第3話
夕方、帰りが遅くなるという夫からの電話につい、嬉しそうな声が出てしまった。私が朝から機嫌がよかったものだから、夫は何かを感じたのだろう。帰りが遅いことなど、今に始まったわけではないではないか。昨日見つけたノートを、早く読みたいのだ。適当に切り上げようとした私に「明日は早く帰れそうだよ」などと言うので、別によいのにと応えたら、向こう側で笑う声がした。私が拗ねてみせたとでも思ったのならば、勘違いも甚だしい。眉間に刻まれた不快の皺を写真で送ってやりたいくらいだ。
上機嫌の夫の声を遮断して、ようやく手元の箱を開ける。
祖母から譲り受けた桐の箱の中には、一冊のノートと薄紙で包まれた小さな毛皮のようなものが納められていた。
ノートの表紙には、祖母の文字で『安眠のススメ』と記されてある。
祖父は賭け事と酒が壊滅的に弱いくせに大好きで、祖母はずいぶんと苦労していた。母が幼かった頃は、祖母は昼も夜も働き、その金を祖父に使い込まれ、取り立てにくる借金取りの対応と返済にと、休む暇もなかったそうだ。いくら顔が好みといえども、苦労は相当だったに違いない。
だから、私が幼稚園の時に祖父が亡くなった時には、祖母も母もほっとしたような、妙に浮き足立って明るい葬式だったのを覚えている。
私の父はまだ存命のはずだが、女を作って母の貯めた金と共に姿を眩まして以降、全く行方が知れない。祖母と母の中では死んだことにしたらしく、実家の仏間の祖父の隣に父の白黒の遺影が並べられていた。どちらも確かに、見目麗しい美男子で、いつかその隣に私の美しい夫の写真も並ぶのだな、ああ、やはり血筋なのだと、結婚一年目にしてぼんやりと思ったものだ。
気苦労の絶えなかったであろう祖母が残した、安眠のススメ。
私はぺらりとノートを繰る。
そこには『夢を枕に溜めないための手順』と書いてあった。
曰く『枕は持ち主の夢を吸う』。
恐らく、祖母は辛い日常を忘れようと、寝ている間だけでも良い夢を見られるように努力したのだろう。起きている間は決して見ることができない、光ある夢。夜の夢に安寧と希望を求めた祖母は、悪夢を遠ざけ、良い夢をたぐり寄せる方法を探し集めて記したのだ。
目覚めている昼のうちに気苦労が絶えぬ祖母は、悪夢をよく見ていたのか、ノートは主に悪夢を退けることについて詳しく書かれているようである。
数行読んで、思わず唇が緩むのを感じた。
祖母はきっと、私にユーモアを忘れるなとこれを託したのかもしれない。強張っていた肩から力が抜けて、笑い声が零れる。いったい、何をそんなに意気込んでいたのか。祖母もこうして、祖父への不満を紛らわしていたに違いない。
ノートにびっしりと書き込まれているのは、祖母が作り出した枕を巡る与太話だ。道理で、母がこのノートの所有を辞退して、私に譲ったはずだ。母はきっと、ここに何が書かれていたのかを知っていたのだろう。「私にはもう必要ないから」苦笑交じりにそう言って、私に回ってきたのだ。
祖母の美しいとはいいがたいが、読みやすい筆跡を辿る。
『枕は持ち主の夢を吸う。
夢は湿気となって夢主の頭から放出されると、枕に吸われる。悪夢の時は汗を掻くことが多いが、それは夢の濃度が高いからだ。
枕が吸い込んだ夢は、天日に干すことで蒸発する。干さずにいると、枕に溜まった悪夢が熟成され、悪臭を放つようになる。良い夢も、発酵すると悪夢と同様、異臭を放つので陽によく当てること。
枕に悪夢を溜めたままにすると、夜間にさかしまに放出され、枕を通して持ち主に戻されて悪夢を見る。夢の続きを見る場合には、この作用が働いていると考えられる。
昔の人は、枕を陽に干すことで悪夢を断ち、やがてそれが良い夢をみたいという願いに変わっていったと思われる。
悪夢を食べるといわれる獏の札、良い夢を見せる宝船の絵、悪夢を良い夢に取り換えてくれるという夢違え観音などはそうして発生した風習と思われる。宝船の絵と獏の札は、枕の下に忍ばせることで効果が得られる。これ以外の物であっても、枕に敷くことで同様の効力を期待したものがある。思い人の写真、見たい夢の内容を記した紙などもそれに当たる。
さらにこれらを促進させるのに強い効力を持つものとして、獏の皮で作った枕覆いがある。
しかし、この枕覆いは強力な力を秘めるため、使い方を誤らぬよう注意が必要ということをゆめゆめ忘れぬように』
まるで、子供のおまじないではないか。
ふふ、と私の口から、愛らしい笑い声が漏れた。
まだ、こんな声で笑えるのだ、と胸の奥が柔らかに疼いた。
明日は、早く帰るという夫のために、久しぶりにちゃんと夕飯を作るのも悪くない。私はノートを閉じて、冷蔵庫の中身を思い出した。
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