おちる
佐藤宇佳子
おちる
【第一幕】
あ、おちる――
足裏を体重分だけ押し返していた力がふっと消えた。嫌なしびれが下半身を襲い、背筋に寒気が走る。次の瞬間、足、膝、そして肩が柔らかな斜面に打ちつけられ、弾み、転がり落ちていく。
僕はそのとき六歳だった。急死した
翌朝、少しかびくさいタオルケットの中で目を覚ました僕は、隣で眠っている母を起こさないように、静かに虫取りの準備をして家を抜け出した。
屋敷の門を出ると、眼下に広がる海と空の狭間に桃色の雲がたなびき、そこから朝日が顔を出しているのが見えた。ざざん、ざざんと波の音がする。かぎなれない海のにおいはちょっと気持ち悪かった。
昨日歩いた山道は難なくたどれた。クヌギの木にはおじいさんの言ったとおり、オスとメスのカブトムシ、大きなオスのクワガタ、それに金色に輝くカナブンがいた。夢中でつかみ、虫かごに入れていると、見たこともない大きくて黒い蝶がふわりと目の前を横切った。思わずかたわらに放り投げていた網をつかみ、追いかけた。蝶は木々の間を縫いながら木立の奥へと入っていく。網を振る。ひらり。もう一度。ひらり。意地になって追いかけ、こんどこそ、と大きく振りかぶったとき、足元が消えた。
落差がさほどなく、落ちたところが枯葉や下草で柔らかかったのは幸いだった。ただ、斜面に落ちた体はその勢いのまま転がり落ちた。斜面のふもとに生えていた大きな木の幹に背中をしたたか打ち付け、僕は悲鳴をあげた。
「どしたん? 大丈夫?」
突然上から声が降ってきた。ため息をつくような、ちょっとしゃがれた小さな声。涙と鼻水でぐちょぐちょの顔を上げると、真っ白なうりざね顔の女の人が心配そうにのぞき込んでいる。半袖の黒のワンピースから出ている二の腕も裾からのぞくふくらはぎも真っ白だった。
「もしかして、がけから落ちたん?」
動転していたものの、女の人の落ち着いたようすが僕をすぐに落ち着かせてくれた。何より人が来てくれたことに安堵しつつ、うなずいた。
「痛いとこ、ある? 頭、打った?」
首を振る。
「起き上がれる? 手とか、足とか、痛うない?」
そろそろと立ち上がる。足も手も、痛くはない。ただ、右足と両手に切り傷がいくつかできて、血がにじんでいた。女の人は立ち上がった僕を見てほっとしたような顔になり、ハンカチで顔を拭いてくれた。
「見かけん子やけど、もしかして、
「うん」
「とりあえず、うちにき。その怪我、手当しよう。そのあと、すぐ、
女の人の家は歩いて五分ほどの林の入口にあった。農機具置き場ほどの小さな一軒家だった。僕を家に上げると、傷口を水できれいに洗い、消毒して赤チンを塗ってくれた。こんな真っ赤な薬を見たのは初めてで、自分が大冒険から生還した勇者になった気分がした。
女の人が部屋の奥に呼びかける。
「
部屋の奥から現れた子を見て、僕は息をのんだ。こげ茶色の半袖のワンピースを着たすらりとした少女。肩でぷつりと切りそろえられた艶のよい黒髪、陶器のようにすべすべの肌、華奢な手足。切れ長の涼しげな目元だけがほんのり色づいているのに僕は吸い寄せられた。お姫様みたいに綺麗で、幽霊みたいにはかなげな女の子。僕よりはずいぶん大きいけど、きっとまだ子供だ。にこりともせずに、真っ白な手を差し出した。僕はおずおずとその手を取る。冷たくて、さらさらと乾いていた。
「おい、
「お、おまえ、
「
「
その言葉に
「
そう言うと、有無を言わさず僕の背中をぐいぐいと押して玄関をくぐらせた。一度だけちらりと振り返ると、
【第二幕】
自動車整備工場から帰宅すると、体に貼りつく服を引きはがすように脱ぎ、シャワーを浴びる。電話が鳴ったのは、「強」にした扇風機の前であぐらをかいてビールを飲んでいたときだった。立ち上がり、左手で受話器を取る。
「もしもし、
「えっと、
「そう!」
声が急に大きくなる。
「あんな、八月に十三代――洋太郎じいさんの十七回忌をやるんよ。
その晩も、あの夢を見た。
おちる――
足の先から下腹部へと奇妙なしびれが一気に広がり、全身に広がっていく。しびれた体で僕はいつまでもおちていく。気持ち悪さに身をよじろうとするが、まるで金縛りのように動かない。強まるしびれに焦り、苛立つ。半泣きになりながら、眠りの渦に巻き込まれるまでひたすら耐える。
お盆休みと有給休暇で五日間の休みをなんとか確保し、僕は父の故郷に向かった。早朝から電車を乗り継ぎ、
「八月の金と緑の微風(そよかぜ)の中で――」と謳ったのは、立原道造だったかしらん(※)。僕にとって八月は金と緑ではなく、朱色だ。八月の声とともに一気に押し迫る晩夏の様相、すでに遅くなった日の出は初夏の黄金色からめっきり深い赤味を帯び、日の入りの空もひときわ切なげな朱を呈する。夏はいつだって駆け足で過ぎ去り、残された僕は焦燥感に悶えつつ、ほおずきのような夕日とともに、どこまでもおちていく。
父は
バスが大きく揺れた。
バスを降りると、浪の音がしなだれかかるように押し寄せてきた。道路からやや山側に入ったところに照葉樹の斜面を大胆に切り開いた高台があり、その黒い空間に
七人のいとこたちは十四代の跡取り息子である
十三代の妻、つまり僕の祖母と伯父と伯母にいとこを入れた総勢十七人が七十畳敷きの大広間に会した。三人の伯母たちと十四代の三人娘、
「紹介しとくわ」
がらんとした大広間に照れくさそうな顔の
「俺の嫁さん、
程よく酒の回った
「おやじは
そう言いながら
「全然知らんかったわ! おめでとう
あ、おちる――
体がしびれ、気持ち悪さに耐えきれなくなったところで、目が覚めた。時計を見る。五時だ。一度目が覚めると、かび臭いタオルケットと湿り気を帯びた敷布団、それにほこりっぽい室内の空気が気になりはじめた。もう眠るのを諦め、散歩に行くことにした。
山のクヌギの木を見に行った。クヌギは記憶と同じ大きさでそびえ立っており、樹液で光る幹にはクワガタが三匹いた。そこから山道を下り、かつて転げ落ちた斜面を下から見上げた。こうやって見ると、ちょっと足がすくむ落差だ。あの頃は体が小さく柔らかかったから大怪我しなかったのだろう。
そう思いながら見上げていると、かさり、と音がした。驚いて振り向くと、そこにあの日の
「
思わずつぶやき、そんなはずはないと焦る。
「きみは、誰?」
少女は僕を見つめたまま、口を開かない。わずかに警戒を深めるように眉が寄せられた。
「あ、ごめんね。僕は
「
「綺麗な名前だね。ここで何をしているの?」
「お母さんに会いに」
「お母さんって、もしかして、
「うん」
ちょっと待て、
「
「十五」
そのとき、すうっとおちるのを感じた。眠りの中ではなく、起きているときに、あのむずむずとした、心もとない気持ちを感じるのは初めてだった。たまらずしゃがみこむ。目をつぶってゆっくりと息をしていると、肩に何かが触れた。ゆっくりと顔を上げると、僕を見つめる
今年の春、中学を卒業し、住み込みで町の食堂に勤めはじめた矢先、相次いで育ての親が亡くなった。ひととおりの手続きが終わったいま、
「
表情を動かすことなく
「
「さあ?」
「本当のお父さんは?」
「もう死んだ」
「僕と同じだ。
「
その言葉に何かが猛然と沸き起こった。
「
「僕の住む街なら、仕事も、ううん、望むなら勉強するところだって、いくつもある。僕がきみを守ってあげる。よく知らない大叔父さんに頭を下げるより、ゆっくり自分のやりたいことを探せるよ」
十七回忌を終えた晩、
陰々滅々とした光景から目をそらすと、浜と道路を隔てる防波堤の向こう側にほの白い姿が目に入った。
「
闇に溶けてしまいそうな藍色のブラウスに白いパンツ姿の
「
「うん」
「僕は二日後にここを発つ。一緒に行ける?」
「うん」
「仕事もすぐに辞められるの?」
「……」
「よし、じゃあ、明日、僕がかけあってあげる。荷物も一緒にまとめよう」
【第三幕】
八月が終わる。どこにいても麦藁色のツクツクボウシの声が追いかけてくる。
僕は
「お母さま、
母はしばらく口を閉ざしたまま
「
姉妹? どういうこと?
「お母さま、僕と
「十三代よ。おまえたちは女の子でよかった。でなければ、あの家から解放されることはなかったかもしれないね」
その夜、僕はまた夢の中をどこまでもおちていた。虫が尾骨から脊柱を這い上るような不快感に耐え、ひたすら闇の中をどこまでもどこまでもおちていく。冷や汗をかきながら耐え続け、おかしくなりそうになったとき、闇の底にほのかに白く光るものが見えた。
起き直ると、すぐ隣で、今見たばかりの白い顔が童女のような清らかさで眠っている。僕はそのくちびるにそっと口づけする。白い顔がゆっくりと目を開き、僕の顔を見てほほえんだ。
あ、おちる――
※ 「八月の金と緑の微風(そよかぜ)の中で――」 立原道造『麦藁帽子』より
おちる 佐藤宇佳子 @satoukako
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます