暗室

煙 亜月

暗室

「コウ」

「ん?」僕は声のした先生の方を振り向くと急に部屋が真っ暗になった。「ええ?」

「その、なんていうか——その、恥ずかしいんよ、大人だって」

「なんで? おれも恥ずかしいんか緊張しとんかなんかでもう吐きそうなんだけど」


 森なつみ――コウのクラスの副担任はふふ、と笑って「じゃあ、リラクゼーションにあたしがお風呂入れてあげよっか? その、電気は消すけどさ」といった。顔は目視でうかがえなかったものの、きっと悪童のような顔をしているだろう。

「い、いやそれこそ大問題、大問題。そんなことしてもし——」

「もし? もし、なあに? 自我が保てなくなるとか?」

 悔しいが当たっているので下を向く。

「そんな自信たっぷりのなっちゃんはどうなの?」

 コウにそう問われた森なつみは少し間をおいて、「あたしも——襲っちゃうかも」とぽつり、といった。その声は耳元のずいぶんと近くで、コウの耳朶に甘く吐息がかかるほどの距離だった。「コウは特別。何もかも特別。あたしも教員やっててこんな、こんなこと想定してなかったし——信じらんないくらいどきどきしてる。正直いうと心臓とか吐きだしそう。でも——コウなら、いい」

 ――ぐび。

 コウは生唾を飲み込む音がなつみに聴こえまいかと危惧した。でも、これは「自分だけのもの」でもないんじゃないか。


 二人の距離はすでにゼロより深い、マイナスとまでなるまでキスを重ねていた。そんな経験どころか恋人を作った経験もすらないコウにしてみれば自分がいつ失神しても不思議でもなんでもなかった。


 ――甘い。

 せんせ――いや、なつみの唾液が甘い。


 ものの本で読んだことがある。自分を好いている者とキスをすると甘く感じられる、と。たしかそんな検証も実証もできない三文記事だったが、今はすべてにおいて支持しようとコウは決めた。背中に回された手はあくまで細く、か弱い。剣道場で竹刀を振るう以外に取柄のない自分が扱ったら確実に壊してしまいそうな、そんな危うい手掌、指、爪。なつみはくちびるを離し、暗順応しかけてきた目でアイコンタクトをとる。


 それにしてもなんで俺なんだ? 本当に剣道バカで女子にはもちろん、男子にもあまりいい評判は聞かない。そして――森なつみだ。二十六歳で今年二十七。カードキー式のマンションに住み、彼氏はいないがロシアンブルーを飼っている。好きな食べ物はボンタンアメ。苦手な男性のタイプは肉食系。ちなみに年中長袖。

 ――と、噂されている。本当のところは誰も何も知らないし訊くだけの雰囲気でもなかった。まあ、近寄りがたい美女というかそんな類のものだ。


 脳みそがとろけていくような感覚に支配され、コウはなつみの背に回す自分の手の力が強すぎたことにも無自覚だった。「ちょっと、コウ。苦しい」

「あ、ご、ごめん。つい」

 なつみはまたもふふ、と頬笑み、「いいんよ、初めてだと加減が分からんもんなあ」と耳元で吐息のかかる距離でいい、思い切り耳介に噛みついた。

「あぎっぃ」声にならない声を出したコウはしかし、痛覚と同時に興奮が高まるのも感じた。なつみの手が下に伸びる。「へえ、耳弱いんだ。反応、してるね」

「いや、でも、これは」

 なつみはコウの服を脱がしにかかった。「なんかおばさんっぽくてやな表現だけど、いい体してる」

「そりゃあ、まあ、剣道三段だし」と、益体もないことを自信たっぷりに答えた。


 男女の前身頃のボタンが左右逆なのには諸説あるが、向かいあったときに脱がしやすいという説をコウは採るべきだと確信した。コウはなつみのブラウスのボタンを、なつみはコウのワイシャツのボタンをそれぞれ外してゆく。「ねえ、なっちゃん」

「なあに、コウ? 目はもう大体慣れたでしょ?」コウの目の前でスリップやペチコートを脱いでゆくなつみ。あとはブラとショーツだけだ。コウもコウでロングボクサーブリーフだけとなった。「なんで俺なの?」

「それ、いま訊く?」なつみは少し前屈みとなってブラを取る。

 コウは最後の一枚であるパンツをなかなか脱げずにいた。羞恥心だろうか。なつみはコウのまえに膝立ちとなり、一気にパンツを脱がす。

「まあ——その、大きいね、コウのは」

 それを聞いたコウは男性特有の妙な自尊心が満たされるのを感じた。

「そ、そうかな。まあでも比べたこともないし、よくわかんないん——う!」

 何の脈絡もなく口で愛撫されたコウは屁っ放り腰となり、「ちょ、ちょ、シャワー浴びてから、そういうのはシャワー浴びてからにしようよ、ね?」

「あ、嫌だった?」

「そんなことないけど、今日もめっちゃ稽古したし」

「じゃあ――すそわきが、って知ってる?」

「すそわきが?」

「うん。脇の下じゃなくて股間がやたら臭いひと」

「あっ、ご、ごめん」

 コウは後じさりしてラブソファに掛ける。というかつまづいてひっくり返る。隣になつみも楚々と座る。合成皮革の、独特のぎゅい、という音がふたりの体重でこと大きく響く。体重移動の都度、ぎゅい、ぎゅい、と音を立てた。

「もう、違うわよ。コウはなんの匂いもしないよ。しいていえば少し甘いくらい」

「甘い?」

「先走りが」

「そっ――それは」

「お湯、ためるから。一緒に入ろう? だからその前に洗いっこしよう。だから——ショーツ、脱がしてくれる?」

 ショーツというべきか何というべきか、その形状はただのTバックなのだが、立っているなつみにひざまずいてそれを脱がすとき、コウはどぎまぎしながらも我を失わないようにするのに精いっぱいだった。なつみに毛が生えていなかったのも、それを声に出すいとまもなかった。


「ねえ、なっちゃん」

「うん?」

「さすがにお風呂で電気つけないの、危なくね?

「うーん、うん。そうかもね」

 なつみはバスタブの方へ歩き、ボタンを押す。するとバスタブの底部が青く光りだし、最低限の明るさは確保された。「なんか」

「うん?」

「なっちゃんって、慣れてる?」

 なつみは顎を挙げてころころと笑い、「そりゃそうよ。コウより一〇年近く長生きしてるんだもん。コウの知らないこと、いっぱい知ってるよ。とりあえずは、そうね。そこのマットに行って」と、プールで見るようなマットを指差した。「そう、うつ伏せで」

「これは俺でも知ってる。ソー――ひゃっ!」

 知っていても、知らないものの代表格。自分がうつぶせになり、ボディソープまみれの状態で女性が上に覆いかぶさること。手、乳房、脚、おなか、それらがない交ぜとなり完全に一体感を得てぬるぬると、なつみの身体のすべてが舌になったかのような愛撫だ。

「あ——」

「え。もしかして」

「う、うん。いっちゃった」

「あはは、じゃあ、洗いっこはおしまい。お風呂にしましょ。あ、精液は完全に流してね」


 なつみはアメニティのバスソルトや入浴剤、さらにはボディソープもポンプ部分を外してどぼどぼとバスタブに投じる。「泡風呂だ」

「そうね。泡風呂ね」

 なつみは先に湯に入り、うーん、と腕を上へ思い切り伸ばす。

「じゃ、じゃあ、失礼します」

「もう、なんで今さら敬語なん?」

「今のは入湯税だよ」

「へえ?」

「これからは」

「うん」

「俺がなっちゃんのこと、なっちゃんが思うよりずっと好きだって証明する時間」

「――そんなセリフいって、照れたりしないの?」

「うん、ぜんぜん――がぷっ」

 湯を大きく揺らして抱き着いてきたなつみに沈められそうになる。「ちょっと、溺れるから」なおも抱擁を繰り返すなつみの気配からあるものを感じ取った。

「なっちゃん――泣いてる?」


 身体もシャワーで洗い流し、バスローブ姿となる。濡れてしまわないようにタオルで巻き上げた髪を、なつみがドライヤーで乾かしている間にも彼女が泣いている気配がした。

「なっちゃん」暗がりに問いかける。「邪推だろうけど、俺はこれまでの男とは違うから。高専出たら、一緒になろうよ」

「――電気、全部消すね」

「でも、それだとゴム着けるとき――」

「ピル、飲んでるんだ、あたし。詳しい説明は省くけど、おもちゃだったの。だから、飲んでる」

 かち、とドライヤーのスイッチを切る音がした。光も何もない。将来性も確実性もないかもしれない。ただあるのは、ふたりとも好き合っているというだけ。それをふたりとも疑いもせず信じ合っているだけ。

 想いを伝える手段は様々だ。相手が自分のことを好いていて、自分も相手に夢中であることを信じて疑わなかったら、その想いは光よりも速く伝わっているのではないだろうか。


 荒い呼吸が互いの顔にかかるのも構わず、むさぼりあった。なつみが生徒を好きになったのも初めてだったし、コウも女性と肌を重ねること自体、初めてだった。

「ちょっと暗いかな――でも練習はしてきたし——」 

 コウはヘッドボードのパネルの横、コンドームがディスプレイしてあるあたりを手探りで探した。部屋に入ってすぐに視界に入ってきたのでおおよその見当はついていたし、こういうホテルには必ず置いてあるというシンプルな知識も持っていたからだ。

「コウ、いいの。そのままでいいのに」

「で、でもそんな、女性をないがしろにするようなこと、俺は絶対にできない」

「女性?」

「え? ああ、うん——いっ」肩口に歯を立てられる。

「女性って誰? 今ここにいるのはあたしとコウだけでしょ? 女性はひとりだけじゃない。的を絞って話そうよ」

「わ、分かった、分かったから、い、痛いよ」

「なら、いい」

 

 ふとした拍子だ。ほんのすこし手元が狂っただけだ。コウがコンドームを操作パネルの横に戻そうとしたとき、照明を全灯にしてしまった。しかも、なつみがヘッドボードに置いたエヴィアンを取ろうと身をよじった時だった。

「えっ」


 昇り龍。般若。雷神と風神。鎧兜姿の武者像。


「あ——見ちゃったかあ。なんというか、ごめんね、コウ。あたしもさ、そこからは逃げてきたんだけど背中のこればっかりは剥がすわけにもいかなくてさ。騙すつもりはなかったんだけど——あの、話聞いてる? なんでそんな——お元気なわけ?」

「い、いや。ちょっと怖いことは怖いけど——学校の噂話にある滅茶苦茶に虐待されてむごたらしい傷跡があるってよりかはまだ大丈夫かな、って」

「これも死ぬほど痛かったんだよ?」

「じゃ、じゃあ」

「じゃあ?」

「ひとつになって、一緒になろう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

暗室 煙 亜月 @reunionest

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ