防火扉は頑丈な分厚い鉄扉で、蹴っても叩いてもびくともしない。壊すことは早々に諦め、階段をのろのろ移動して、扉の押し引きを繰り返した。


 時々、休憩を取る。


 休憩中は足許や階数表示を確認する必要がないので基本、ライトを切った。僅かな光も感じ取れない暗闇が辺りに満ちて、べたりと重く肌に張り付く。縦長の巨大な棺桶か墓穴に、生きたまま放り込まれたような絶望的な感覚に陥って気が塞いだ

 スポーツドリンクはすぐになくなり、渇いた喉に飴の粘ついた甘酸っぱさが突き刺さって鬱陶しい。生きるため必要な水とカロリーが摂取する当てもないのに、消費され、排出される。そのことに対する恐怖と焦り、そして一抹の諦観が胸に迫って少し泣いた。


 数時間?

 あるいは数日?

 体感時間が狂ってしまって、どれだけの間そうやって過ごしていたか自分でもよく分からない。


 脱水と疲労と熱中症のせいだろう。だんだん気分が悪くなり、やがて僕はほとんど動けなくなった。その頃には埃やゴミで汚れた床に横たわることへの抵抗感がなくなっていて、怠さと吐き気に耐え切れず床で眠るようになっていた。

 眠って、しかし深くは眠れず目を覚ます。

 暗闇の中、朦朧としながら考えた。


 懐中電灯の電池は意外と保っている。この分だと照明の電池が尽きるより先に、僕の方が死ぬかもしれない。ラストエリクサー症候群……とか言ったっけ。こういう、終盤まで貴重なアイテム死蔵すること。

 ……………………

 ……………………

 ……………………

 ……………………

 ……………………

 ……………………

 ……………………








 こんな場所で死にたくない。







 こんな、暗くて息苦しい場所で。







 はっと目を見開いた。

 希望を抱くと返って辛くなる。

 だから今まで感情をなるべく押し殺していたのだけれど、最後の最後で考えてしまった。気づいてしまった。僕はここで死にたくないと思っている。

 目頭が熱くなったが、体内の水分が足りないせいか、最早涙は零れなかった。唇を噛み締めて思考する。

 後、一回くらいは動けるだろうか。

 余力はないのだ。確実に、意味ある行動をしなくちゃいけない。意味ある行動―――まだ試したことがない行動―――――――






 8






 そうだ、8階。


 8階の先を僕はまだ見たことがない。


 8という階数表示を見た瞬間、恐怖に負けていつも引き返していたのだ。怖いなら、扉を開けなくてもいい。扉を通り過ぎて、8階の先へ進んだら?

 8階が現れた時の状況を一生懸命に思い出す。はっきりした出現条件は分からない。だが記憶の中の8階を、僕は必ず見上げていた。つまり8階は、きっとに現れる。

 明確な目標を見つけたからかもしれない。心臓がどくどく脈打って、急に心身が活気づいたように感じた。気怠い身体に力を入れて立ち上がる。どうしても、じっとしていられなかった。






 手摺に掴まり、重たい足を持ち上げる。一歩、二歩、三歩………ゆっくりとだが、しっかり前を見据えて進む。今まで8階の出現に規則性を感じたことはなかった。ランダムに現れるとするならば、とにかく前へ、上へ、進むしかない。

 頭が痛くて気分が悪い。息が切れ、座り込みそうになる身体を僕は無理矢理動かした。もし体力が尽きる前に8階が見つからなかったら―――最悪の可能性を振り切るように、進む、進む。

 やがて、




 8




 踊り場から懐中電灯で照らした上階の壁に、その文字が見えた。

 歓喜と緊張で手が震える。戻ってきたのだ。始まりのフロアに。

 8階で何を見聞きしたのか、8階に何がいるのか―――思い出せないのに恐怖心だけは鮮烈で、生唾を飲もうとしたが渇いた口内には唾がなかった。もう僕には、逃げる余裕も躊躇う余裕も残されていない。

 意を決して足を踏み出す。


 扉を閉じた瞬間、背後に迫っていた気配は消えた。8階の何かは、たぶんこちらには入って来れない。そう自分に言い聞かせながら防火扉の前を通り過ぎ、階段を昇る。思うように身体を動かせないのがもどかしい。

 踊り場まで昇ったところで数回深呼吸して、懐中電灯を上へと向けた。階数表示を確かめる。




 9




 心臓が跳ねた。

 8階と近いことが何とはなし怖ろしく、9階を素通りして、その上へ――――――




 10




 今までと明らかに違う。

 進んでいる。

 移動している!

 その実感を得られたことが、堪らないほど嬉しくて、もう涙も出ないのに泣きそうになった。頭を振って前を見る。

 ふと上へ行くほど、辺りがほんのり明るくなることに気づいて、驚いた。階段は10階の、更にその先へ続いている。廃ホテルは10階建て。裏側ホテルも同じく10階建てだとすれば、10階の先にあるのは、



(――――屋上だ)



 一旦10階で立ち止まって、上を確かめてみた。

 他フロアでは階段に面した壁が縦長の空間の真ん中を貫いていたのだけれど、10階以降はそれが手摺に沿うようにして形を変えており、少しだけ上階の様子を窺える。

 嵌め殺しの窓が出入口の扉についているのだろう。陽光のものらしい橙色の光が室内に射し込んでいた。


 外の空気を吸いたい。

 空を見たい。


 思った時には足が動いて、僕は屋上を目指していた。喜びに突き動かされているからか、身体が軽い。



 ぎぃ。



 ノブを回すと、呆気なく扉は開いた。暗く閉塞的だった視界が開け、眩しさに目を細めつつ、薄赤い外へと足を踏み出す。


 斜陽が、金色に耀いている。

 

 太陽を中心として空は燃え、廃ホテルの屋上は室内の暗さが全く嘘であるかのように明るかった。昼と夜と夕方が繊細に融け合い、混ざり合った空を陶然と眺める。太陽の耀きが目に沁みて、快い衝動が胸を満たした。足が勝手に前へ動いて、止まらない。


 ふと、僕は戸惑った。



(………僕は、何をしようとしてるんだろう)



 変だ。おかしい。取り返しのつかない何かをしようとしている。そんな自分を、冷静に、呆然と見詰めている僕がいて、たぶんこの時、僕の魂とか心とか言うべきものは二つに分かれてしまった。

 傍らを人が通り抜ける気配―――反射的にそれを目で追えば、少年らしき人物の横顔がちらりと見えた。熱っぽく瞳を光らせた彼はどうも、僕らしい。


 駄目だ、と思った。

 やめろ、と思った。

 だが、止められなかった。


 何かに憑かれたような足取りで駆け出したは、屋上の縁に立って下を覗いた。逆光で黒い人影が錆びた鉄柵を乗り越えて飛ぶ。重たい、水を含んだ物の潰れる音が遠い地面から微かに響き、僕はそっと震える息を吐き出した。








 また、僕の目の前でが飛んだ。


 また、


 また、


 また、


 あれから延々と、僕は、僕等は、死に際の行動を繰り返している。








 僕は死んだ。抵抗は全て無駄だった。もう、どこにも行けない。何もできない。

 退屈だ。退屈だから、退屈しのぎに考えてみる。


 思うに、


 変だ。おかしい。取り返しのつかない何かをしようとしている。そんな自分を、冷静に、呆然と見詰めている僕がいて、たぶんあの時、僕の魂とか心とか言うべきものは二つに分かれてしまった―――そして、分かれたままが死んだので、死後も僕は生前通り、を見詰め続けているのだろう。



 時々、僕はがとても羨ましくなる。



 僕の世界は平坦だ。景色の動きも感情の起伏も少なく、面白味がない。その面白味のない世界が、ずっと続いているのである。これからもずっとずっと、続くのである。

 ふと、どうしようもなく辟易した時などに、の顔を見るとあんまり眩しくて居た堪れなくなった。破滅的な、しかし快い衝動に取り憑かれ、熱っぽく瞳を光らせた、あの、顔―――――



 は正気を失ったまま、幸福な時間を何度も何度も繰り返し、反芻しているんじゃないか。


 想像して、いや、と否定した。僕は飛び降りた後、が何を見て何を感じたか知らない。もしかすると最後の最後で、強烈な恐怖と痛みに苛まれ死んだということも十分あり得る。




 そうであればいい、と思う。


 そうでなければ、置いて行かれた僕はやりきれない。




 ―――――

 ―――――

 斜陽が、金色に耀いている。

 太陽を中心として空は燃え、廃ホテルの屋上は室内の暗さが全く嘘であるかのように明るかった。逆光で黒い人影が錆びた鉄柵を乗り越えて飛ぶ。重たい、水を含んだ物の潰れる音が遠い地面から微かに響き、僕はそっと震える息を吐き出した。


 一体、いつからこうしているのだろう。

 一体、いつまでこうしているのだろう。


 分からない。

 分からなかった。随分長い間、僕はここにいて、墜落する太陽を、を見詰め続けている――――――――




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