞り、右手で自分を刺している刀を握った。


 雅古が一瞬、意図をはかるように動きを止める。

 手の肉が裂けて出血するが気にせず、樹季はさらに強く刀を握った。


 そして左手で、持っていたカードをドライバーにスライドさせた。同時に自ら深く、握った刀を自分に突き刺す。その方が何となく、成功率が上がる気がした。


 ――このドライバーは記憶で動くって辻さんは言ってた。雅古に宿っているシュラの記憶を使って変身して、その記憶を俺に移すことができれば、もしかしたら雅古は助かるかもしれない。

 シュラの記憶を自分に移すということは、樹季がシュラになるということである。樹季はそのことを理解していたが、それでも雅古が助かるなら構わないと思った。雅古の代わりに化物として殺されるのは、何もできなくて死ぬよりもずっと良いことのように感じられた。

 より深くなった傷から、血が吹き出す。


「動けっ……!」

 息も絶え絶えではあったが、樹季はファルヴェルドライバーに命じた。すると、銀色のその機械仕掛けの腕輪は、赤い光を放ち始めた。

 ――成功した……?

 樹季は途切れそうな意識の中で、雅古を見ようとした。しかし、強さを増す光の中で、その姿はよく見えない。


 光は大きくなり、雅古と樹季の二人を球形に包んだ。


 樹季の中に、とりとめない強烈な負の感情が一方的に流れ込む。恨み、怒り、憎しみ、苦しみ、その他の激しい衝動が、樹季の精神を破壊しようとしていた。


 ――これが、雅古の中にあったシュラの記憶……。

 炎に体が燃やされる感覚が、脳に焼け付く。目を瞑っても見える、赤く激しく燃える炎。初瀬はこの記憶を酷く苦しんで焼け死んだ子供のものだと言っていたことを、樹季は思い出した。


 形がないが凄惨な死の記憶に、樹季の心は限界を迎えそうになる。だが、雅古から樹季へシュラの記憶を媒介するドライバーは、猛り狂う記憶を制御しようと、機械らしく厳格に動き働き続けていた。それは樹季の精神を崩壊する寸前のところで繋ぎ止め、暴力的に溢れ注がれる記憶を正しく伝える。

 赤い光が弱く小さくなって、その銀色の腕輪に収束する。それに呼応するように、樹季の脳に刻まれる苦痛がより激しさを増す。


「――っ、ぁあぁぁっ!」

 樹季は絶叫した。本当に炎に包まれているのではないかと思うほど、体が熱かった。肉が焼け溶けていくような感覚に、自分の体とそれ以外の境目かがわからなくなる。

 赤く、黒く、樹季の思考が塗りつぶされていく。

 そして、樹季の中で何かが爆ぜた。


 樹季は、静かな冷たさの中で覚醒した。

 ――あれ、俺、ちゃんと俺のまま生きてる……?

 樹季は、自分が自分の人格をはっきりと保てていることに驚いた。自分は死ぬか、生きたとしてもシュラとして自我を失うとばかり思っていた樹季は、それが現実のことだとは思えなかった。


 樹季を苛んでいた苦痛はなく、その代わりの何かだろうか、体の上には何か重みのあるものが載っているようだった。

 恐る恐る目を開けると、そこには樹季の上で眠っている雅古の顔があった。赤い目を持った真っ黒な化物ではなく、よく知っている幼なじみの雅古の顔である。


 雅古の体をそっと腕で抱きとめながら、樹季は起き上った。


 そして、今度は自分自身が黒い鋼に覆われた姿に変化していることに気がついた。普段変身しているときの青色の鎧とだいたいの形は同じようであるが、色はどこまでも漆黒で、造形も二本の角のついた鬼神のようなものに変わっている。

 銀色だったドライバーも真っ黒に染まり、持っていたカードも焼け焦げて元の絵柄が何だったのかわからなくなっていた。


 腕の中にいる雅古の肩が震えて、目が開く。まだ半分寝ているような様子で瞬いて、ぼんやりした顔で樹季を見上げる。

「えぇっと、樹季……?」

 すっかり様子の違った樹季の姿に、雅古は自信がなさそうに呼びかけた。

「うん……。多分、俺で合ってる」

 樹季は自分でもあまり自分は自分であると確信が持てなかったので、曖昧な返事で答えた。


 雅古が不思議そうな顔で、樹季に言う。

「何でそんな恰好してんの? お前、妙にでかいし。あれ、俺も声変だし、っていうか、何でもう学ラン……?」

 その様子のおかしさに、樹季は雅古が喪失したものに気づいた。

 ――こいつ多分、ここ何年かの記憶、全部失ったんだな……。

 樹季は、腕の中の雅古がひどく痛ましい存在に思えた。想定していた中ではそれなりに良い部類の後遺症ではあるが、それでもいざ現実に向き合ってみると胸が苦しくなる。


 その時、ばさばさと響く鳥の羽ばたく音が、樹季の思考を遮った。

 見上げれば、上空から黒い怪鳥に乗った初瀬が降りてきて、信じられないという顔で樹季を見つめる。


「はぁ? 嘘でしょ? 弥雲の記憶をそんな機械か何かの制御下に置いたの?」

 その声は、わなわなと怒りに震えていた。初瀬の怒りに応えるように、怪鳥が奇声を上げる。

 菊川は、樹季が前後不覚に陥っていた間、結構頑張って戦って疲弊したらしく、若干ふらふらしながら樹季と雅古の近くに着地した。


「君たち、どっちも僕の敵じゃないんだよな? な?」

 翅をしまって、不安そうな様子で二人を交互に見る。

 樹季は、体力的にも消耗が激しかったのか、起き上がることなく腕の中に収まっている雅古を菊川に預けた。


「菊川さん、雅古をお願いしてもいいですか?」

「それくらい全然いいけど……、本当に元に戻ってるの?」

 菊川は雅古の体を支え、まじまじとその顔をのぞきこんだ。

「樹季、この人何?」

 雅古が不安そうに、菊川の腕から逃れようした。空を飛んでいた見知らぬ覆面の男の手では、安心できないのだろう。だが、まだ思うようには体が動かないらしく、結局は菊川に掴まれたままであった。


「その人は大丈夫だから、ちょっと待ってて」

 樹季は雅古にそう言い残し、上空にいる初瀬の方を向いた。


 もうすっかり日が暮れて、空は真っ暗になっている。

 初瀬はその闇に溶け込むように、鳥の背に乗って空を飛んでいた。


「許さない……、私の同胞を……!」

 怒りに歪む初瀬の瞳が揺れる。初瀬は左手に球状の赤い光を発し形を変え、弓の形をした武器を呼び出した。

「その力はあなたたちのものじゃない! 返しなさい!」

 初瀬は弓を引き、樹季たちを射る。


 樹季がどう防御しようか考えていると、樹季の背中から青く長い六枚翅が展開した。

 それはマントのように前方にも翻り、初瀬の攻撃を無効化する。


「それを言うなら、その体だってお前らのものじゃないんだろ!」

 樹季は言い返し、そのまま勢いで空へ飛翔した。六枚の翅が青く輝きながら広がった。

「くっ……、そう来るなら!」

 初瀬が悔しそうに、樹季から離れ後退する。その間に弓を光に戻し、今度は長い槍に形を変えた。


 樹季も対抗して、武器を呼び出す。青い光が集まって、長い柄に幅広の片刃のついた黒鋼の大刀を形作る。刃の近くには青い紐が結ばれ、揺らめいていた。


 初瀬を乗せた鳥が滑空し、樹季を急襲する。樹季は大刀を構え、迎えた。

 初瀬の槍が、樹季の右脇腹を狙う。樹季は大刀の柄を使い、それを防いだ。


 大刀と槍を交えながら、二人は至近距離で互いの目を見てにらみ合った。初瀬は幼い少女の姿のまま激昂し、叫んだ。


「あなたたちコトヒトは、この星を私たちから奪った!」

「だからって……こんな不毛な戦いを続けて、それが本当にお前たちのためになるのか?」


 樹季は初瀬から目をそらさずに、問いかけた。しかし初瀬にはその言葉はまったく響いていないようであり、槍にこめられた力は緩まない。


「誰のためとか、そういうことはもうどうだっていい! とにかく私は、この世界を壊す! 気が済むまで!」

 そう言って、初瀬は樹季の槍を跳ね返した。暗闇の中、黒いコートの裾が翻る。

「昼も夜も悪夢を見続けてきた! あなたたちを殺さないと、それは終わらない!」

 初瀬の体は、赤い光を纏い始めていた、夜空に浮かぶその姿は、もう赤い月が上がったようだった。


 その赤い光を槍に集中させ、初瀬はその一撃を樹季を確実に仕留めるための攻撃にするべく腕を引いて構えた。槍の前に、魔法陣のような光がいくつも重なって現れる。

 樹季も翅を広く展開し、大刀を構えた。青い光が翅を覆い、樹季の背中に大きな円形の波紋を作り出す。


「なら俺が、ここでお前を終わらせてやる!」

 樹季は初瀬を見下ろし、言った。残念ながらもうこれ以上、というよりも最初からだったのだろうか、初瀬とは話し合いの余地はないようだった。

「ここから、消えてよ! 全部!」

 叫びながら、初瀬は樹季に迫った。槍が前方に並ぶ魔法陣を貫いて、その一撃の力を増していく。


 樹季もまた六枚翅を羽ばたかせて、初瀬との距離を詰めた。背中の光はより大きく強く樹季を包み、その手に握った大刀を輝かせた。

 数秒後、赤と青が交差し二人は激突した。

 重なった光は白く大きく広がり、二人を飲み込む。


「もうあきらめろ、初瀬」

 樹季はまぶしさをこらえて、初瀬に呼び掛けた。初瀬は、樹季の大刀に槍を折られ、腹部を貫かれてはいたが、致命傷ではないようだった。

「絶対に嫌だ、ね……っ。私たちは最後まで、戦い続ける……!」

 口から血を流しながら、初瀬は樹季に囁いた。そして自分で樹季の大刀の柄の根元を握って刃を引き抜き、鳥に命じてゆっくりと樹季から離れた。


「また必ず……殺すから……、それまで……死ぬのは許さない……!」

 初瀬は呪詛に近い言葉を残し、長い黒髪をなびかせて光の中に消えて行った。恐らく死んだというわけではなく、落ち延びたのだろう。

 二人を包んでいた光が消え、夜空がいつもと変わらぬ暗さを取り戻す。


 ――とりあえず終わった、のか……?

 樹季は翅をしまいながら、地面に着地した。体を覆っていた黒い鋼も塵と消え、変身も解ける。樹季は元の姿へと戻った。

 その瞬間、全身を砕かれたような激痛が、再び樹季の体を引き裂いた。


「――は……っ……、ぁ……」

 樹季は受け身を取ることもできずに、地面の上に崩れ落ちた。うつ伏せに倒れたので頭は打たずに済んだが、それでも体は勢いよく地表を覆うコンクリートにぶつかった。


 ――そういえば、俺、死にかけてたんだっけ。

 樹季はぼんやりと、シュラの記憶を使って変身する前に受けた傷のことを思い出した。先ほどまで問題なく動けていたのは、変身中だったために痛みを感じなかっただけのようだ。中の生身の体の傷もついでに癒える、なんていう都合のよい展開にはならなかったらしい。


 胸から流れる血が、樹季の体の下に血だまりを作っていく。深く穿たれ止まりかけた心臓が、弱弱しく脈打つたび、血が失われていくのがはっきりとわかった。手足の感覚はまったく残っておらず、息もできない。


「樹季!」

「樹季君!」


 遠くの方で、雅古と菊川の声がした。耳はまだ何とか聞こえたが、目はもう開けているのか閉じているのかさえわからない。

 樹季はその呼びかけに応えたかった。しかし、地面の上に横たわる血に濡れた体はどんな反応も示すことができない。


 ――雅古……。

 樹季は心の中で雅古の名前を呼んだ。


 そこで、樹季の意識は途絶えた。形のない静かな闇に包まれ、全てを手放した。

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