リード

壱原 一

 

街中でハンカチを落とされた男性に落ちたハンカチを拾って差し上げました。男性はとても感謝してくださって、お礼に是非とお茶へお誘いくださいました。


過分なお心遣いに恐縮して、お気持ちだけ有難く頂戴するに留めました。


誰しも帰宅を急ぐ時間帯でしたし、通りすがるついでにごく軽い気持ちで行なったまでのことでしたから、わざわざ足をお止めしてしまい却って申し訳なく感じたくらいでした。


男性は背が高くなよやかで色の白い方でした。お仕事終わりの時分にスーツもシャツも皺ひとつなく、宵の口にも眩しいほど爽やかな笑みを浮かべておられました。


目元が均一に細められ、口角が高らかに保たれていました。肩から背中の稜線が、なにか漲る気迫のようなものにほんのりと聳やかされていました。


そうしたご様子の端々から、たいへん真面目で几帳面で一途で熱心で真剣な方のようだと何となしに拝察しました。


翌日拙宅のポストに手紙が入っていました。


先方の詳らかな個人情報と「あなたのように心の綺麗な方の犬になりたい」という旨が繊細な筆致で認められていました。


一糸まとわぬ姿で首輪を嵌めて四つん這いになりリードを口に咥えて恥ずかしそうに差し掲げたお写真が添えられていました。


翌日未明に拙宅のインターフォンが鳴りました。


液晶画面には、夜明け前の通りで外灯を受けて目を光らせ首輪を嵌めてリードを口に咥え落ち着かなげにレンズへ迫る近影が剥き出しの胸元まで映し出されていました。


そわそわ辺りを見回して人目を憚る仕草と共に後ろへ下がってゆかれ、液晶画面が消える寸前に画面内へ全身が収まりました。


服を身に着けておられないようでした。


翌日夜に拙宅の玄関のドアが鳴りました。


共用廊下に面した浴室で浴槽へ浸かっている最中に、浴室に隣接する玄関のドアがさりさりがたがたと音を立てるのを聞き付けました。


ざらついたドアの表面の中ほどに複数の小さく硬い物を押し当てて素早く下へ滑らせる動きが繰り返されている音でした。


浴室の小さな換気窓越しに、大型の生き物が盛んに身動ぎして騒がしく呼吸する音も聞こえました。


それはまるで飼い主がドアを開け迎え入れてくれる瞬間を待ち侘びる犬が、興奮して忙しく足踏みしながら前足でドアを引っ掻いている音のようでした。


息を潜めてドアスコープを覗くと、人の頭の頂がもぞもぞ動いているのが見えました。


翌日から漫画喫茶やビジネスホテルを泊まり歩きました。


泊まり歩きはじめて数日後スマートフォンに着信があり伝言が録音されていました。


録音データには、通話口のマイクが風圧や摩擦に晒されるごそごそと耳障りな雑音に続いて、鼻にかかった細く高い声が長短や間隔を不規則に延々と吹き込まれていました。


くんくんくん、くうーん、くううーん、くん、くうん、くううーん…


成人した男性が発達した喉に力を込めて強引に発する、ところどころが裏返ったり掠れたりしている声でした。


自分の愛らしさを疑わず、これを聞いた相手はきっと心を揺さ振られて自分を可愛がらずにはいられまいと確信している風情がまざまざと窺われる声でした。


翌日荷物を取りに帰宅した拙宅のベッドの上に首輪とリードが置いてあるのを見て、特殊な業者さんを利用し即日引っ越しました。


翌日新居で目覚めたとき、とても清々しく頭がすっきりしていました。トーストと卵とベーコンを焼き、珈琲を淹れて、ゆっくり楽しみました。


努めて冷静に取り乱さないよう過ごしてきましたが、やはり本心では緊張して、疲れていたのだと思います。


警察署へ出掛ける支度をして玄関のドアを開けようとすると動きませんでした。


ドアノブは正常に動かせましたが、扉が重い物に妨げられて押せませんでした。


肩に全体重を乗せて漸く設けた隙間を覗くと、扉に寄りかかって座り込み項垂れておられました。


素裸で、首輪を嵌めて、真っ赤なリードが何重にも輪を作っていました。


*


思い出してぼんやりとしていると、心配させてしまったようで労しげな声を掛けられました。


控えめに膝に手を乗せて、散歩へ行こうと誘ってくれます。


舌を垂らして、お尻を振って、くんくん鳴いて、本当にかわいい。


あの頃は犬を飼うなんて考えられもしませんでしたが、今はこれ以上の幸せを望むべくもないと感じます。


思わず微笑んで、優しく撫でてあげてます。


お気に入りのハンカチと、色褪せたリードを取りに向かいます。



終.

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リード 壱原 一 @Hajime1HARA

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