王宮の片隅で 〜弦に込めたその想い〜

まぁじんこぉる

王宮の片隅で 〜弦に込めたその想い〜

 月の淡い光が私の指を静かに照らす。まるで透明な絹のような、繊細で、柔らかなその光が、私を優しく包み込む。しかしチェンバロの白鍵は、その月明かりを冷たくはじき、となりの黒鍵がそれをじっと眺めている。


 ニスで仕上げられた胡桃くるみの天板は、月の光を力強く受け止めると、それは微かな輝きをたたえ、まるで星空のように美しく輝いている。


 そんな静寂に満たされた空間に私はいた。蝋燭ろうそくの炎がわずかに揺れ、それに合わせるかのように影がダンスを踊っている。そんな部屋に私はいたのだ。そしてそこは、かすかな蝋の香りで覆われていて、それが私に少しの安らぎを与えてくれている。


「せっかくの機会なんだし、もう少し頑張らないと、ね」


 誰に聞かせるわけでもない、そんな独り言を私はつぶやいた。そして、視線を指元から楽譜に移す。すると楽譜は蝋燭ろうそくに照らされて、淡い黄色の輝きをみせる。紙の端がわずかに巻きこまれ、インクの香りが鼻腔びこうをかすかにくすぐってゆく。


 明日、王宮で行われるのは、月に一度の演奏会。下賤げせんの私が王宮に入ることのできる、ただ一つの機会。本来は王族が音楽を楽しむ月に一度の演奏会。でも、私は、私の目的は……。もちろん、私の音楽は国王陛下や王族の皆さまのもので、それを捧げるのは臣民として当たり前のことなんだけど……。でも、明日は……、私が、私の音楽を聴いて欲しいのは……。


 そんな割り切れないモヤモヤとした気持ちを抱いて、私は視線を天井に移す、そして瞳をゆっくりと閉じる。その瞬間、脳裏に浮かぶのは、近衛兵団に所属する一人の男性。


 もちろん、その方は、王様の近くにいるような立派な人ではない。爵位持ちの貴族でもなければ、貴族であることさえわからない男性だ。それでも、いや、だからこそ、私の心は高まるのだし、だからこそ、届くのかもしれないと思ってしまうのかもしれない。


 それにしても、今度の曲、エリオールさまは気に入ってくれるのかしら? 今の私の心を満たしていた感情は、そんな気持ちであった……。


 すると自然に脳裏に浮かんでくるあの日の思い出。初めて王宮で演奏することを許されたあの日のこと。下賤げせんの身でありながら、私ごときが、あの演奏会でチェンバロを弾くことを許された、忘れることができないあの日のこと……。


 あの日、私は、全身緊張でガチガチだったことを覚えている。どうして自分なんかに、こんな不相応な機会が与えられたのか、そんなことを考えながら王宮を歩いていたのを覚えている。心を震わせながら、ただ漠然と王宮を歩いていたことを覚えている。そして、楽譜を持つ手は震え、足取りさえおぼつかなかったことを、私は全部が全部覚えていたのだ。


 だって、そんな時、そんな私に声をかけてくれたのがエリオールさまだったから……。


 雄々しい甲冑かっちゅうに身を包んでいたものの、その顔を笑顔で満たし、って、その表現は、おかしいかな? だって私は、エリオールさまに「大丈夫ですか?」と声をかけられるまで、そのお顔を見ることさえできなかったんだもの……。


 でも、そのエリオールさまの一言は、私にとっては、どんな宝石よりも輝いて、温かくって……。だって、私、男の人からこんな優しく声をかけられたことなんてなかったし、そのあと、待合室までエスコートしてくれたなんて、まるで夢のような時間であったのだし……。


 しかし、その柔らかな表情は、深い青色の瞳には優しさが宿した表情が、茶色の髪が額にかかったその凛々りりしい表情は、私に、大きな勇気を与えてくれたのだから……。その勇気があったからこそ、私は演奏会で成功を収めることができたのだし、月一回、定例で行われる演奏会にも毎回呼ばれるようになったのだから……。つまり、こんな栄誉をいただけたのも、全部が全部、エリオールさまのおかげ。


 でも、幸せだったのはこれだけじゃない。それ以降、この演奏会の機会だけ、王宮に入ることができるようになった私を、エリオールさまはずっとエスコートしてくれた。


 そしてエリオールさまは、そんな王宮に働く人の中で、控えめでありながら、確かな存在感を放っていた。


 そう、その言葉は簡潔だったけれど、そこには確かな重みがあったし、それは私の心に深く響いたのだから……。そして、時折、私に見せてくれるその微笑みは、太陽の光のように優しく、私の不安をいつも払拭ふっしょくしてくれたのだから……。


 だから、だからこそ、今回だけは、この一曲だけはエリオールさまに捧げたい。この一曲だけは、国王陛下や王族の皆様ではなく、ただ、エリオールさまに聞いていただきたい。その曲のせいで、私が来月から演奏会に呼ばれなくなっても構わない。


 だってこの曲は、私の想いをぎゅっとこめて作った曲なんだから……、だから、この曲がエリオールさまに届いた時に、私は、私は……。


 そんな決意で心を満たし、おもむろに鍵盤を叩く。すると空気を貫くような、厳しくて、張り詰めた弦の音。チェンバロが奏でる、緊張感に満たされた調べ。まるで私の心の全てを映しているかのよう……。


「ダメダメ、こんな音は、あの人には似合わない」


 私は、おもむろに、胸下まで伸びたブロンドの髪にゆっくりと手くしを通す。月明りがその髪を優しく照らし、ほのかな輝きをそっとそえる。そんな光の欠片をみた私は、思わずふふっと笑う。その瞬間、心が少しだけ軽くなる。


「そうね。最後のチャンスになるかもしれないんだもの。もう少し、がんばらないとね」


 心の中の決意を言葉で口から吐き出すと、私は、静かに、その指を鍵盤に伸ばす。指先が冷たい鍵に触れた瞬間、その音は小さな震えを持つ。私は苦笑いをして、深呼吸をする。夜の静けさに自分の心を素直に預けてみせる。


 そして、そんな部屋の空気と一体になることを選んだ私は、もう一度、その指を鍵盤に伸ばす。すると今度は空気を優しく揺らす音。チェンバロ特有の、鋭いけれども繊細で、優しい音色。


 弦を弾く小さなハンマーの感覚が、私の指先にじっとりと伝わってくる。私は、その一音一音と向き合い、そこに想いをのせ、会話をするようにその音楽を楽しんでゆく。まるで夜空を流れる流星のように、瞬間またたいて、流れて消えてゆく。そんな音の輝きを創り上げてゆく……。


 しかし、その余韻は長く、部屋中に、私の心に深く、深く刻みこまれていく。


 窓の外では、夜風が木々を優しく揺らす。葉擦れの音がかすかに私の耳に聞こえてくる。それはまるで、自然が奏でる伴奏のように、私のチェンバロと自然に溶け合い、夜の静寂の中で、美しいハーモニーを生み出してゆく。


 その瞬間、私は、なんとなく状況を理解する。この後、納得することなく、朝までチェンバロを引き続けるであろう自分を、確信をめいた何かをもって、理解をする。


 そう、今夜の演奏は、終わりではなく、新しい何かの始まりなのだと、私はそう確信していたのだから……。であるのなら、新しい朝陽を持って、新しい希望を持って、私の演奏はおわるべきものなのだから……。


 この音楽が、私の心を自由にしてくれると信じて。身分を超え、夢をかなえてくれるものだと信じて。そう、この音楽こそが、私の未来を切り開く鍵なのだと信じて……。


 蝋燭ろうそくの明かりが、部屋の中の影を再び揺らす。そんな中、私はただ曲を奏で続けている。


 明日の演奏会、私がこの曲を披露する時、きっと何かが変わる。そして、それが私の未来を変える。そう信じて、私は音楽を紡ぎ続ける。夜明けとともに、訪れる新たな楽章が希望に満ちていることを、ただ、それを信じて……。

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