裏側ホテル
白河夜船
上
斜陽が、金色に耀いている。
太陽を中心として空は燃え、廃ホテルの屋上は室内の暗さが全く嘘であるかのように明るかった。逆光で黒い人影が錆びた鉄柵を乗り越えて飛ぶ。重たい、水を含んだ物の潰れる音が遠い地面から微かに響き、僕はそっと震える息を吐き出した。
一体、いつからこうしているのだろう。
一体、いつまでこうしているのだろう。
分からない。
分からなかった。随分長い間、僕はここにいて、墜落する人影を見詰め続けている―――――
ぎぃ。
扉の開く音。僕が扉を開ける音。暗く閉塞的だった視界が開け、眩しさに目を細めつつ、薄赤い外へと僕は足を踏み出した。
斜陽が、金色に耀いている。
太陽を中心として空は燃え、廃ホテルの屋上は室内の暗さが全く嘘であるかのように明るかった。傍らを人が通り抜ける気配―――反射的にそれを目で追えば、少年らしき人物の横顔がちらりと見えた。熱っぽく瞳を光らせた彼はどうも、僕らしい。
何かに憑かれたような足取りで駆け出した
始まりはただの遊びだった。
高一の夏休み―――高校受験を乗り越えて大学受験はまだ遠い、そんな晴れやかに緩んだ時節の中心で『夏休み』それは特別魅惑的な光芒を放つイベントで、だから八月某日、あの日の僕等は少し浮かれていた。
肝試しに行こう。
誰かが言った。
誰が言ったかは覚えていない。たぶん僕ではなかったと思う。
肝試し?
そう。山の上の、オバケホテル。
僕等が通う高校の文化部棟2階。その東に面した窓から外を眺めると、遠景に連なる山々の一つの頂上に、白っぽい大きな建物が建っているのが見える。目立つ割に交通の便が悪くて、誰も近くへ行ったことすらないというそこは、地元で有名な心霊スポットなのだった。
と言っても、その
別段怪しい過去もない、普通の廃墟。
それでもなお、廃ホテルが地元民―――殊、子供達の間で心霊スポットと認識されていたのは、目立つ姿とメッセージアプリを使って内輪でこっそり共有されていた写真のためだった。兄、姉、従兄弟、先輩……身近な年長者の誰かしらが廃ホテルで撮ってきたのだというそれは、一部の悪戯で加工されたらしいものを除いては、心霊写真でも何でもない、単なる写真だったのだけど、不気味で、不穏で、子供じみた冒険心を非常に擽られた。
「その方が面白いから」
子供達にとってそれ以上でも以下でもなかった。
だからこそ気軽に「肝試しに行こう」などと思い付き、実際行く者達がいる。僕等もまた、そうだった。
八月。
盆過ぎの、ある日の午後。
僕等は廃ホテルの前にいた。
今ではもうよく思い出せないのだけれども、友達の兄弟か誰かが車を出してくれたのだろう。特に疲労することもなく僕等は山上の廃ホテルに辿り着き、そして、
(……………あれ?)
皆がどうだったかは知らない。ただ、少なくとも僕は違和感を覚えた。
何かが違う。
初めて来た場所だが写真を見て廃ホテルがどういう場所であるか薄ぼんやりとは把握していて、その上で違うと思ったのだ。しかし、どこがどう違うかどうしても言葉に出来なかった。難解な間違い探しを見るような、写真と実物が微妙に違うのは当たり前だと言われれば納得するしかないような、小さい違和感。
盛り上がる皆の前で僕はそれを口には出せず、また、僕自身も気のせいだと流してしまって深く考え込みすらしなかった。
後から思えば、違和感を覚えた時点で引き返していればよかったのだ。実際、僕等の踏み込んだそこは僕等がよく知る廃ホテルとは違う―――たぶん『裏側』とでも言うべき場所に存在する、全くの別物だった。
廃ホテルは、鉄筋コンクリート製で10階建てという田舎のものとしては破格な大きさの建造物で、荒廃した様相も相俟って前に立つだけで軽く威圧されるような感じがした。
入り口の鍵、開いてるな。
前来た奴が開けたんだろ。それか最初から閉まってないか。
硝子戸を押し開け、威勢の良い友達が中へ踏み入ったのに僕も続く。入り口付近は明るいものの、窓からの光が届かない奥はかなり暗くて、僕を含めた数人は懐中電灯を、懐中電灯を持たない者は携帯のライトを点けて室内を進んだ。
フロント、ロビーラウンジ、売店、ゲームコーナー、大浴場、トイレ、階段、エレベーターホール、宴会場、レストラン、バー、無数の客室―――……
日没までの数時間ではとても全て見て回れないほど館内は広く、複雑な造りで、所々往時の面影を残しているのが何とはなし面白い。
何だろ、あれ。
行ってみようぜ。
うわ。でかい虫の死骸!
僕等は好奇心の赴くまま廃ホテルを探検し、どれだけ経ったろう。
……そろそろ帰らね?
誰かがそう、不意に言った。
ああ、うん。
その頃にはやや陽が傾きかけていて、ふと日没を意識してみると、ここへ来た時よりも随分と室内の影が密度を増しているような気がした。8階だった。遠い窓から飴色の光が差し込み、しかし、両側に客室があるため眼前に伸びる廊下は暗い。暗い廊下に僕と友達二人きり――――
歩きながら友達が、なぁ、と躊躇いがちに口を開いた。
あのさ。
うん。
ここ来た時、その、
何か言い掛けて、言葉に詰まった様子で俯く。
何だよ。
いや、あのさ、何て言うか、その――――もっと、いなかった?
……………………え?
何が、と言おうとして僕も言葉を失った。暗い廊下に僕と友達二人きり。二人きり。そのことをようやっとおかしいと感じた。高校生二人きりでこんな辺鄙な、不気味な場所に来たはずがない。車を出してくれた誰かが、恐怖を誤魔化せるだけの人数がいたはずで――――実際、道中複数人と話した記憶もある。
なのに誰がどこで消えたのか、そもそも誰と一緒にここへ来たのか、うまく思い出せなくなっていた。現状と記憶のズレを直視しなければ、不自然を、違和を、友人の形をした空白を、認識すら出来ないという事実に愕然とする。
僕を不安げな表情で見詰める友達に、
逃げよう。
僕は咄嗟にそう言って、言いながら「逃げる」と脅威を明確に意識した言葉を自分が使った、そのことに自分自身で驚いた。
逃げる。
何から逃げるというのだろう―――――
かちゃ。
金属質な異音。
友達の背後で客室の扉が不意に開き、目の端に飴色の光が射した。
そこから記憶が少し飛ぶ。
気づけば、僕は何かから逃げていた。何から逃げているのか、どうして逃げているのか自分でもよく分からない。ただ恐怖に突き動かされ、長くて暗い廊下を必死で駆けた。
非常口マークが目に留まる。
左手に扉があった。
客室の扉ではない。防火扉―――階段に繋がる扉だ。
押し開けて、後ろを見ないままバタンと閉じた。鉄扉を閉じた瞬間、背後に迫っていた何かの気配がふつりと消えたことに安堵する。と同時に、周囲のあまりの暗さに狼狽えた。
行きがけ使ったものとは違う階段に入り込んでしまったらしい。建物の内部に位置する階段なのか窓がなく、重苦しいような暗闇が四方に凝っていた。
(――――逃げよう)
懐中電灯の明かりを頼りに、足を踏み出す。
懐中電灯と言っても、百均で買った、掌大の小さなもので広い範囲は照らせない。心細く感じながらも、僕はそれに縋って1階を目指した。
床に敷かれた緋毛氈が足音を吸い、張り詰めた静寂の中、自分の呼吸音と心音ばかりが酷く五月蠅い。友達。そう、友達。僕は友達といたはずだ。あいつは、どうなったんだろう。あいつ………誰だったっけ、あいつ。もう名前も思い出せない。
ここに至って、僕は察した。
何かが違う。この建物の前に立った時、漠然と覚えた違和感は、たぶん気のせいなどではなかったのだ。写真で見た廃ホテルとこの廃ホテルは別物で、別物だが同じ場所に存在している。だから僕等は迷い込んでしまったのかもしれない。
友達の家で少しだけプレイしたホラーゲームに出てきた単語が頭を過った。
裏世界。
裏。
裏側――――――
仮にここを本物の廃ホテルと区別して、裏側ホテルと呼んでみる。裏側ホテルでは人が死ぬ、あるいは、いなくなる。すると、どうなるか。
存在自体が消えるのだ。
曖昧な空白を残して消える。消えて、よくよく意識しなければその空白に人がいた、その一事すら正しく認識して貰えなくなる。逃げなければ、僕も、きっと、…………
恐怖から目を逸らそうと、僕は考え事に没頭し、そのために気づくのが少し遅れた。
(…………あれ?)
どれだけ歩いても行き止まりに、1階に辿り着かない。
怪訝に思って階数を確認しようと、防火扉の前で立ち止まり、懐中電灯を上へと向けた。LEDの白い光が薄汚れた壁を照らして、しかし、どこにも階数表示が見当たらない。ふと厭な予感に襲われて、防火扉のノブを捻った。引く。
がちゃっ。
つっかえるような固い感触が手に伝わった。押しても引いても開かない。鍵が掛かっている。別の階へ移動して扉を引く。開かない。また別の階に移動して扉を引く。開かない。また別の階に移動して扉を。開かない。また別の階に移動して。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。………
昇っても降りても階数表示は見つからず、結局どの扉も開かなかった。
いや。
ただひとつ、時折現れる
8
懐中電灯の光の中に、その数字が黒く浮かび上がったのを見た瞬間、足が竦んで動けなくなった。階数表示のあるフロアなら扉が開くかもしれない。階段の外に出られるかもしれない。そう、考えなかったわけではない。
だが僕はどうしても、8階の扉に近付けなかった。
最後の同行者は、友達は、8階で消えた。
8階には何かがいる。
8階だけが現れるのは、8階にいるその何かが僕を待ち構えているからではないか―――想像すると怖ろしくなり、扉の前すら通れない。
逡巡したのも束の間のこと、僕は足早に踵を返して階段を下りた。
それから、
ホテルが建っている場所は、山と言っても低山だ。夏の蒸し暑さと無縁ではなく、じっとしているだけでもうっすら汗が滲む。動けば尚更汗を掻き、喉が渇く。階段の上り下りを繰り返す内に息が切れ、疲労のせいか足は重く、僕は次第不安になった。
休憩がてら踊り場に座り込んで、ウエストポーチの中身を探る。
500mlペットボトルに入った飲みかけのスポーツドリンク、オレンジキャンディー、携帯、携帯のモバイルバッテリー。
この閉鎖空間で役立ちそうなものは、それくらいだ。懐中電灯の電源を切り、スマートフォンを操作してみる。充電量は半分より少し多い。モバイルバッテリーも一応あるが、無駄遣いすればすぐ使えなくなるだろう。せめて節約しようと低電力モードに切り替えて、画面の明るさを下げた。
電波は、案の定『圏外』と表示されている。駄目元で親に電話を掛けたが繋がらず、画面を切り替える度、時刻表示が変化することにふと気づいて、泣き笑いのような表情が自分の顔にぎこちなく浮かんだ。現在時刻すら分からない。
ここは、外界から完全に孤立している。
待っていてもたぶん、助けは来ない。動ける内に動いて出口を探さなければ。
震える手で懐中電灯を点け、携帯を仕舞った。掌に収まる光源の小ささと安っぽさが心許ない。こちらの電池は一体いつまで保つだろう。
スポーツドリンクを少しだけ飲み、立ち上がる。体力だって有限だ。無闇に動かない方がいい。分かってはいたが不安に押し潰されそうで、どうしてもじっとしていられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます