第4話
冷え切ってしまったポタージュスープを鍋ごと冷蔵庫に突っ込んだ時、スマホが震えた。
溜息と共に視線を投げると、案の定、夫からのメッセージだった。
『急な打ち合わせが入って、帰るのが遅くなる。ごはんは先に食べていて』
いわれずとも、とっくに食べ終わってしまった。
『ごめん、今日は早く帰るって言ったのに』
間を置かずに送られてきた短い謝罪を、鼻で嗤って追いやる。
昨日あんなに穏やかな気持ちでいた自分が馬鹿馬鹿しい。あの男が己のプライドを護るため以外に約束を守ったことなど、一度だってないではないか。
浮かれて好物のポタージュなど作ってしまったことに腹が立った。仕方がないではないか。中身がどれほど屑であったとしても、私はあの物憂げで美しい顔が好きなのだ。そしてそれは私以外の女にとっても堪らなく魅力的に映ることを、私も夫も知っている。今日もどの香水の相手かは知らないが、誘蛾灯のように女を纏わり付かせてうろついているのだろう。
読みかけの本を片手にベッドに寝転び、サイドボードに置きっぱなしにしていた桐の箱に気付いた。
祖母のノートを取り出し、そしてふと、その下に納められていた毛皮に触れた。
薄紙を剥ぐると、柔らかなチョコレート色の美しい毛並みが露わになる。クリーム色の横縞と、不規則に申し訳程度に散った白い点が優しげだった。子鹿の毛皮だろうか。
そっと持ち上げて広げてみると、小さな枕カバーのようだった。
「ああ」
ノートを広げて、私は薄く微笑んだ。
きっと獏の皮の枕覆いを再現した物なのだろう。うり坊みたいな柄は、獏の子どもの皮のはずだ。本物かどうかは知る術がない。本物が手に入らなくて、比較的入手しやすい子鹿の革で作ったのかもしれない。大切なのは、それが『獏の皮』だと名付けることだ。
私は自分の枕を取り上げる。
祖母もこれを使って、安眠を得ていたのだろう。
いつもの枕カバーを取り外そうとして、ふと手が止まった。
あの祖母が、そんなことをするだろうか。
もう片手で、ぱらりとノートを捲る。
獏の枕覆いは、良い夢も、悪い夢も増幅させる。
使い方を誤らぬように、と書いてあったはずだ。
天日に干さずにおいた夢は、熟成されて悪臭を放ち、持ち主に再び吸収される。それが、枕覆いで促進されたら、どうなるのか。
私はホラー小説の表紙を掌で撫でる。寝落ちした私が悪夢を見るのは、これが枕のそばにあったからだ。
枕の下に、宝船の絵を忍ばせると良い夢が見られる。
小説のページをぱらぱらと捲る。陰鬱な世界が私の視界を通り過ぎていく。それは黒くて細かい文字の列に過ぎない。網膜の上で文字は虫のごとくに蠢き、蟠った虫たちは凝ってうねり、蠕動しながら視神経を伝って脳に入り込む。それは脳の襞の合間を這い進み、頭蓋がぬるりとした文字の闇で覆われていく。
指先が、獏の毛皮を逆立てる。ぬっとりと毛を捻り、苛み、嬲る。
唇を舐めて、私は夫の枕を手に取った。
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