おちる

佐藤宇佳子

おちる

【第一幕】


 あ、おちる――


 足裏を体重分だけ押し返していた力がふっと消えた。嫌なしびれが下半身を襲い、背筋に寒気が走る。次の瞬間、足、膝、そして肩が柔らかな斜面に打ちつけられ、弾み、転がり落ちていく。


 僕はそのとき六歳だった。急死したおさの葬儀の準備で大人はみんな忙しなく、都会から母と一緒に戻ってきた僕にかまっている余裕のある人なんていなかった。七人いるいとこたちはみんな年上で、伯父や伯母を手伝っているか、年の近いものどうしでかたまって遊ぶばかり。僕は庭の片隅にしゃがみ、蟻が行列を作って蝶やセミやイモムシを引いていくのをずっと観察していた。見かねたのか、近所から手伝いに来てくれていたおじいさんが山につれて行ってくれた。虫取り網と籠を手に、山の中腹の大きなクヌギの木のところへ行くと、カナブンと小さなクワガタが樹液に集まっていた。本物のクワガタに驚いている僕に、おじいさんが言った。「やっぱり朝じゃねえと、あんまりおらんのう」「朝? もっといるの?」「おう。日が昇るころに来たら、カブトムシや大きいクワガタもおるぞ」

 翌朝、少しかびくさいタオルケットの中で目を覚ました僕は、隣で眠っている母を起こさないように、静かに虫取りの準備をして家を抜け出した。

 屋敷の門を出ると、眼下に広がる海と空の狭間に桃色の雲がたなびき、そこから朝日が顔を出しているのが見えた。ざざん、ざざんと波の音がする。かぎなれない海のにおいはちょっと気持ち悪かった。

 昨日歩いた山道は難なくたどれた。クヌギの木にはおじいさんの言ったとおり、オスとメスのカブトムシ、大きなオスのクワガタ、それに金色に輝くカナブンがいた。夢中でつかみ、虫かごに入れていると、見たこともない大きくて黒い蝶がふわりと目の前を横切った。思わずかたわらに放り投げていた網をつかみ、追いかけた。蝶は木々の間を縫いながら木立の奥へと入っていく。網を振る。ひらり。もう一度。ひらり。意地になって追いかけ、こんどこそ、と大きく振りかぶったとき、足元が消えた。

 落差がさほどなく、落ちたところが枯葉や下草で柔らかかったのは幸いだった。ただ、斜面に落ちた体はその勢いのまま転がり落ちた。斜面のふもとに生えていた大きな木の幹に背中をしたたか打ち付け、僕は悲鳴をあげた。


「どしたん? 大丈夫?」

 突然上から声が降ってきた。ため息をつくような、ちょっとしゃがれた小さな声。涙と鼻水でぐちょぐちょの顔を上げると、真っ白なうりざね顔の女の人が心配そうにのぞき込んでいる。半袖の黒のワンピースから出ている二の腕も裾からのぞくふくらはぎも真っ白だった。

「もしかして、がけから落ちたん?」

 動転していたものの、女の人の落ち着いたようすが僕をすぐに落ち着かせてくれた。何より人が来てくれたことに安堵しつつ、うなずいた。

「痛いとこ、ある? 頭、打った?」

 首を振る。

「起き上がれる? 手とか、足とか、痛うない?」

 そろそろと立ち上がる。足も手も、痛くはない。ただ、右足と両手に切り傷がいくつかできて、血がにじんでいた。女の人は立ち上がった僕を見てほっとしたような顔になり、ハンカチで顔を拭いてくれた。

「見かけん子やけど、もしかして、おさの親戚? お葬式に来たん?」

「うん」

「とりあえず、うちにき。その怪我、手当しよう。そのあと、すぐ、おさの家に送ってってやるけえ」


 女の人の家は歩いて五分ほどの林の入口にあった。農機具置き場ほどの小さな一軒家だった。僕を家に上げると、傷口を水できれいに洗い、消毒して赤チンを塗ってくれた。こんな真っ赤な薬を見たのは初めてで、自分が大冒険から生還した勇者になった気分がした。

 女の人が部屋の奥に呼びかける。

かりおさの屋敷までこの子、連れてって? もう、探しよるかもしれんけえ、急いで」

 部屋の奥から現れた子を見て、僕は息をのんだ。こげ茶色の半袖のワンピースを着たすらりとした少女。肩でぷつりと切りそろえられた艶のよい黒髪、陶器のようにすべすべの肌、華奢な手足。切れ長の涼しげな目元だけがほんのり色づいているのに僕は吸い寄せられた。お姫様みたいに綺麗で、幽霊みたいにはかなげな女の子。僕よりはずいぶん大きいけど、きっとまだ子供だ。にこりともせずに、真っ白な手を差し出した。僕はおずおずとその手を取る。冷たくて、さらさらと乾いていた。

 かりと呼ばれたその子は一言もしゃべらず、女の子にしてはずいぶん速足で歩き、あっという間におさの屋敷の前についた。いとこで小学六年の洋太ようたと中学一年の龍一りゅういちが家の前で僕を見つけ、口々に罵りながら駆け寄ってきた。不機嫌な顔で龍一りゅういちが言う。

「おい、広海ひろみ、おまえ、どこ行っちょった? おばちゃんが心配しちょるぞ」

 おさの内孫である洋太ようたが僕からかりに目をやり、とたんに黙り込む。顔が赤い。僕はかりの手を握る左手に少しだけ力をこめた。

「お、おまえ、しぎの娘やな? たしか、かりって名前……」

 おさの次女の息子で別の町からやって来ていた龍一りゅういちが、怪訝な顔でかり洋太ようたを見比べる。

洋太ようたかりとかしぎとかって、誰じゃ?」

しぎはじじいのコレ。ふだんは隣町に住んじょって、じじいが呼び出したら山の家に来るん。かりはその連れ子」

 その言葉に龍一りゅういちは露骨に顔をしかめ、僕の肩を乱暴につかんだ。かりがすっと僕の手を離す。途端に、夏の熱気が僕の体を包んだ。

広海ひろみ、さっさと家に入れ。勝手に外に出んな」

 そう言うと、有無を言わさず僕の背中をぐいぐいと押して玄関をくぐらせた。一度だけちらりと振り返ると、かりの姿は道のかなたに小さくなっており、門の前でその姿を追っている洋太ようたが見えた。




【第二幕】


 自動車整備工場から帰宅すると、体に貼りつく服を引きはがすように脱ぎ、シャワーを浴びる。電話が鳴ったのは、「強」にした扇風機の前であぐらをかいてビールを飲んでいたときだった。立ち上がり、左手で受話器を取る。

「もしもし、広海ひろみ? 私、浪底なぞこ梨恵りえやけど、覚えちょる?」

 浪底なぞこといえば父の郷だ。梨恵りえ? うっすら記憶がある。頭の中のリストをめくる。

「えっと、三津みつおばちゃんのとこの梨恵りえちゃん?」

「そう!」

 声が急に大きくなる。

「あんな、八月に十三代――洋太郎じいさんの十七回忌をやるんよ。広海ひろみのお母さん、入院しちょんやろ? あんた代わりに来てよ。でさ、今回、いとこ八人全員集まるけえ、いとこ会でもしようや」

 梨恵りえは法事の日時を告げると、母を気遣う言葉を最後にあっさり電話を切った。彼女はさばさばした女の子で、ひとりっ子どうしということもあって、いとこのなかで一番馬が合った。親戚の誰とも十年近く連絡を取っていない僕に電話をする役目が彼女に回ったのは、きっとみんながそれを覚えていたからだろう。電話を切ったあと、右手に握り締めていたビール缶に気づき、あおったが、生ぬるくなったビールがひとくち口の中に落ちてきただけだった。ため息をつくと、冷蔵庫からもう一本取り出してプルタブをむしり取った。浪底なぞこになんて、もう十年以上行っていない。気が重かった。今日は晩飯はいいや。これを飲んだらもう寝てしまおう。


 その晩も、あの夢を見た。


 おちる――


 足の先から下腹部へと奇妙なしびれが一気に広がり、全身に広がっていく。しびれた体で僕はいつまでもおちていく。気持ち悪さに身をよじろうとするが、まるで金縛りのように動かない。強まるしびれに焦り、苛立つ。半泣きになりながら、眠りの渦に巻き込まれるまでひたすら耐える。


 お盆休みと有給休暇で五日間の休みをなんとか確保し、僕は父の故郷に向かった。早朝から電車を乗り継ぎ、浪底なぞこ村への最寄駅に到着したのはもう日暮れ時だった。そこから路線バスに乗り継ぐ。駅始発のバスに乗ったのは僕一人だけだった。


 「八月の金と緑の微風(そよかぜ)の中で――」と謳ったのは、立原道造だったかしらん(※)。僕にとって八月は金と緑ではなく、朱色だ。八月の声とともに一気に押し迫る晩夏の様相、すでに遅くなった日の出は初夏の黄金色からめっきり深い赤味を帯び、日の入りの空もひときわ切なげな朱を呈する。夏はいつだって駆け足で過ぎ去り、残された僕は焦燥感に悶えつつ、ほおずきのような夕日とともに、どこまでもおちていく。

 父は浪底なぞこの漁師たちを束ねる十三代目のおさの末子であり次男として生まれ、母と結婚した四年後、二十六歳の若さで海難事故にあい落命した。父亡きあと、母は二歳だった僕を連れて逃げるように家を出て、姉を頼りに上京し、関東で暮らすようになった。だから僕がその村や親類たちについてはっきりと覚えているのは、祖父である十三代のおさが急死し、母ともども呼び寄せられた六歳のときの光景だけだ。どこにいても聞こえてくる波の音、鼻につく磯のかおり。端から端まで見渡せないほど広く感じられたきらびやかな大広間。それを埋め尽くす真っ黒に日焼けした男たち、女たち。ずらりと並んだ黒塗りのお膳。顔をしかめたくなる酒のにおい、タバコのにおい。聞いたこともない卑猥な言葉。下卑た笑い声。幼稚園児の僕と小学生の梨恵りえ文香ふみかが広間の宴会を興味深げに眺めているのに気づいた伯母さんたちは、有無を言わさず僕らを連れ出し、お菓子を与えて離れに閉じ込めた。


 バスが大きく揺れた。

 浪底なぞこ村のある半島はなだらかな山がすぐ海辺まで迫っている。入り組んだ海岸線は丹念に道路で縁取られていたが、いつ舗装したともわからぬアスファルトは白けてでこぼことうねり、ところどころひび割れていた。道路沿いには廃屋が目立つ。

 バスを降りると、浪の音がしなだれかかるように押し寄せてきた。道路からやや山側に入ったところに照葉樹の斜面を大胆に切り開いた高台があり、その黒い空間におさの巨大な屋敷が黒々とそびえていた。浜を見据えるその威容を見ながら僕は首を傾げた。六歳のころに目を見張った満艦飾の絢爛さはなく、まばらに灯る黄色い灯りは、むしろ、侘しさとおどろおどろしさを掻き立てていた。


 七人のいとこたちは十四代の跡取り息子である洋太ようた以外、全員村を出て生活していた。驚いたことに、誰ももう漁業に従事していない。おさですら。十四代は十三代が亡くなってすぐの十六年前に隣町に本社を置く建設会社を興し、六十歳になろうとするいま、二十九歳の長男洋太ようたに引き継がせようとしているらしい。

 十三代の妻、つまり僕の祖母と伯父と伯母にいとこを入れた総勢十七人が七十畳敷きの大広間に会した。三人の伯母たちと十四代の三人娘、洋香ひろか洋乃ひろの千洋ちひろが準備してくれた夜のお膳を黄色く焼けた畳の上でいただくと、調子のすぐれない十四代はすぐに引っ込み、祖母と三人の伯母たちも僕たちに気を利かせたのか、姿を消した。

 洋太ようたとその姉たちがビールと焼酎につまみを持ってきて、いとこ八人で飲みはじめた。だだっ広い広間の隅はうす暗く、酒が入れば入るほど、闇が深まるように思えた。

「紹介しとくわ」

 がらんとした大広間に照れくさそうな顔の洋太ようたがつれてきた女性を見て、一瞬息が詰まった。腰まで伸びるつややかな黒髪。なよやかな柳腰。陶器のような滑らかな顔は内から照り映えるほど美しい。色白の顔は昔よりふっくらとしてほんのり桃色に染まっている。

「俺の嫁さん、かりです」

 程よく酒の回った龍一りゅういちが口笛でも吹きそうな顔になり、妹の文香ふみかに窘められる。僕は奥歯を食いしばった。

「おやじはかりとの結婚を認めん。ふたりめの子ができた今でもな。こっそり婚姻届けを出したら張り倒された。お披露目すらしてねえ。おやじがおるときには母屋にも連れてこられん。でも、俺ももう、この家を出るつもり」

 そう言いながらかりのわずかに膨らんだおなかをなでた。かりはにこにこと邪気のない顔でほほえんだ。ほほえむ? 僕には見せてくれなかった笑顔を洋太には見せるのか。眩暈がしそうだ。同時に強烈な違和感を覚えた。違う。これはあの子じゃない。

「全然知らんかったわ! おめでとう洋太ようたかりさん」

 梨恵りえ洋太ようたの背中を叩きながらさばさばと言った。皆で湿っぽい雰囲気を無理にかき乱し、夜半までひたすら飲み続けた。


 あ、おちる――


 体がしびれ、気持ち悪さに耐えきれなくなったところで、目が覚めた。時計を見る。五時だ。一度目が覚めると、かび臭いタオルケットと湿り気を帯びた敷布団、それにほこりっぽい室内の空気が気になりはじめた。もう眠るのを諦め、散歩に行くことにした。

 山のクヌギの木を見に行った。クヌギは記憶と同じ大きさでそびえ立っており、樹液で光る幹にはクワガタが三匹いた。そこから山道を下り、かつて転げ落ちた斜面を下から見上げた。こうやって見ると、ちょっと足がすくむ落差だ。あの頃は体が小さく柔らかかったから大怪我しなかったのだろう。

 そう思いながら見上げていると、かさり、と音がした。驚いて振り向くと、そこにあの日のかりがいた。こげ茶色の半袖のワンピースをまとい、触れれば崩れてしまいそうなほど華奢で、陶器のような真っ白な肌をして、にこりとも笑わずに。

かり?」

 思わずつぶやき、そんなはずはないと焦る。かりのはずはない。第一、おなかが大きくない。母親になった柔らかなほほえみはかけらもない。このかたく張りつめた雰囲気は中学生か高校生だ。ぞっとした。

「きみは、誰?」

 少女は僕を見つめたまま、口を開かない。わずかに警戒を深めるように眉が寄せられた。

「あ、ごめんね。僕は広海ひろみ浪底なぞこおさの親戚だよ。きみの名前は?」

小瑠璃こるり

「綺麗な名前だね。ここで何をしているの?」

「お母さんに会いに」

「お母さんって、もしかして、かり?」

「うん」

 ちょっと待て、かり洋太ようたのひとつ上、今は二十九歳のはずだ。

小瑠璃こるりはいくつ?」

「十五」

 かりは十四で子供を産んだの? 僕が会ったときには彼女は十三歳だった。あのとき、すでに身ごもっていたということ? 僕は小瑠璃こるりの顔を見た。かりによく似た――違う、僕の記憶の中のあの子の顔そのものだ。洋太ようたと結ばれ、幸せに頬を染めたあの女性じゃない。僕の――

 そのとき、すうっとおちるのを感じた。眠りの中ではなく、起きているときに、あのむずむずとした、心もとない気持ちを感じるのは初めてだった。たまらずしゃがみこむ。目をつぶってゆっくりと息をしていると、肩に何かが触れた。ゆっくりと顔を上げると、僕を見つめる小瑠璃こるりの顔がすぐそこにあった。


 小瑠璃こるり浪底なぞこから離れた村に住むしぎの兄夫婦の子として育てられたらしい。彼らは小瑠璃こるりを可愛がってくれたが、彼女はいつしか彼らが実の両親ではなく、ときおりやって来る若くて美しいいとこが本当の母親であることを知った。

 今年の春、中学を卒業し、住み込みで町の食堂に勤めはじめた矢先、相次いで育ての親が亡くなった。ひととおりの手続きが終わったいま、小瑠璃こるりはこの土地を離れ、もっと自由に暮らすことを決意した。

かりにそれを伝えにきたん」

 表情を動かすことなく小瑠璃こるりは告げる。

洋太ようた――かりの結婚相手は、君のことを知っているの?」

「さあ?」

「本当のお父さんは?」

 小瑠璃こるりは子供っぽい上目づかいでちろりとこちらを見た。

「もう死んだ」

「僕と同じだ。小瑠璃こるり、行くあてはあるの?」

しぎの弟が関西におる。おいちゃんに相談するつもり」

 その言葉に何かが猛然と沸き起こった。

小瑠璃こるり、僕と一緒に行こう。仕事なら、僕が探してあげる。良いところが見つかるまで、僕のアパートで一緒に暮らせばいい。ね? そうしよう?」

 小瑠璃こるりが目を見開いた。不信感をあらわにした、あけすけなまなざし。僕はにっこり笑ってみせる。

「僕の住む街なら、仕事も、ううん、望むなら勉強するところだって、いくつもある。僕がきみを守ってあげる。よく知らない大叔父さんに頭を下げるより、ゆっくり自分のやりたいことを探せるよ」

 小瑠璃こるりは無言で僕を見ていた。わずかに開いたぷくりと赤いくちびるからためいきが洩れ、小さくうなずいた。


 十七回忌を終えた晩、浪底なぞこの盆踊りがあった。浜に小さな櫓がしつらえられ、提灯でぼんやりと照らされたところに亡き十三代の妻である波子なみこを筆頭に三人のしなびた老女が坐し、震える声で唄う。隣にはいずれ十五代となる洋太ようたが坐り、太鼓を叩いている。あの廃屋だらけの村のどこから集まって来たか、三十人ほどの人々が、やぐらの周りに輪を作り、不安を掻き立てるようなのろのろとした動作で唄いに合わせ踊る。

 陰々滅々とした光景から目をそらすと、浜と道路を隔てる防波堤の向こう側にほの白い姿が目に入った。小瑠璃こるり? 思わず駆け寄った。

小瑠璃こるり、盆踊りに来たの?」

 闇に溶けてしまいそうな藍色のブラウスに白いパンツ姿の小瑠璃こるりは気負い込む僕から一歩後ずさり、涼やかな目元でにらんだ。浜に向かう生ぬるい夜風が肩でぷつりと切られた彼女の黒髪を柔らかく揺らした。僕は小瑠璃こるりの頭をなでた。

かりにはきちんと話ができた?」

「うん」

「僕は二日後にここを発つ。一緒に行ける?」

「うん」

「仕事もすぐに辞められるの?」

「……」

「よし、じゃあ、明日、僕がかけあってあげる。荷物も一緒にまとめよう」

 小瑠璃こるりの目が子供らしく見開かれる。浜の灯りが黒い瞳にうつり、きらきらと輝く。思わず彼女の真っ白な頬に手を伸ばし、そっと触れた。熱かった。




【第三幕】


 八月が終わる。どこにいても麦藁色のツクツクボウシの声が追いかけてくる。

 僕は小瑠璃こるりと暮らしはじめた。美しい小瑠璃こるりと。一週間もたたぬうちに、小瑠璃こるりは見違えるほど表情が豊かになった。相変らず口数は少ないものの、僕の言葉に瞳を輝かせ、目を細め、口角を上げて静かに笑う。赤くつやつやとしたくちびる、長いまつげが影を落とす潤んだ瞳。真っ白な四肢は子供っぽく張りつめていたが、どこかに熟れた果実のかおりを潜ませている。僕はどうしようもなく惹かれていった。

 浪底なぞこから戻った週の土曜日、仕事のあとに小瑠璃こるりを連れて母の見舞いに行った。消毒薬のにおいのむんと立ち込める病室のベッドに横たわった母は、小瑠璃こるりを見ると土気色の顔をゆがめ、僕を見た。

「お母さま、しぎを覚えてるでしょ? 同じ居酒屋で働いていたって言ってたよね? 彼女の孫の小瑠璃こるりだよ。僕がしばらく預かることになったから」

 母はしばらく口を閉ざしたまま小瑠璃こるりの顔をみていた。小瑠璃こるりはあどけない顔でぼんやりとその視線を受け止めている。母がふっと視線をそらした。かすれた声をふりしぼる。

広海ひろみ、それに小瑠璃こるりさん、あなたたちふたりが助け合って暮らすのは、良いことかもしれない。あなたたちは姉妹なのだから」

 姉妹? どういうこと? 

 小瑠璃こるりかりの娘であることはその容姿から間違いない。僕も同じく、母によく似た面立ちをしている。ということは、父親が同じなのか? たしか、小瑠璃こるりは自分の実の父親はもう死んだと言っていた。僕の父もだ。ということは僕の父が小瑠璃こるりの父? いや、僕の父が亡くなったのは僕が二歳の時だ、だから僕より七歳年下の小瑠璃こるりの父にはなりえない。

「お母さま、僕と小瑠璃こるりの父親って、誰?」

「十三代よ。おまえたちは女の子でよかった。でなければ、あの家から解放されることはなかったかもしれないね」


 その夜、僕はまた夢の中をどこまでもおちていた。虫が尾骨から脊柱を這い上るような不快感に耐え、ひたすら闇の中をどこまでもどこまでもおちていく。冷や汗をかきながら耐え続け、おかしくなりそうになったとき、闇の底にほのかに白く光るものが見えた。小瑠璃こるりの顔だ。小瑠璃こるりが僕を認め、ぷくりと赤いくちびるをかすかに緩める。それに気づいたとたん、いきなり体の束縛が解けた。左足を大きく踏ん張った勢いで、目が覚めた。体が気持ち悪く濡れていた。

 起き直ると、すぐ隣で、今見たばかりの白い顔が童女のような清らかさで眠っている。僕はそのくちびるにそっと口づけする。白い顔がゆっくりと目を開き、僕の顔を見てほほえんだ。


あ、おちる――




※  「八月の金と緑の微風(そよかぜ)の中で――」 立原道造『麦藁帽子』より

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おちる 佐藤宇佳子 @satoukako

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