第7話
夫は、何も判らぬ呆けた顔で、朝日を浴びて美しく座っている。
祖母にとっては美しい祖父が、起きてなお見ることのできる夢だった。
それを奪われるのならば、永遠にしてしまおう。そう思ったに違いないと今なら判る。何の反応も示さず佇んでいるだけなのに、だからこそ、夫はとても綺麗だった。
私は破れそうに張り詰めた枕を抱いた。
獏の枕覆いの下で、たくさんの何かが蠕動している。今にも皮を裂いて飛びだそうとでもいうように、それらはチョコレート色の表皮を下から押し上げる。
晩年の祖父は、腑抜けたようになった挙げ句に亡くなったと聞く。
おそらく、夫と同じ状態だったのではないだろうか。
悪夢が逆流したのか、悪夢に取り込まれたのか。どちらでもかまいはしない。
夫の額に口づけて、私は枕を干しにベランダへと向かう。
明るく暖かな日向に、枕を置く。
夫の悪夢を吸って、すくすくと、枕が育つ。
私は、幼子をあやすみたいに、枕を撫でる。
びくり、と枕が、胎動のように幾度も痙攣した。
ぐずり、と破れ目が産まれて、白い手が滴る。
音にならない悲鳴が、聞こえた気がした。
空気が震えて、私はへたり込む。
裂け目から迸った数多の白い手が、戦慄きながら私に向かってくる。
ひ、と喉が鳴り、私は覚束ない手でスマホを探す。ポケットの中で探り当てたスマホは、振動していた。母だ。
「母さん!」
「あらあ、どうした」
呑気な母の声は、小さな機械の向こうで、嗤っているようだった。
「助けて」
幾本もの手が、私に取りすがる。枕が転がり落ちて、私の足元で暴れた。次から次へと這い出す腕が、脚に、腹に、胸に、首に爪を立てる。
母を呼ぼうと開いた口をこじ開けて、白く蠢く手が流れ込んでくる。我先に、逃げ場を探すみたいに。
「あんた、最後までおばあちゃんのノートを読んでなかったでしょ」
くぐもった私の悲鳴に重なって、何かが叫びをあげている。
「その枕覆い、子供の皮なのよ、獏の」
断末魔に似た声は、音無き音で空気を揺るがす。
「大人の獏は夢を喰らうけど、子供は、一度にたくさんの夢は消化できないの」
喉の内側を大量の爪と指に掻き毟られて、息ができない。唇の端を伝うのは、涎か血か判然としない。
「消化されない夢は、吐き戻される。おばあちゃんも、そう書いてたでしょ」
ごぼりと喉が鳴った。呼吸が熱くて息が詰まる。
「詰め込みすぎると、破れるわよ。それで、破れそうになるとねえ」
ぼろぼろになった枕が、出鱈目に床を跳ね回っていた。
「生きてるのよ、その皮。だから、破れそうになったら、叫ぶでしょ、今みたいに」
ぎいいい、と空気が軋んでいる気がする。でも、それは、喉を突き破られる私の悲鳴かもしれない。
「そうすると、どうなると思う。見つかるのよ、その子の親に」
ああ、だから、この白いものたちは、逃げているのか。必死で枕から飛び出して、暗闇に逃げ込もうと、私の中に。
目の端から潜り込んだ手が、目玉を押し込んでいく。
耳の奥が、頭が壊れそうなほど騒がしい。
「親の獏が来たら、悪夢は食われるのよ」
枕にいっぱいに詰まっていた悪夢は今ここに、いるではないか。心臓が乱打している胸を、ぎゅっと掴む。
「あんたのお父さんみたいにね」
頭蓋の中を、何かが這い回る。
腹が内側から、ぼこり、と突き上げられた。
「今から行くわね。間に合わないだろうけど。でも、あの子は無事でしょ」
母が、甘い声で夫の名を口にした気がするが、もう何も聞こえない。
どくん、と私の臍がこじ開けられ、真っ白な手が束になって明るい空に向かって屹立する。
まるで、迫り来るものに向かって、ここにいると言わんばかりにゆらゆらと、手を振るみたいに。
悪夢を孕んでいたのは、私だったのかもしれない。
夢枕 中村ハル @halnakamura
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