生きとし生ける僕は死を喰らうけもの【第3回 MF文庫J evo参加作品】

十文字 青/MF文庫J編集部

生きとし生ける僕は死を喰らうけもの

 これは僕の話で、僕の話じゃない。



 僕には妹がいた。

 双子の妹。

 二卵性双生児だ。

 当時は一卵性とか二卵性とか、よくわからなかったけど。

 僕と妹は性別が違う。だから一卵性じゃない。二卵性のはずだ。


 母親はいなかった。

 もちろん、生みの母はいる。僕と妹を産んだ女性が、どこかに存在するに違いない。それか、存在していたか。とにかく物心がついたときにはもう、僕らに母親はいなかった。


 僕には、妹と、父親しか。


 妹のカヤと、父さんだけしか。



 幼稚園や保育所に行った記憶はない。

 僕らは家で育った。

 ワンルームのアパートだ。

 父さんが学生のころから住んでいる部屋だった。

 たしか父さんがそんなことを言っていた。


 僕らの家にはキッチンがあった。

 ユニットバスがあった。

 ベランダもあった。

 布団は一組だけだった。

 テレビが一台と箱型の収納家具。カラーボックスだ。

 大量の本が散乱していた。

 どくの形をした灰皿から吸い殻がこぼれていて、レースのカーテンは黄ばむどころか茶色かった。

 父さんが潰したペットボトルや空き缶がそこらじゅうに転がっていた。


 父さんはよく煙草たばこを吸いながらインスタントラーメンを作ってくれた。

 でたパスタにマーガリンとふりかけを絡めてくれたりもした。

 米があると鍋で炊いた。

 父さんの得意料理は肉野菜いためだった。味が薄かったら、マヨネーズやソースをぶっかけて食べた。


 父さんがいないときは、カヤと二人で料理をした。

 料理らしきことを。

 家に食べ物がまったくないということはなかった。

 常に何かしら食べられるものがあった。


 父さんはたまにビニール袋一杯のお菓子を持ち帰った。僕らにとって、それは何よりのごそうだった。

 父さん自身はお菓子を食べない。チョコレートやスナック類をがっつく僕らを眺めながら、缶ビールを飲んで煙草を吸っていた。


「うまいか」と父さんは僕らにいた。


 僕らが「うまい」と答えると、父さんは少しだけ笑った。



 父さんが何日か帰ってこなくても、僕らはべつに平気だった。

 正確には、僕が泣きべそをかいてもカヤが元気づけてくれた。


 カヤは大の怖がりで、しばしば何か奇妙なものがそこにいると言って恐れた。

 その姿形を事細かに説明されると、見えない僕まで鳥肌が立った。

 それでも僕はなんとかカヤを励ました。そんなときカヤは手をつないで欲しがった。お安い御用だった。手をつないだままトイレに行くことさえあった。


 僕らはずっと家に閉じこもっていたわけじゃない。

 外に出ることもあった。

 遠出はしなかったけど、アパートの近くにある公園は僕らの主な遊び場だった。

 二人でコンビニやドラッグストア、スーパーマーケットに入ってみたりもした。


 僕にはカヤがいて、カヤには僕がいた。

 お互いがいれば大丈夫だった。

 僕らはだいたいうまくやっていた。

 あのときまでは。



 夏の暑い日だった。

 父さんがカヤだけ連れて家を出た。

 一人きりで留守番をするのは初めてだった。

 夕方に父さんとカヤが帰ってくるまで、僕は泣いてばかりいた。


「くそが。ぜんぜんだめじゃねえか」


 父さんはえらく不機嫌で、家の中の物を次から次へと蹴飛ばした。

 カヤはすっかり疲れ果てていた。


 あとでカヤに教えてもらった。

 父さんはカヤを連れて余所よその家を訪ね歩いたらしい。

 相手は父さんの友だちや親戚で、用件はお金だった。

 父さんはお金を貸してくれと頼みこんで、カヤにも「ほら、おまえも一緒にお願いしろ」と頭を下げさせた。

 でも、父さんの友だちの一人が二千円貸してくれた以外は断られてしまった。

 それで父さんは大荒れに荒れていた。

 ふだんはそうでもないけど、父さんは怒ると口がとても悪くなる。


「あの野郎。二千円ぽっちで何の足しになるんだよ。常識で考えたらわかんだろうが。マジであんなやつ友だちじゃねえわ。腹立つ。滑って転んで頭打って死んで生き返ってもっかい死ね。くそが」


 お金の概念は僕らも理解していた。

 僕らはかなり小さなころから家にある本を見て遊んでいたし、字が読めた。

 テレビは少し前に壊れてつかなくなってしまったけど、僕らとしてはなかなか物を知っているつもりだった。

 父さんが調達してくる食べ物や僕らの服がただじゃないことも、僕らはちゃんとわかっていた。


 父さんはどうにかしてお金を稼いでいる。

 おそらく何か仕事をしているんだろう。

 そのことについて父さんに尋ねたこともあるけど、きつく叱られた。

 それ以来、仕事の話は禁句になっていた。


 父さんが家にいない間、僕らはお金や父さんの仕事について頻繁に話しあうようになった。

 インスタントラーメンや米はまだ家にあるものの、父さんがお菓子を買ってくることはなくなった。

 どうやら家計が苦しくなっている。

 父さんは何らかの仕事をしていたはずだけど、辞めてしまったのかもしれない。


 父さんはたまに僕らを連れだすようになった。

 毎日じゃない。

 ただ、必ず僕かカヤ、どちらか一人だった。

 二人一緒じゃない。

 僕らにとってはそれが問題だった。


「ちょっと、じつは今月、どうしても苦しくて」


 父さんが訪ねた先でそう切りだすと、相手はたいてい顔をしかめて「またか」と言う。

 父さんが借金を申しこむのは初めてじゃないということだ。


「五万でいいんで。いや三万。一万でもいいからさ。わかった。じゃ、五千円。頼むよ。俺一人ならさ。どうだっていいんだけど。子供にはやっぱり食わせなきゃだし。四千円。三千五百円。よし。だったら、三千円! 頼みます! 三千円でいいから!」


 父さんは頭を下げるだけじゃなかった。

 両膝、両手、おでこを床にしっかりとつけていつくばった。


「やめてくれよ、土下座なんて」


 相手がうめくように言うのを聞いて、これが土下座なんだと僕は知った。


きようなんだよ、やり口が」

 と、父さんの後頭部に向かって罵声を浴びせる人もいた。

「子供なんか連れてきて。恥ずかしくないのかよ、自分の子供にそんな姿見せて。それでもあんた、父親かよ」


「父親だからやってんすわ」


 父さんが顔を上げずにくぐもった声で反論するのを僕は聞かされた。


「子供がいなかったら俺もここまでやんねえっすわ。子供がいるんで金がるんす。なんでお願いしゃす。金貸してください。俺じゃないんす。子供を助けると思って、お金をお貸しください。頼んます。どうか。どうか。このとおりっす。どうか」


 居留守を使われたり、門前払いされたりすることのほうが圧倒的に多かった。

 玄関口で話を聞いてもらえたり、家に入れてもらえたりしても、父さんが借金の件を持ちだすとだいたい追いだされた。

 僕やカヤをふびんに思って、お金を貸してくれる人もいた。

 千円札や五千円札、一万円札を父さんにたたきつけて、二度とるなと怒鳴る人もいた。


 父さんは大勢からお金を借りていた。

 借りたお金は返さないといけない。

 僕とカヤにとってはそのことが気がかりだった。

 父さんは何人から総額いくら借りているんだろう。

 借金を返すあてはあるんだろうか。



 その冬は寒かった。

 僕らの家にはファンヒーターがあったけど、使えない。ガスと電気が止まっていた。

 僕らは水でふやかしたインスタントラーメンを何度か食べた。

 父さんは家に帰ってくるとお酒ばかり飲んでいた。

 煙草も絶えず吸っていた。

 父さんは吸って消した煙草にまた火をつけて吸った。


 僕とカヤはありったけの衣類や毛布にくるまって部屋の隅で眠った。

 父さんはジャンパーやら何やらを着られるだけ着て布団をかぶっていた。


 朝、僕は父さんのいびきが聞こえないことを不審に思った。

 カヤはまだ寝息を立てていた。

 僕はカヤを起こさないように気をつけて父さんの様子を確かめた。


 父さんは冷たくて、硬かった。

 息をしていなかった。

 父さんは死んでいた。


 僕はカヤを起こしてどうするべきか相談した。

 家を出てコンビニの女性店員に父さんが死んだことを話すと、彼女があちこちに連絡してくれた。


 それからめまぐるしくいろいろな出来事が起こった。

 親切にしてくれたのは父さんのいとこだという女の人で、そのユラさんは僕らのことを知っていた。

 なんでも、ユラさんは生まれてすぐの僕らをだっこしたことがあるらしい。

 ユラさんは僕らの母さんとも面識があった。ただ、行方や連絡先はわからないという。


 火葬場にはユラさんとその旦那さんと僕とカヤの四人で行った。

 ユラさんはちょっとだけ泣いて、カヤはずっとびくびくしていた。

 何がそんなに怖いんだろう。

 僕が尋ねても、カヤは教えてくれなかった。

 どうして教えてくれないのか。

 その理由もカヤは言おうとしなかった。

 きっと僕まで怖がらせたくなかったんだろう。

 僕はそう思っている。


 父さんの骨をお墓に入れたあと、ユラさんが自分の家で暮らさないかと僕らに持ちかけた。

 もっとも、旦那さんと話しあった結果、引き取れるのは一人だけだという。

 僕か、カヤか。

 もう片方は施設という場所に預けるしかない。


 ユラさんはきちんとしていて、やさしそうな人だった。

 死んだ父さんのことを、それから母さんのことも、悪く言わなかった。

 二人一緒にユラさんのところで暮らせれば一番いい。

 でも、それが無理ならしょうがない。


 僕もカヤも二人じゃないと寂しいし、父さんがいなくなって悲しい。

 そこは二人とも変わらないけど、何しろカヤは大変な怖がりだ。

 それに、じつはカヤのほうが僕より少し不器用で、走るのも高いところに登るのも僕のほうが得意だった。


 僕はそれらの点についてユラさんに言い含めた。

 怖がりなカヤをどうか守ってあげてください。

 僕より不器用で、足が遅いカヤを、くれぐれもお願いします。

 こうして僕らは離ればなれになった。



 ユラさんはしばしば施設の職員に電話をかけてきて、僕とカヤはビデオ通話をした。

 ユラさんの家はずいぶん遠くにあるから、施設を訪れるのは難しい。

 だけどカヤが言うには、週末ごとにユラさんと旦那さんはどこかへ連れていってくれるという。

 公園とか、動物園とか、遊園地とか、植物園や水族館、夏には海に行って、キャンプもしたらしい。

 僕らは学校に通う年になっている。カヤは学校で友だちができたらしい。


 ビデオ通話で、カヤはよく笑った。怖いものを見たり聞いたりした話はしない。僕を心配させたくないからだろう。

 僕もカヤに気を遣わせたくない。施設の子たちとはあまり口をきかないし、学校にも親しい友だちはいなかったけど、僕がカヤにする話の中では何人かの同級生と仲がいいことになっていた。


 ビデオ通話の頻度はだんだん低下していった。

 週に二度が一度に。

 やがて二週間に一度になった。

 そのうち月に一度になった。

 五年生になると、ユラさんは施設の職員に電話してこなくなった。

 代わりにカヤから手紙が届くようになった。

 僕はカヤから手紙がくると、すぐに読んで返事を書いた。

 僕らの手紙は最初、便箋二枚か三枚だった。

 だんだん分量が増えていった。

 小学校を卒業する前には十枚を超えていた。



 小学校の卒業式が終わって少しすると、カヤが一人で施設にやってきた。

 カヤの背は僕と変わらなくて、最後にビデオ通話をしたときとは別人みたいに大人びていた。

 それでもカヤはカヤだった。


 僕らは施設から十数分歩いたところにある大きな公園に行った。

 カヤはリュックサックに中学校の制服を入れて持ってきていた。


 カヤは公園のトイレで制服に着替えて僕に見せた。

 紐状ネクタイの制服はカヤには少し大きかった。

 といっても、少しだけだ。


「このごろ急に身長がのびたみたいで」

「僕もだよ」

「双子だし。制服、変じゃない?」

「似合ってると思う」

「よかった」


 僕はカヤのリュックサックを抱えて芝生に座った。

 カヤはそのへんをぶらぶらと歩いた。

 僕とカヤは似ている。

 基本的には。

 ただし、カヤと比べて僕は鼻が大きすぎる。まぶたれぼったい。えらも張っている。

 カヤは見栄えがする。人に好かれそうな顔立ちだ。

 僕は自分の顔が好きじゃない。

 だけど、カヤの顔は好きだ。


「まだときどき怖いものが見えたりする?」と僕は訊いた。


「ときどきじゃない」

 カヤはくすくす笑いながら答えた。

「いつも見えてる」


「今も?」

「今も」

「どこにいるの」

「そこ」

 と、カヤは僕のほうを指さした。

「わたしたちを見てる」


 僕じゃない。

 カヤは僕の背後を指し示している。

 僕にはそれが見えない。見えるのはカヤだけだ。僕はそのことを知っている。

 なのに、僕は振り向くことができなかった。

 僕に見えないだけだ。

 カヤが見える、聞こえる、いると言うのなら、それはいるんだろう。


 カヤはユラさんに黙って家を出てきた。るだけで三時間半かかったらしい。帰るのにも同じだけかかる。ゆっくりしてはいられない。

 僕は駅までカヤを送ることにした。

 駅前の交差点で信号待ちをしているときに、カヤが制服姿のままだと気づいた。


「電車の中で着替えるから平気」

 と、カヤは笑って言った。


 歩行者信号が青に変わった。

 僕らは横断歩道を渡りはじめた。

 人通りはそんなに多くなかった。

 横断歩道を渡っているのは僕らだけだ。

 信号にかかわらず、全方向の車の行き来を確かめる癖が僕にはあった。

 おかげで僕は、右斜め後方で左折しようとしている一台の車を見てとることができた。


 その車にしてみれば信号は青だけど、歩行者が、つまり僕らが横断歩道を渡るまで待ってから左折しないといけない。

 それなのに、車はけっこうな速度で左折しようとしている。

 その車の運転者は下を向いていた。

 たぶんもとのスマホか何かを見ている。

 僕らに気づいていない。


「危ない!」

 僕はとっさに叫んでカヤの手首をつかんだ。

 カヤは左折車を察知していない。

 僕はカヤを思いきり引っぱって、来た方向へと押しやった。

 カヤが叫んだ。何て言ったのか。僕には聞きとれなかった。

 車がぶつかってきた。

 僕の体はぐんにゃりと曲がった。

 そしてね飛ばされた。

 僕は空中で回転し、また何かに激突した。



 トモ。


 僕の名を呼ぶ声がする。


 トモ。


 誰だろう。

 その誰かはずいぶん遠くにいるみたいだ。


 トモ。


 僕はその声を知っているような気がする。

 聞き覚えのある声だ。

 よく知っている。


 カヤ?


 ああ……。


 カヤか。


 そうだ。

 カヤの声だ。


 僕は目をつぶっているんだろうか。

 やけに暗いから、夜なのかもしれない。

 さっきまで明るかったのに。


「トモ。死なないで。トモ。死んじゃだめ」


 変だな。

 カヤ。

 変なことを言うね。

 死んじゃいけない、なんて。

 まるで僕が死のうとしているみたいじゃないか。


 僕は目を開ける。

 開けているつもりだけど、あまり見えない。

 やっぱり夜なのかな。


「トモ。死なせないから。わたしが死なせない」


 大丈夫。

 僕は死んだりしないよ。

 カヤを置いて死んだりしない。

 僕は父さんとは違う。カヤを一人にはしない。

 カヤが寂しいといけないから。

 ユラさんの家で楽しく暮らしていても、離ればなれの僕を気にしているって、僕は知っているから。

 どんなに距離があっても、僕がいると思うだけでカヤは心強いだろ。

 一緒にいられたら一番いいけど。

 本当は僕だって一緒にいたいよ。

 いつもそばにいたかったよ。


「大丈夫。トモ。わたしとトモは、これからも一緒だから」



 僕は息をのむ。

 生臭い、異様な臭気が鼻につく。

 僕は膝をついて、僕を見下ろしている。

 それが僕だということは一目瞭然だ。

 顔も、かつこうも、僕だから。

 倒れていて、右腕と右脚がおかしな方向に曲がっていて、目は半開きで、開いた口から血が流れていて、それ以外のところからも血が出ているようで、とにかく僕は血まみれだ。

 血まみれの僕を見下ろす僕の手も血で汚れている。

 袖も。

 制服の。


 カヤが着ていた。

 中学校の制服だ。

 どうして僕が制服を。

 スカートまで穿いている。


「……え?」


 発した声は、僕の声じゃなかった。


「なんで?」


 違う。

 僕じゃない。


「どういうこと……?」


 僕が聞き違えるわけがない。

 これはカヤの声だ。



 だんだん状況がわかってきた。

 だんだんと。

 すぐには無理だ。

 とてものみこめない。


 でも、救急車や警察が来て、血まみれの僕が死んでいることが確認されて、もう一方の僕は、死んだ僕と一緒にいたということで、警察官にいろいろ尋ねられた。


 僕は自分が僕だとは答えなかった。

 この僕と、血まみれで死んでいる僕が、同一人物なんだとは。

 言っても信じてもらえないだろう。

 服装や声だけじゃなくて、体も僕じゃないことに僕は気づいていた。


 僕はカヤだった。


 僕は僕なのに、カヤなんだ。


 それで僕はカヤを名乗った。

 死んだ僕はトモで、カヤとは双子で、トモが兄で、カヤは妹で、トモは施設にいて、カヤは遠くにあるユラさんの家で暮らしている。

 カヤはトモに会いにきた。

 帰るところだった。

 そこで事故に遭った。

 横断歩道を渡っていたら、後方から車が左折してきて、トモが撥ねられた。

 そして僕は死んでしまった。

 それなのに、生きている。

 どういうわけか、カヤとして。


 僕の死体は警察に運ばれた。

 僕もパトカーに乗せられて警察に連れていかれた。


 僕はスマホを持っていた。

 僕というか、カヤが持っていたわけだけど。


 警察官にうながされてユラさんに連絡するときは緊張した。

 今の僕はカヤだし、カヤのふりをして、カヤみたいに話せばいいだけなのに、実際やってみるとすごく難しかった。

 僕らはあまりにも長い間、離れていた。僕はもちろん、カヤのことを理解しているつもりだ。とはいえ、ふだんカヤがユラさんとどんなふうに話しているのか、そのときの口調、言葉遣いなんかも、見当がつかない。


 だから僕は、とんでもないことが起きて、大きなショックを受けているせいで、ろうばいしている、おかげで満足に会話ができない、というふうを装った。

 最低限のことだけユラさんに伝えて、何か訊かれたら曖昧にうなずいた。

 ユラさんは数時間後に迎えにきてくれるとのことだった。


 何か人間じゃない、獣でもないものの存在に気づいたのは、警察署の廊下のベンチに一人で座っているときだった。


 それまでは女性の警察官が付き添ってくれていたけど、用事ができたとかで席を外した。

 女性警官が隣にいる間、ほとんど僕はうつむいていた。

 一人になってから、あたりを見回した。

 すると、廊下の向こうに、あいつがいた。


 何だ、あれは。

 あんな生き物がいるとは思えないけど、動いているので、きっと動物なんだろう。

 強いて言えば、人間の形に近い。

 それはひょろっとしている。

 腕も脚も細く、長くて、頭はやけに大きい。

 とりわけ額が出っぱっている。

 やつには目があった。

 二つの目らしきものが。

 ただし、やつの目は単なる穴ぼこのようで、たとえばそこに何かを差しこんだら、どこまでも入っていきそうだった。

 口もあるみたいだけど、そこからは無数の細い物体が生えていて、それらは煙を上げている。

 煙なんだと思う。

 よく見ると、やつの穴ぼこみたいな目や、たぶん耳なんだろう部分からも、煙が出ている。


 繰り返しになってしまうけど、頭が大きすぎるし、その重みに負けそうなのか、細い首は曲がっていて、腕と脚も頼りないほど細いのに長すぎて、胸は薄っぺらいわ、肩幅が狭すぎるわ、おなかはぽっこり出ているわで、不恰好なことこの上ない。

 やつの体には薄汚れた紙切れのようなものが貼りついている。

 数知れない、古びた本の破ったページみたいなものが。


 もしかしたら、湿らせた紙切れを固めて成形した奇妙な人形のようなものなのか。

 だけど、そいつは呼吸しているみたいに肩を上下させているし、煙をくゆらせている。

 煙の出方が、ただいぶされている感じじゃなくて、煙草を吸っているのに似ている。

 父さんが煙草を吸っていたせいで、そう見えるのかもしれないけど。

 煙草が好きでしょうがなかった父さんでも、あんなにたくさんの煙草をいっぺんにくわえたりはしなかった。


 どうしてあんなものが、こんなところにいるのか。

 当然、僕は驚いた。

 怖くもあったけど、次第に寂しくなってきた。


 煙が出る穴ぼこの目で、やつはただ僕を見ている。

 なんて哀れなやつなんだろう。

 怪物としか言いようがない見た目だけど、恐れるに足りない。

 だって、あの怪物は僕に近づいてもこられないんだ。

 僕を脅かすことはできない。

 やつには何もできない。


 怪物はそこにいるだけだ。

 僕とあの怪物、どっちが哀れだろう?



 僕は死んだ。

 ともは死んで、埋葬された。

 でも、僕は生きている。

 カヤとして。


 はこれまでどおり殿とのしまの家で暮らすことになった。

 ことになった、というか、九田架也はもうずっと殿島家で生活しているし、これからもそうする。

 中学校に入学する前に、たまたま九田架也は生き別れた双子の兄に会いにいった。

 そこで兄が事故に遭って死んでしまった。

 不幸なことではあるけど、九田架也の人生は続く。

 これまでどおり。

 兄とはしばらく手紙のやりとりしかしていなかった。文通していた。それがなくなるだけだ。

 あとは何も変わらない。

 表面上は。


 まさしく表面的には。


 その裏面、九田架也の裏側というか、中身がカヤじゃない、という事実は、誰も知らない。

 僕以外は、誰も。

 わば、九田架也になってしまったこの僕、九田友だけが、真実を知っている。



 いったいどうすればいいんだろう。


 殿島家には僕の、九田架也の部屋があった。

 僕はとりあえず部屋に閉じこもった。

 食事や入浴でユラさんに呼ばれたり、用を足したりするとき以外は、九田架也の部屋にいる。

 双子の兄を亡くしたばかりだから、不自然じゃないはずだ。

 ユラさんと旦那さんもとがめなかった。仮に叱られたとしても、僕は極力部屋から出なかっただろう。


 僕はいたく混乱していた。

 九田架也の、つまり自分自身の体の取り扱いにさえ困っていた。

 僕は男だった。それが急に女になってしまった。

 異性の肉体に興味がなかったわけじゃないけど、実際に自分が異性になってみると、好奇心より恐怖のほうが勝った。


 用を足したあとの処置は男だったときと同じでいいのか。

 お風呂に入っても、どこをどうやってどの程度洗えばいいのか。

 男だったころと大きく異なる部位をつぶさに確認するのもためらわれた。そうする必要はありそうだけど、そんなことをしてもいいのか。

 これはカヤの体だ。

 本来は僕のものじゃない。

 それなのに、ユラさんも旦那さんも僕を九田架也だと信じて疑っていない。

 当然だ。

 どこからどう見ても、僕は九田架也なんだから。


 僕の、九田架也の部屋には、あいつがいる。

 警察署で出くわした、あの怪物が。


 初めにこの部屋のドアを開けたときは、中に入れなかった。

 慌ててドアを閉め、もう一度開けて確かめると、やっぱり怪物はそこにいた。


 怪物がいる部屋なんてごめんだけど、今の僕には他に居場所がない。

 僕はしょうがなく九田架也の部屋に入った。

 不気味ではあった。

 でも、怪物は部屋の隅っこに所在なく立って、煙を出しているだけだった。

 その煙は臭いもとくにしない。

 というか、立ちこめる前に消えてしまう。

 そうはいっても、僕はなんとなく窓をいくらか開けた。


 怪物は相変わらず穴ぼこの目でずっと僕を見ている。

 僕が無視しつづけても、怪物は抗議してくるでもない。

 見た目こそひどいものの、怪物は無害だ。


 僕はどうするべきなのか。

 とりあえず、九田架也のスマホを調べた。

 SNSは使っていないみたいだけど、電話帳には友だちとおぼしき女子の名前が複数登録されていた。

 それらの女子からのテキストメッセージも数十件残っていた。

 交友関係はそれなりにあるようだ。

 僕とは違って。


 僕はカヤ以外とは誰とも打ち解けなかった。

 他人と遊ばなくても、べつに退屈はしない。

 施設にはけっこうな量の本があった。

 学校の図書室や市立図書館で借りることもできた。

 暇なときは本を読んでいればいい。

 そうすれば時間は過ぎてゆく。


 僕はどんな本でも読めた。

 それは僕のひそかな誇りだった。

 どんなに難解な専門書だろうと、ちゃんと理解することはできないとしても、読むだけは読める。

 ひとには言わないけど、僕は自分のことを頭のいい人間だと思っていた。

 学校の勉強でも苦労したことがない。先生の話なんか聞くまでもなかった。教科書を読めば事足りる。

 僕は小学生たちを下に見ていた。

 学校の先生も、施設の職員も、賢いとは思えない。

 これまでに読んだすばらしい本、すてきな本、立派な本を書く人たちのことは尊敬している。


 カヤへの手紙には僕の本音を書いた。

 カヤは手紙で本にふれることはほぼなかった。

 九田架也の部屋には本らしい本がない。

 書棚はあるけど、児童書や学習本、小学生用の辞書や雑誌がいくらか並んでいるだけだ。僕が読んで時間を潰せるような本はない。僕が読みたい本は一冊もない。


 僕はカヤを理解しているつもりだった。

 むろん、離れて暮らしていたから、知らないことのほうが圧倒的に多い。

 それでもカヤの本質は変わっていないはずだ。

 時とともに変化してゆく部分なんて、簡単に埋められる溝でしかない。

 僕はそんなふうに思っていた。

 でも、本当にそうなんだろうか。



 中学校が始まったら、僕は九田架也として登校するつもりでいた。

 気持ちとしてはそうしたかった。

 九田友が中学生になることには何の希望も抱いていなかったけど、九田架也としてなら、世間並みの楽しい中学校生活みたいなものを送れるかもしれない。

 自分でも意外だったけど、それはそれで悪くなさそうだという思いも僕の中には芽生えていた。

 こうなったら、カヤがなるはずだった新中学生・九田架也を演じてみるのも一興だ。


 ところが、入学式の数日前、カヤの友だちらしいもりゆきという女子からテキストメッセージが送られてきた。

 僕はそれに返信することがどうしてもできなかった。


 津盛小雪の文面はかなり砕けていた。

 あまりにもれしすぎて、おぞを震うほどだった。

 津盛小雪はいくつかの固有名詞をげていた。どれも特定の男子だとすぐにわかった。

 津盛小雪はそれらの男子の外見を高く評価していて、中学校で彼らと同じクラスになりたいと望んでいた。

 それから、真偽の程は定かじゃないけど、そのうちの一人をカヤが憎からず思っていたようなことを、メッセージの中で示唆していた。


 津盛小雪には何度か返信をうながされた。

 体調を気遣うメッセージも送られてきた。

 仮病を使うか何かして言い訳をすることも考えた。

 でも、やぶへびになりそうだし、結局やめた。


 気になって詳しく調べてみたら、カヤは友人との間で交わしたメッセージの大半を削除しているようだった。

 一部だけ残してあって、それらは約束事だったり、学校の連絡事項に関係していたりした。


 きっとカヤは、津盛小雪のような友人たちと、たわいないやりとりを日常的にしていたんだろう。

 人付き合いの中で必要とされる一般的なコミュニケーションだ。

 僕はそういうことが苦手だけど。

 カヤは違った。

 うまくやっていた。

 それだけだろうか?


 カヤは世渡りとして、仕方なく友人たちに付き合っていた。

 これは僕の想像でしかない。

 実際はカヤも楽しんでいたのかもしれない。

 恋の話、コイバナ、というのか。男子はそうでもないけど、クラスの女子がたまにその手の話をしていた。

 僕の耳にも入ってきたくらいだ。女子の集まりでは、もっと高濃度なコイバナで盛り上がっていたんじゃないか。


 カヤは例外だったはずだ。

 僕はそう思いたい。

 カヤが同級生のかっこいい男子に恋心を抱いていた。

 そんなことがあったとしても、べつにおかしくはない。

 頭ではわかる。

 でも、なんだかとてもいやだ。


 僕には自信がなかった。

 殿島家で暮らすのにも四苦八苦している。

 ユラさんも旦那さんも気を遣ってくれて、とくに非難されることもなく、ほとんど部屋に閉じこもっているだけなのに。

 それでも僕は毎日がつらい。

 九田架也として、つつがなく中学校生活を送れるのか。

 控えめに言っても、なかなか難しいだろう。

 ありていに言えば、とうてい不可能だ。


 ようするに、僕は九田架也として中学校に通うつもりだったけど、どうしても踏ん切りがつかなかった。

 ユラさんと旦那さんも、是が非でも学校に行けと無理強いはしない。

 それをいいことに、僕は入学と同時に不登校になった。



 津盛小雪をはじめとする小学校時代の九田架也の友人たちは、しばしばテキストメッセージを送ってきた。

 津盛小雪とみやしたくるという女子は、電話も数回かけてきた。

 当然、僕は返信しなかったし、電話にも出なかった。

 いっそ着信拒否してしまおうか。

 でも、取り返しがつかない事態になりそうな気がして、そこまではできなかった。


 僕はずっと無視していた怪物に話しかけるようになった。

 頻繁に、というわけじゃないけど。

 たまに、なんとなくだ。


 たとえばスマホに着信があって、確認したら津盛小雪からのテキストメッセージだったときに、

「まただよ……」

 とつぶやいて怪物をちらっと見たり、寝つけない夜にむしゃくしゃして、

「どうやったら眠れると思う?」

 と訊いてみたりする。

 その程度だ。


 もし怪物が一度でも返事をしたら、僕はそれ以後、声をかけなかっただろう。

 だけど怪物は声を発しない。

 せいぜい何か言いたそうに首をかしげるか、かすかに身をよじるか。


 いつの間にか怪物は部屋の隅に立っているのをやめ、片膝を立てて座るようになった。

 窓辺に立って、窓の隙間から外へと煙を吐いていることもある。

 汚らしい身なりも、へんてこな体つきも、見慣れてしまって何とも思わない。


「きみは何なんだ。何者だよ」


 真夜中に一度、尋ねてみたことがある。

 怪物は答えなかった。

 ひょっとしたら僕の言葉が理解できないのかもしれない。

 怪物だけに。

 話が通じない。

 通じるわけがない。



 本格的に蒸し暑くなってきたころ、夕食のあとで部屋に戻ろうとしたらユラさんに呼び止められた。


「あのね、架也ちゃん、家の中っていっても、少しは服装に気をつけない?」


 その場では解せなかったけど、わかりましたとうなずいて部屋に帰った。


 部屋には九田架也用のクローゼットがあって、すべての衣類が収納されている。

 僕はその中から適宜、服や下着を選んで身に着けていた。

 洗濯はユラさんがしてくれる。

 洗濯後は畳まれた衣類が部屋の前に置かれていて、それを僕がクローゼットにしまう。


 最近、暑いので、僕はTシャツにショートパンツという恰好だった。

 もちろんショーツは穿いている。

 とりわけ暑い日は、袖のないTシャツを選ぶこともあった。


「……胸か?」


 僕は膨らんだ胸部を両手で押さえた。

 クローゼットの中には胸部を保護する下着、ブラジャーも入っている。

 でも、僕は着けていなかった。

 登校するならそんなわけにもいかないだろう。

 ただ、家から出ないわけだし、べつに必要ないんじゃないか。


「でも、そういえば……今にして思えば、だけど……」


 怪物が相変わらず窓辺で煙を出している。

 こちらに穴ぼこの目を向けた。

 僕がにらみつけると、怪物は顔を背けた。


「旦那さんが妙に僕を見てた……ような気がする。いや、見てた。たぶん。目は合わないんだけど。僕の顔を見てたわけじゃないし。僕っていうか、カヤなんだけど。まあ、それはいいや。よくないか? よくないよ。カヤの顔じゃなくて、つまり……胸のあたりを見てたんだ。ちょっと変な感じはしてたけど、まさかそんな……」


 ユラさんの旦那さん、殿とのしまけいは四十代前半で、こういう言い方は何だけど、没個性というか、街を歩いていたら似たような男性にいくらでも出くわしそうだ。

 背は高くもなく低くもない。

 太ってはいないけど、腹回りに少々肉がついている。

 髪の毛は薄くなっていない。たまに少量の白髪が目立つ。

 いつもじゃないけど、汗臭いときがある。


 どんな人なのか、僕にはわからない。

 知りたいと思ったこともない。

 どうやらカヤは彼のことを、おとうさん、と呼んでいたようだ。

 それでいてユラさんのことは普通に、ユラさん、と呼んでいたらしい。


 僕としては、殿島啓吾という四十代男性を、おとうさん、と呼ぶ気にはなれない。

 そんなふうには思わないようにしていたけど、僕はどうしても殿島啓吾が好きになれなかった。

 嫌いでしょうがない、というわけじゃない。そこまで嫌う理由は見つからない。

 ただ、苦手だ。

 今のところ、そういう機会はないけど、殿島啓吾と二人きりになるのは避けたい。

 もしそんなことがあったら、きっと逃げだしたくなる。

 というか、僕は逃げるだろう。


 よく知りもしない男性に対して、何らかの評価を下すのは不公平だ。

 殿島啓吾にもいいところがあるに違いない。さもなければ、ユラさんだって彼と結婚していないはずだ。


 もっとも、ユラさんと殿島啓吾がなかむつまじい夫婦かというと、良好な関係が保たれているようには見えない。

 激しいものではないにせよ、二人が言い争う声を、僕は何回か聞いている。

 反対に、二人が楽しげに会話している場面に接したことは一度もない。

 引きこもっている僕の存在が、二人の精神面や関係性に悪影響を及ぼしている部分も、大いにありそうだけど。

 とくに殿島啓吾は、僕にいらっている。

 その苛々を僕に直接ぶつけることはない。そうはいっても、だいぶうつぷんがたまっているに違いない。



 僕は何者なんだろう。

 もう九田友じゃない。

 九田友は死んだ。

 焼かれて骨になり、九田家の墓に埋葬された。

 だけど、僕はトモだ。

 記憶や感情は。

 同時に、この肉体は明らかに九田架也のものだ。

 九田架也であって、カヤじゃない。

 かけがえのない双子の妹、僕が世界中の誰よりも理解していると勝手に思いこんでいたカヤは、どこにもいない。


 僕は九田友でも、トモでも、九田架也でも、もちろんカヤでもない。

 何か別のものになってしまった。

 誰もそんなふうには思っていないわけだけど。


 僕は九田架也だ。

 それはそうだろう。

 見た目は九田架也なんだから。


 だから、僕は九田架也のふりをして中学校に通うべきだ。

 ユラさんとは実のははのように接したほうがいい。

 殿島啓吾のことは、おとうさん、と呼ばないといけない。


 九田架也のふりをするんじゃない。

 九田架也として生きてゆく。

 それ以外に道があるだろうか。

 ないと思う。

 僕は九田架也になるしかない。

 僕は九田架也なんだ。


 だとしたら、そう決意するのが遅かったんじゃないか。

 右も左もわからないなりに、僕はちゃんと入学式に出て、中学校に通うべきだったんじゃないのか。


 津盛小雪ら九田架也の友人たちは、どうも様子が変だと思うかもしれない。

 会話がみあわないことも多々あるだろう。

 そうしたら、じつは生き別れた双子の兄がいて、目の前で死んでしまって、とでも話せばいい。

 もしかしたら、友人たちは九田架也から聞いていて、九田友の存在を知っているかもしれないけど。

 それならそれで話は早い。そのお兄ちゃんが車にかれて死んじゃって。それを目撃して。

 だから?

 何かおかしい気もするけど、きっと津盛小雪らは同情してくれる。

 そんな目に遭った友人を哀れに思わないような人でなしではないはずだ。


 僕はちぐはぐな日常を送りながら、きっと苦心惨憺する羽目になるだろうけど、九田架也としての振る舞いを学んでゆけばいい。

 そのうち九田架也ぶりも板についてくる。

 トモだったことなんて忘れて、九田架也として生きてゆけばいい。


 そのつもりだったら、僕は早く始めるべきだったんじゃないか。

 ちょうど夏休みが終わるところで、いいタイミングだし、心機一転、登校しよう、とはならない。


 いや、僕なりに考えた。

 夏休み明けは絶好の機会なんじゃないか。本気で検討したけど、決断できなかった。


 しつこい暑さが去って、寒くなってきてからも、やり直そう、というか、ここから始めよう、という気持ちは、常に僕の中にあった。

 僕は焦っていた。

 たぶん一年生のうちに行動を起こすべきだ。

 僕には九田架也のスマホがあった。殿島家にはWi‐Fiがある。いつでも何でも調べられる。

 中学校は義務教育だから留年はない。登校しなくても進級する。卒業もできる。でも、一年生のうちに登校しておきたい。


 殿島家の空気がどんどん悪くなってきている。

 ユラさんと殿島啓吾の仲はかなり険悪だ。


 原因は僕だけじゃないのか。

 そうじゃないとしても、主因は僕だろう。

 僕がなんとか九田架也として生活できるようになれば、ユラさんが暗い顔でため息ばかりついていたり、殿島啓吾が週に何度も夜遅く帰宅したり、休日なのにどこかへ行って帰ってこなかったりしないはずだ。


 秋ごろまで、ユラさんはときどき僕に話し合いを持ちかけてきた。

 どうして欲しい、ではなくて、あなたがどうしたいのか教えて欲しい、というのがユラさんのスタンスだった。

 できれば学校に行きたいと僕は伝えたけど、まだ心の準備ができていないと言い添えるしかなかった。

 実際そうだったからだ。


 僕はユラさんに対してうそをついてはいない。

 話さなかったことはたくさんあるけど。

 話したくても話せないというか。


 ユラさんはきっと嘘をついていた。

 架也の、つまり、僕の意思を尊重する。口ではそう言っていた。

 だけど本当は、いいからさっさと学校に行け、と思っているはずだ。

 行きたいなら行けばいいのに、何をぐずぐずしているのか。

 いいかげんにしてくれ。

 あんたのおかげで家はめちゃくちゃだ。

 いったいどうしてくれる。

 ユラさんがもっと率直だったり、苛烈だったりしたら、そんなふうに僕を怒鳴りつけていただろう。

 でも、ユラさんの性格上、そんなことはできない。

 ぐっとこらえている。


 冬になると、ユラさんは僕に何も言ってこなくなった。

 僕だけじゃない。

 殿島啓吾ともろくに口をきかない。


 ユラさんはそれまで週に三度か四度、仕事に出ていたけど、週五で家をあけるようになった。

 しかも、週末は決まって出番のようだ。

 殿島啓吾は土日が休みだけど、どこかへ外出する。

 殿島家にいるのは僕一人、という時間がみるみる増えていった。

 正確には、僕一人じゃない。

 僕と怪物だ。


 心苦しくはある。

 こんなことになるまで、殿島家はおおむね平和で、きっと幸せだった。

 僕がぶち壊した。

 ユラさんと殿島啓吾を僕が不幸にしている。

 二人は何も悪くないのに。


 もっとも、地味にわりと快適だった。

 怪物なんてどうだっていいし、ユラさんと殿島啓吾が家にいない間、僕は実質、気兼ねがいらない。

 津盛小雪たちも連絡してこなくなって久しい。

 何にも煩わされることがない。


 そもそも僕は一人に慣れている。

 スマホさえあれば、無料の電子書籍サービスや小説投稿サイトのおかげで、読む物に不自由しない。

 ゲームも覚えた。

 課金しなくても遊べるゲームが無限にある。

 動画なんか見だしたら果てがない。

 ユラさんと殿島啓吾がいなければ、たまにはリビングでテレビをるのもいい。大きな画面はまた感覚が違う。


 焦燥感が消えてなくなったわけじゃない。

 このままでいいのか。

 いいはずがない。

 それはわかっている。

 わかっていながら登校しないまま、僕は中学校二年生になった。

 そして、三年生になった。



 しばらく前から殿島啓吾がほとんど帰宅しない。

 たまにユラさんが家にいないときを見計らってそっと入ってきても、すぐ出ていってしまう。


 ユラさんは家に帰ってくるなり酒を飲みはじめる。

 たしなむ程度じゃない。

 五百ミリリットルの缶チューハイを何本も飲んで泥酔し、リビングのソファーで寝入ってしまう。

 外で飲酒することもあるようだ。

 酔っ払って帰ってくると、壁にぶつかったり、床に倒れこんだりするから、目で様子を見て確認しなくてもそれとわかる。


 僕のせいで殿島家は崩壊しつつある。

 というか、もう崩壊している。


 ずいぶん前から、考えていることがある。

 僕がいなくなってしまえばいいんじゃないだろうか。

 もちろんよくないことだけど、いっそ自ら命を絶ってしまえばいい。

 でも、そんなことをしたら、ユラさんと殿島啓吾にもっと迷惑をかけてしまいそうだ。それは僕としても本意じゃない。


 だったら、家出して行方を眩ますとか。

 僕がそうすることで、殿島夫妻が、ああ、厄介者がいなくなってくれた、よかった、せいせいした、と思ってくれたらいいんだけど。

 仮にそう思ったとしても、突然消えた恩知らずのことなんか知ったことか、勝手にしろ、というわけにはいかないんじゃないか。どうなんだろう。


 名字が別のままだから、九田架也は殿島夫妻の子供じゃないはずだ。養子縁組はしていない。

 ようするに、九田架也は親戚の世話になっている。

 今までありがとうございました、ですが、もうけっこうです、というふうにはいかないものなのか。

 そのあと、僕はどうする?

 施設に入れてもらえるなら、それはそれでいいような気もする。

 今よりはいい。

 この状態よりは。



 とうとう僕は決心した。

 ずいぶん時間がかかってしまったけど、僕は問題に向きあわないといけない。

 九田架也は中学生だし、独力のみで解決するのは難しいだろうから、まずはユラさんに相談しよう。

 ユラさんが再三尋ねた。

 僕はどうしたいのか。

 とにもかくにも、それを伝えることから始めよう。

 今日、ユラさんが帰宅したら、酒を飲みだす前に声をかけよう。


 中三のゴールデンウィークが明日から始まる。

 僕にとっては平日と変わらないけど。


 じりじりしながらユラさんの帰りを待っている間に、ゴールデンウィークが始まった。


 結局、玄関のドアをがちゃがちゃ解錠する音が響いたのは午前三時過ぎだった。

 僕は部屋を飛びだして玄関へと急いだ。

 ユラさんは靴も脱がないで上がり口に寝そべっていた。

 とてつもなく酒臭い。

 完全に酔い潰れている。

 この有様で、よく家に帰りつくことができたものだ。


「……大丈夫?」


 受け答えできるとはちょっと思えなかったけど、僕は一応、声をかけてみた。


「……ん」


 ユラさんは身じろぎした。

 少し顔を上げた途端、せきをしかけて、すんでのところで口を閉じた。

 それを何度か繰り返してから、ユラさんは手で口を押さえた。


「え? もしかして……吐く? 吐きそう……?」


 どうしよう。

 ユラさんは飲酒後にトイレでおうすることがある。それは知っていた。

 トイレならともかく、ここで吐くのはまずいんじゃないか。

 そうだ。

 まずい。


「ちょっ、待っ、あっ、えっと、トイレに……」


 僕はユラさんを助け起こしてトイレまで連れていった。

 ユラさんは便器を抱えこむようにして盛大に嘔吐した。

 僕はその場から立ち去りたかったけど、それもどうなのか。いくらなんでも、今のユラさんを放置して部屋に引っこむのはひどい。


 だいたい僕は、ユラさんに対して悪感情は一切持っていないわけで。

 カヤを引き取って育ててくれたことには感謝しかない。

 それなのに、こんな事態を招いてしまった。

 ひたすら申し訳ない。


「ごめんなさい……」


 僕は小声で謝りながらユラさんの背中をさすった。

 ユラさんの胃の中にこれ以上吐くものがなくなるまで、ずっとそうしていた。


「ありがと」


 吐き終えると、ユラさんは僕にそう言って、シャワーを浴びにいった。

 出てくるまで、僕はリビングのソファーに座って待っていた。

 とうに日が昇っていた。

 ユラさんは濡れ髪のまま、スウェットの上下という恰好でリビングに現れた。

 とても具合が悪そうなのに、冷蔵庫から缶チューハイを出してきて、プルトップを開けた。

 僕はびっくりするというより、恐れおののいた。


「え、まだ飲むの……?」

「あたしゃ、飲まなきゃとてもやってらんねえのよ」


 ユラさんの一人称も、口調も、あからさまに変だった。

 僕の隣に腰を下ろして、缶チューハイをぐびぐび飲むユラさんが気がかりでならない。

 長期間にわたる僕の行動がユラさんをここまですさませたのか。

 だとしたら、僕は取り返しがつかないことをしてしまったんじゃないのか。


「いや、あのね、言っとっけどね、あれだから」


 ユラさんは半分くらいは残っているだろう缶チューハイを両手で握りしめて、信じがたいほど酒臭い息を吐いた。


「あんたのせいじゃないから。まったくないとは言わんけど。あの人さ。前々から、いたの。わかる? いたんだよ、女。ずっと付き合ってる女。マジで。やばくない? 十も下。二年とか三年とかじゃないんだよ。もっとだよ。すごくない? しかも、それだけじゃないから。女遊びもしてっから。あたしゃ、知ってんだよ。そういう人なんだよ、昔っから。遊ぶのはまだまあって思ってたよ。まあ、何だって話だけど。一回りくらい下の女とがっつり付き合ってるとか、マジ怖いわ。ぜんぶ知ってて、いいかげんにしろって言えないあたしもどうかしてるわ……」


 これは僕が聞いてもいい話なんだろうか。

 ユラさんのほうから話しているんだし、いいのか。

 聞きたくはないけど。

 いきなりそんな話を聞かされても。

 僕にどうしろと?

 どうもできないけど。

 できるはずがない。

 無理だ。

 受け止めきれない。


 ああ、でも、なんだか、に落ちた、というか。


 僕は一貫して殿島啓吾に好感を持つことができなかった。

 もっと言えば、生理的に受けつけない男性だと感じていた。

 不愉快な言動をするわけじゃない。

 だけど、何かこう、うさんくさい、というか。

 素を出していないような。

 何を考えているのかわからない。

 読ませないようにしているんじゃないか。

 後出しかもしれないけど、何か隠している。

 裏がありそうで、得体が知れない。


 果たして、僕だけなのか。

 カヤはどうだったんだろう。


 ユラさんは前々から殿島啓吾の不貞を察していたらしい。

 カヤはまったく気づいていなかったのか。

 殿島啓吾が実の父親なら、まさかそんなことはあるまいと信じきっていたとしてもおかしくはない。

 でも、所詮、赤の他人だ。

 カヤは鈍くなかった。むしろ、勘は鋭いほうだった。


 カヤも知っていたんじゃないか。

 もし知っていたとしても、言うわけにはいかなかっただろう。

 知らんぷりをしているしかなかったんじゃないか。


 カヤはSNSを使っていなかった。

 友人とのやりとりはケータイの番号によるSMSに限定していた。

 しかも、メッセージの大部分を削除していた。

 何のために消していたのか。

 隠すため?

 誰から?


 違う、ような気がする。


 単に不要だった。

 残しておいて、わざわざあとで読み返したりしない。

 要らないというか、消してしまいたかったのかもしれない。


 僕と違って、カヤは小学校でうまくやっていたみたいだ。

 学校でも、殿島家でも、カヤは周りに迷惑をかけないように気を配って、我慢したり、空気を読んだり、他人に合わせたりして、つつがなく日々を送る努力をしていたのかもしれない。


 ユラさんは缶チューハイを一本飲み干すと、「寝るわ」と宣言して寝室に向かった。

 僕も怪物が待つ部屋に戻って一眠りした。

 疲れていたみたいで、夕方まで目が覚めなかった。

 物音で起こされた。


 リビングに行くと、ユラさんが対面キッチンで何かごそごそやっていた。

 カウンターの上に缶チューハイが置いてある。

 また飲んでいるのか。


「何してるの」


 僕が尋ねると、ユラさんは缶チューハイの隣に包丁を置いた。


「あの人のとこに行こうと思って」


「行く……? あの人って」

「絶対、女の家にいるから。もう行ってやろうと思って」

「でも……それ……」

「手ぶらで行ってもしょうがないと思わない?」

「やめ……た、ほうが……」


 僕はもっと積極的に止めるべきなのかもしれないけど、正直、恐ろしい。

 強く制止したら、ユラさんはあの包丁で僕を刺すんじゃないか。

 いや、ユラさんに限ってそんなことはしないだろうけど、じんも懸念しなかったと言ったら嘘になる。


 結局、僕はユラさんを止められなかった。だからといって、何もしないというわけにはいかない。

 僕は着替えて、ユラさんが呼んだタクシーに乗った。

 当然、ユラさんも一緒だ。

 怪物も煙を吐きながらついてきたけど、タクシーには乗らなかった。



 こうして僕は久しぶりに外出することになった。

 といっても、家を出てタクシーに乗っているだけだから、さしたる感慨はない。

 というか、それどころじゃない。


 僕と並んでタクシーの後部座席に座っているユラさんが胸に抱くトートバッグには、包丁が入っている。

 車内は酒臭い。

 ユラさんはあの包丁を使うつもりだろうか。

 使うとしたら誰に使うんだろう。

 殿島啓吾に?

 それとも、交際相手の女性に?

 自分自身に、という可能性だってある。

 ここで死んでやる、みたいな。

 本当にやるかどうかはともかく。

 パフォーマンスというか。

 脅すだけかもしれない。

 お守りみたいなもので、使うつもりはないのかもしれない。


 もしユラさんが包丁を使おうとしたら、そのときは何がなんでも止めようと僕は思っている。それくらいのことはしよう。

 じゃないと、何のために来たのかよくわからない。

 なんでついてきてしまったのか。


 ユラさんは十階建てくらいのマンションの前でタクシーをめさせた。

 そんなに新しくはなさそうだけど、オートロックのマンションだった。

 ユラさんはインターホンで迷わずある番号を入力して、呼びだしボタンを押した。

 しばらくすると、返答があった。


『……はい』


「いますよね。うちの人。入れてください。職場に言いますよ。勤め先とかぜんぶ知ってるんで。調べはついてるんで。ぜんぶ言います。いいんですか」

『そんな……困ります』

「わかってます。だから入れろって言ってるんですけど。ていうか、うちの人出してくれませんか。びびってるんですか、あのやろう」


 やがてドアが開いた。

 ユラさんと僕はエレベーターで七階まで上がった。

 ユラさんは707号室のチャイムを鳴らした。

 ドアが解錠された。

 三十歳くらいに見えるこぎれいな女性が出てきて、ユラさんと僕を迎え入れた。

 殿島啓吾はリビングにいた。

 座らずに、下を向いてソファーの前に立っていた。


「いいお部屋ですね」


 ユラさんは笑顔だった。

 目は笑っていない。

 どこまでも白々しい声音だった。


「二人で住むために引っ越したんでしょ。二人で住むためって。片方、既婚者ですやん。四十過ぎたおっさんですやん。どないなってんねん。あほか。ぼけ」


 ユラさんはなぜか関西弁でまくしたてて、けらけら笑った。

 殿島啓吾も、相手の女性も、僕も、黙りこくっている。

 凍りついたように何も言えない。身動きもできない。


「おい」


 ユラさんは殿島啓吾に歩み寄って顎をつまむと、顔を上げさせた。


「どう始末つけるつもり? あんた、どうすんの? これから。ずっとこのまま? けじめつけるわけでもなく、ずるずるやってくの? 頭の中どうなってんの? あたしゃもう限界なんすけど。やってらんないんすけど」


「……酒、飲んでるのか」


 呻くように殿島啓吾が言った。

 その直後だった。

 ユラさんは殿島啓吾に平手打ちをお見舞いした。


「飲まなきゃやってらんねえんだよ、こっちは。だから飲んでんだよ。ふざけんじゃねえよ。あんたは女とやってりゃ気がすむんだろうけどな。こっちはそうはいかないんだよ」


 殿島啓吾は赤くなった頬を押さえて震えている。

 目も真っ赤だ。

 涙ぐんでいる。


「……このままでいいとは、思ってない。俺は、もう……わ――」


 言いかけたところで、ユラさんがまた殿島啓吾にビンタを食らわせた。

 一発目よりも強烈だ。

 ぐらついた殿島啓吾に、ユラさんは容赦なく追い打ちをかけた。


 蹴った。


 ユラさんは殿島啓吾を蹴り倒した。

 殿島啓吾はソファーに座りこむ恰好になった。

 ユラさんが肩に掛けているトートバッグに手を突っこもうとした。


「だめ!」


 とっさに僕が止めると、ユラさんは思いとどまってくれた。

 僕はユラさんの腕を掴んで引っぱった。


「行こう!」


 ユラさんは逆らわなかった。

 僕らは部屋をあとにした。

 エレベーターで一階まで降りて、マンションを出た。


 ユラさんは縁石に腰を下ろした。

 僕もユラさんの隣に座った。


 これでよかったんだろうか。

 ユラさんは殿島啓吾に暴力をふるっただけだ。本当は話し合いがしたかったんじゃないか。

 その前に僕がユラさんを連れだしてしまった。

 でも、あのあと冷静に話し合えるような状況になっていただろうか。

 そうは思えない。


 ユラさんはスマホでタクシーを呼んだ。

 タクシーに乗りこむと、ユラさんは笑った。


「こんなにタクるの生まれて初めて」


 僕はさっき初めてタクシーに乗った。

 これが二度目だけど、何も言わないでおいた。

 九田架也はどうかわからない。


「あー……」

 と、ユラさんがスマホをいじりながら言った。

「沖縄行きたい。一回でいいから行きたいって、ずっと思ってたんだよね。行こっか? 沖縄」


「……はい?」


 沖縄には行かなかった。

 旅券がとれなかったらしい。

 その代わりなのか。

 僕はユラさんに連れられて新幹線に乗った。

 人生初の新幹線で、せんだいに行った。


「仙台で牛タンとずんだ餅食べたいって、あたしずっと思ってて」


 それで僕らはスマホで店を調べて牛タンを食べた。

 牛タン焼きの定食に加えて、牛タンシチューも食べた。

 ずんだ餅も食べた。

 ずんだパフェというのも食べた。

 三角あぶらあげも有名だとわかって、これも食べた。

 僕はむしろ牛タンよりこっちのほうが感動した。

 ユラさんは大量に買ったささかまぼこをおつまみにして、ホテルで缶チューハイを何本も空けた。

 笹かまぼこは僕もたくさん食べた。


 仙台城跡も見に行った。

 日本三景の一つらしいまつしまというところにも足を延ばした。

 まさむねだいらしいずいがんも拝観した。


 松島だの何だのは、僕でもなんとなく知っている名高い観光地だ。

 人が大勢いた。

 人間以外のものもいたけど。


 僕は、おっ、と思ったけど、ぶったまげはしなかった。

 正直、仙台に着くまでの間にも、到着してからも、僕はあちこちで何かおかしなものを目にしていた。

 人間じゃない。

 動物でもたぶんない。

 じゃあ何だと訊かれたら返答に困る。


 例の怪物は、ユラさんと僕の旅行にもついてきている。

 つきっきりじゃない。

 新幹線の中でも、トイレのそばに立っていたり、ふと見たら荷物棚の上に寝そべっていたりした。

 僕らと一緒に歩いているということはまずない。

 行った先にいる。

 振り返るといる。

 どこかに隠れていて、煙が見えるから、怪物がそこにいると気づく。

 僕だけが。


 僕にしか怪物は見えていない。

 ユラさんだけじゃなくて、その他の誰も、怪物には目もくれない。

 そして、ユラさんとの仙台旅行を通して、僕は知った。


 煙の怪物だけが怪物じゃない。


 新幹線の車窓の外には、襤褸切れと赤黒い粘液を練り合わせたようなものがへばりついていた。

 それには目があって、車窓越しに僕を見つめていた。

 気色悪いけど、見られているだけだし、害はない。


 瑞巌寺には、一瞬、人間かと見紛う怪物がうようよしていた。

 お寺の門をくぐると道がまっすぐ続いて、その両側に木が立ち並んでいる。

 拝観者は道しか通らない。

 それなのに、木にしがみついていたり、木々の合間を静かに歩いていたりする者がいる。

 服装が妙で、やけに古めかしいというか。

 それに、片腕がなかったりとか。

 上半身だけで這いずっていたりとか。

 果ては、頭がなかったりとか。


 怪物というか、お化けというか。


 松島の海には二百以上の島々が散らばっていて、本来は風光明媚な土地なんだろうし、僕もきれいな場所だとは思った。

 でも、どの島にもたいていおかしな住人がいた。

 奇怪な連中が海を泳いでいたり、ぷかぷか、もしくは、どろどろと、漂っていたりもした。


 それらは僕にしか見えていないらしい。

 だから、僕はユラさんにもそのことは一切言わなかった。

 やつらはべつに向こうから近づいてくるわけじゃない。

 僕の視線に気づくと、見返してきたりはするけど。

 目なんかどこにもついていなかったりするやつも、こっちを向いたりして。

 ただ、それくらいだ。

 たまにかなり近くにいて、息をのんでしまったりもするけど。

 そのうちどこかへ行ってくれる。

 慌てて離れていったりもする。


 まあ、いるだけだ。

 煙の怪物と一緒で、見た目はあまりよろしくない。

 でも、それだけだ。

 ゴキブリとどっちがいやか。微妙なところだけど、ゴキブリを餌にしているムカデと比べたら、怪物は咬まないし、実質的な損害を恐れる必要はない。


 カヤが怖がりだったことを僕は思いだした。

 僕には見えない不気味なものがカヤには見えていた。

 中学校の制服を持って会いにきてくれたときも、まだ見えると言っていた。

 今も、いつも見えている、と。

 そこにいて、僕たちを見ているんだと。


 僕はとくに疑ってはいなかった。

 僕に嘘をつく理由がカヤにあるとは思えない。

 ひとには見えないものが見える。

 よく考えたら不思議だけど、そういうこともあるんだろう。


 僕にも見えればいいのに。

 そんなふうに願ったことは何度かある。

 僕は見えないほうがいいのかもしれない。

 そうも考えた。

 見えるから、カヤは怖い。

 見えないから、僕は怖くない。

 僕まで見えたら、二人もろとも怖がる羽目になって、収拾がつかなくなってしまうかもしれない。


 どういうわけか、僕は九田架也になった。

 その結果、見えなかったものが見えるようになった。

 これがカヤの世界なんだ。

 カヤが見ていた世界。



 仙台から戻ると、ユラさんは次に京都のきよみずでらかもがわを見たいと言いだした。

 高校の修学旅行で行った際は、まだ若すぎたせいで、なんとも思わなかったんだとか。

 もう一度、行きたいらしい。


 でも、京都はずいぶん混んでいるということで、大阪や神戸を回ることになった。

 ユラさんは僕も誘った。

 断りきれなくて、付き合わされた。


 大阪ではつうてんかくを見たり、かいゆうかんという水族館や、USJに行ったりした。

 たこ焼きも、お好み焼きも、串カツも、食べまくった。

 ユラさんは関西にいる間は関西弁をしゃべろうと言いはじめて、僕はやっぱり断れず、付き合うことになった。

 ユラさんも僕も着替えをあまり持ってきていなかったから、てんぽうざんマーケットプレースで衣類を買った。

 僕らは下手くそな関西弁で愚にもつかないことを話しながら、神戸の旧外国人居留地を歩いた。

 なんきん町で点心を食べて、メリケンパークに行って、いく神社をお参りした。

 ろつこう山にもケーブルカーで登った。

 僕らはあり温泉の露天風呂が付いた部屋に泊まった。


 ユラさんは旅先で職場に連絡した。


「あのー。あたし、辞めることにしたんでー。はーい。えー。どっちにしても、辞めるんで。はーい。どうもー。ありがとうございましたー。はーい」


 電話を切ると、ユラさんは「よっしゃ!」と叫んで大はしゃぎした。


「よっしゃ、よっしゃ、よっしゃ! 辞めてやった。辞めてやったぞ。仕事なんか辞めたかったんだあたしは。辞めてやったぞ、くそがぁー!」


 大丈夫なんだろうか。

 気がかりではあったけど、口出しする権利が僕にあるのか。

 ないんじゃないか。


 ユラさんは神戸から北海道に飛ぶと宣言して、航空券をとった。

 僕一人帰ることもできないし、ついてゆくしかない。


 機内でユラさんが僕の懸念の一つである金銭事情について大まかに説明してくれた。


「お金はね。当分大丈夫。地味にめてたし。あの人も罪悪感とかあったんかね。毎月いくらいくらって、ちゃんと入れてはいたからさ。家のことは支払い含めてぜんぶあたしがやってたけど、カヤもわかってるでしょ。あたし節約してたし。投資とかもしてたし。投資信託だけど。言っても、けっこう歴、長いからね。馬鹿になんないよ。そのうち気が向いたら訴訟も起こすし。離婚訴訟。とるよ。慰謝料。証拠はそろってるし。揃えたし。とにかく、やりたいことやるわ。あたしの人生だし。人生一回きりだしね」


 ユラさんがこんな人だとは思わなかった。

 僕はユラさんのことをろくに知らないわけだけど。

 とはいえ、少し前までのユラさんとは別人だ。

 見た目からして違う。

 以前のユラさんは痩せているのにむくんでいて、年齢相応か、少し老けて見えるくらいだった。

 ちょっとふっくらしたせいもあってか、今は明らかに若々しい。

 よく笑うし、楽しそうだ。

 一緒にいると僕まで気分が上向く。

 無職と不登校が、無軌道に転げ落ちているような気もするけど、そんなに心配しなくてもいい。

 きっとなんとかなるだろう。

 そう思えてくる。


 北海道では、しんとせ空港からJRに乗ってたるで運河を見た。

 ユラさんは世界自然遺産のしれとこ半島に行きたかったみたいだけど、かなり遠いようだ。

 ざっと調べてみたら、しやこたん半島というところは知床半島より近くて、海がきれいだし、名物はウニだという。

 ユラさんは小躍りした。


「ウニ! ウニ! ウニ食いたい! ウニ!」


 僕らはいちという街に寄って、ワイナリーやウイスキーの蒸溜所を見学した。

 ユラさんはワインやウイスキーを飲んで上機嫌だった。

 そこから積丹半島に行って、積丹ブルーと称されるすばらしい海の眺めを堪能した。

 当然、ウニもたらふく食べた。


 一度さつぽろに戻って、はこだてを目指した。

 余市とか積丹半島のことは今回北海道に来て初めて知ったけど、函館は聞いたことがあった。夜景が有名な観光都市だ。


 僕らはロープウェイで函館山に登って、山頂から百万ドルの夜景を見た。


 夜景のしなんて僕にはわからないけど、なかなかすごかった。

 函館山の標高は三百三十四メートルで、東京タワーと同じくらいしかない。

 小さい山だ。

 そんなに高くないところから見下ろす夜景はやけに近く感じて、手をのばせば掴みとれそうだった。


 函館はイカが名物だけど、近ごろめっきりれないんだとか。

 ユラさんはかまわずイカを食べたがった。

 僕が調べてラッキーピエロという店のハンバーガーやハセガワストアのやきとり弁当が評判らしいと教えると、ぜんぶ食べようとユラさんは言い張った。

 僕らは実際、ぜんぶ食べた。

 どれもおいしかった。


 そして僕らはいったん家に帰ると、間を置かずに沖縄めがけて飛んだ。

 沖縄本島じゃなくて、いしがき島の空港に僕らは降り立った。


 ユラさんは石垣島を拠点に長期滞在をもくんでいた。

 僕らはフェリーで離島を巡った。

 日本最南端のアーケード商店街ユーグレナモールを隅から隅まで歩いた。

 ユラさんは石垣島のソウルフードだというやまそばがいたく気に入ったようだった。食べ飽きない味で、僕も大好きになった。

 ユラさんはオリオンビールを水代わりにして、お酒が欲しくなるとあわもりを飲んだ。


 他の観光客や地元の人びとと同じように、僕らは現地で買ったアロハシャツかTシャツにショートパンツ、サンダル履きという恰好で過ごした。

 スコールでずぶ濡れになることもあるけど、いちいち気にしない。

 むしろ、雨に降られるとユラさんは笑いだす。

 僕もつられて笑ってしまう。


 この土地の人たちは、個人差は当然あるだろうけど、総じてのんびりしている。

 ときどき苛つくのは、僕がせっかちなんだろう。

 細かいことを気にしすぎなければいい。


 石垣島や、たけとみ島、はま島、西いりおもて島といった離島にも、怪物はいる。

 僕はもう、彼らをいわゆる怪物とは見なしていないけど。

 ついてきた煙の怪物も、シーサーが設置された屋根の上に寝そべっていたり、そのへんに座りこんだりして、のんきに煙を吐いている。



 ユラさんと僕は海辺のホテルに宿泊していた。

 ビーチサイドに大きなプールがあって、バーが開いている間はお酒もソフトドリンクも飲み放題だ。

 おそらくそんなに安くはないホテルなんだろうけど、僕はもう気にしないことにしていた。


 僕らは日焼け止めを塗りあったり、海で泳ぐ真似をしたり、飲んだり、食べたり、プールで水をかけあったりした。

 僕らは石垣島で買った水着を着ていた。

 僕はセパレートでもお腹が隠れるものを選んだけど、ユラさんはわりと大胆なビキニだった。

 だいぶふくよかになって、体つきにめりはりがあるユラさんにぴったりだ。

 ビーチでも、プールでも、ユラさんは数人の男性に声をかけられた。


「やばっ! またナンパされた! 今日が人生初ナンパされ記念日だったのに、これで何回目?」


「ついてってみればよかったのに」


 僕はユラさん相手なら、その程度の軽口をたたくことができるようになっていた。


「いやあ。男はいいかなあ。男はなあ。べつにいらんかなあ」


 ユラさんは豪快にオリオンビールを飲みながら笑った。


 その日は早めに眠った。

 夜中にふと目が覚めた。

 クーラーをつけっぱなしで、少し体が冷えていた。


「寒っ……」


 呟いて目を開けると、ベッドのすぐ脇に煙の怪物が立っていた。

 僕は驚いた。

 変だとも思った。

 起きたら煙の怪物が何か言いたげに僕のそばに立っている。

 そんなことはついぞなかったからだ。


 この部屋はツインベッドだ。ベッドが二台ある。

 隣のベッドには誰も寝ていない。

 なぜか僕は納得した。

 なんとなくユラさんはいないような気がしていた。


 念のため、部屋の中とベランダを確かめてみた。

 案の定、ユラさんは見あたらない。


 真夜中だった。

 午前二時を回っている。

 僕はラッシュガードを羽織って部屋を出た。


 ホテル内は静かだった。

 建物をあとにしてプールに行ってみたけど、誰もいなかった。


 ビーチに出ると、波音がやけにうるさく感じた。なんだか怖いくらいだった。

 やっぱりひとけはない。


 人影はないけど、煙の怪物が遠くから僕を見ている。


 僕は砂浜に腰を下ろした。

 今ごろ、昼間ナンパしてきた男性の誰かと、そういう関係になっている、とか。

 僕が寝ている間に一杯やりたくなって、バーかどこかで男性と出くわして。それで、とか。


 わからない。

 そういうことがありうるのかどうか。

 百パーセントない、とは言いきれない。

 だけど、僕個人としてはなさそうな気がする。


 本当に、わからないけど。


 どうしてだろう。

 ユラさんは戻ってこないんじゃないか。

 二度と会えない。

 そんなふうに思えてしょうがない。


 たまらなくなって、僕は煙の怪物を見た。

 煙の怪物はびくっとした。でも、その場から動かない。


 僕が手招きすると、ようやく煙の怪物はおっかなびっくり歩み寄ってきた。

 一歩進んで半歩下がる、といった足どりだ。


「何なんだよ……」


 僕は膝を抱えこんで海に目を向けた。

 雲に隠れているのか、月は出ていない。

 どこまでも暗い海が、平らじゃないことはわかる。

 あれは波の盛り上がり方じゃない。

 やたらとでこぼこしている。

 きっと怪物たちが漂っているんだろう。


 煙の怪物は僕から三メートルくらい離れたところにしゃがんだ。それ以上、近づいてはこなかった。


 僕と煙の怪物は日の出近くまで海辺にいたけど、ホテルから人がちらほら出てきた。どれもユラさんじゃない。

 僕は部屋に帰った。

 ユラさんはいなかった。


 それから昼前まで眠った。

 ユラさんは姿を現さない。

 僕が寝ている間に戻ってきたような形跡もなかった。


 僕は夜まで普通に一人で過ごした。

 プールで泳いだり、疲れたらバーでドリンクをもらって飲んだりした。

 夕ご飯の料金は宿泊費に含まれている。僕は一人で豪華なディナーを楽しんだ。

 そんなに楽しくはなかったけど、おいしい、おいしい、と呟いて、笑みを浮かべたりして、僕なりに楽しもうと努力はした。


 一休みしてから、ビーチへ向かった。

 まだ人がいたけど、そのうち誰もいなくなった。

 僕と煙の怪物だけが残された。

 砂浜に膝を抱えて座っている僕と、約三メートル離れてしゃがんでいる煙の怪物だけが。


 僕は黄色の地にピンクの花を散らしたアロハシャツを着ている。

 ユラさんが選んでくれた。

 僕だったら真っ先に候補から外す色柄だ。

 ユラさんの意見は違った。


「カヤはかわいいから何でもオッケーだけど、ちょっと落ちついた感じがするから、派手めな服着るくらいがちょうどいいよ。ほら、かわいい。最高。やばっ」


 旅の間、僕は数えきれないほどユラさんに褒められた。

 僕は僕だけど僕じゃなくて九田架也だ。

 褒めそやされても素直に喜ぶのは難しいけど、悪い気はしない。


 暗い海がうなり声を上げている。

 昼間はどんなに怪物たちが漂っていても美しい。

 でも、夜の海は別物だ。

 それか、夜が別世界なのかもしれない。


 海の一部がいびつな丘みたいに隆起している。

 高波のようでもあるけど、違う。

 海が荒れる天候じゃない。


 それが迫ってくる。

 初めは気のせいなんじゃないかと思ったけど。

 気のせいじゃない。

 間違いなくそれは少し前よりも接近している。

 ずっと向こうにいたのに。

 だいぶ近づいてきた。

 もうけっこう近くにいる。


 僕からそれまでの距離は二十五メートルくらいだろうか。目測だけど。五十メートルはないと思う。

 それが月明かりを白く照り返している。

 海水が反射しているのか。

 海の中に何かがいるのか。


 すっ――と突然、それが沈みこむ。

 海面と同程度の高さになる。


 僕は首をひねる。

 何だったんだ。

 どうがしている。

 何でもなかった?


 そんなわけがない。


 僕は膝を抱えていた腕をほどく。

 立ち上がろうとする。

 その寸前だった。海だ。


 海から。

 波打ち際まで数メートルのところから、みず飛沫しぶきを上げてそれが飛びだしてきた。

 白い。

 何か白っぽいものだ。

 僕は立ち上がりかけていたけど、まだ立ち上がっていない。

 反射的に「ひぁっ」と悲鳴を上げて、逃げようとはした。

 それは海中から飛び上がって、躍りかかってくる。おそらく、僕に。

 だけど、間に合わなかったんじゃないかと思う。

 何しろ、僕は度肝を抜かれていた。おかげで機敏に動くことはできなかったから。


 横合いから、煙の怪物がそれに飛びかかってくれなければ、どうなっていたことか。

 十中八九、僕はそれに体当たりされて、下敷きになっていただろう。


 煙の怪物は空中でそれに組みつくと、そのまま砂浜に倒れこんだ。

 僕はまだ立っていない。

 立てない。

 座ったまま、それを見ている。


 それは、白い。

 白い花。

 いや。

 花なんてかわいらしいものじゃない。まず、サイズが人間くらいか、もっと大きいし。

 形も、花というか、花弁だ。

 白い、生々しい、人のてのひらか、顔ほどもありそうな花弁が寄り集まっている。

 白いわけじゃなくて、月明かりの下だから、白っぽく見えるのかもしれないけど。

 あと、それを構成しているのは、その白っぽい巨大花弁だけじゃない。

 あちこちに、黒くて長い、糸なのか、毛のようなものが絡みついている。

 髪の毛みたいなものが。


 花弁のお化けは、煙の怪物を組み敷いている。

 煙の怪物はもうもうと煙を噴き上げて、どうにか花弁のお化けを押しのけようとしている。

 でも、煙の怪物はやせっぽちだし、花弁のお化けはかなり力が強いようだ。煙の怪物が必死にもがいても、びくともしない。


 僕は立った。

 足腰にうまく力が入らない。

 それでも花弁のお化けに掴みかかった。


「ううっ……」


 花弁はひどい手ざわりだった。

 ぬちょっとしていて、変にやわらかい。

 それでいて、形は崩れない。

 べちょべちょで、掴みづらい。

 というか、滑る。

 ぜんぜん指がかからない。

 それに加えて、毛が。

 花弁と花弁の間に絡みついているあの髪の毛みたいなものが、いつの間にか僕の指や手首にまで。


「わぁっ!」


 怖い。

 怖すぎる。

 僕は花弁を放す。

 花弁のお化けから離れようとする。

 だけど、離れられない。

 毛だ。

 お化けの毛がしっかりと僕の手に巻きついている。

 毛はどんどん増える。

 僕の両手から手首、肘にまで、お化けの毛が及んでいる。

 何これ。

 何だ、これ。

 お化けの毛は僕をぎゅうぎゅう締めつけてくる。

 毛の一本一本は細い。

 本物の髪の毛みたいに。


「い、痛っ……」


 僕が声をもらした途端、なぜか毛がゆるんだ。

 その隙に思いきり両手を引くと、毛がほどけた。

 僕は勢い余って尻餅をついた。


 煙の怪物が、フッ、フーッ、フーッ、と息を荒らげはじめた。

 息、なのか。

 違う。


 煙か。


 そう。煙だ。


 もともと煙の怪物はほとんど絶えず煙を吐いているけど、そんなものじゃない。

 とてつもない勢いで煙を発している。

 煙の怪物の煙は無臭で、すぐ薄らぎ、消えてしまう。そのはずだった。

 この煙は違う。

 いい匂いじゃない。わりと不快だ。

 臭いし、目にみる。


 ただ、懐かしい。


 僕はこの臭いを知っている。


 たちまち花弁のお化けは煙に巻かれた。

 それでひるんだらしい。

 煙の怪物が一瞬、花弁のお化けを撥ねのけかけた。

 そうはさせまいと、花弁のお化けが腕のような花弁の集合体を振り上げて、煙の怪物に叩きつけた。

 殴っている。

 花弁のお化けが、煙の怪物の頭部をぶん殴りまくっている。


「あっ、や、やめっ――」


 僕は起き上がりもしないで花弁のお化けに向かって手をのばした。

 止めたい。

 止めないと。

 止められるのか、僕に。

 相手はお化けだ。

 お化けというか、煙の怪物なんてものじゃない、正真正銘、本物の怪物だ。

 無理じゃないか。

 無理だ。

 逃げたほうがいい。

 煙の怪物なんて知ったことか。


 でも、放ってはおけないだろ。


 だって、僕を助けてくれた。


 なんで助けてくれたのか。


 懐かしい臭い。

 忘れようがない悪臭。


 いつも髑髏の形をした灰皿から吸い殻があふれていた。

 煙草の香り。

 父さん。


 あれは父さんだ。


 見捨てるわけにはいかない。


「そうね」


 僕が言う。

 僕?

 僕が言った?


 僕は立ち上がっている。

 たしかに僕は立ち上がりたかった。

 だけど、これは僕なんだろうか。

 まるで僕の体じゃないかのようだ。

 そうなんだけど。

 僕の体じゃないわけだけど。


 僕は花弁のお化けに近づく。

 無造作に花弁と花弁の間に右手を突っこむ。

 そのとき僕は気づく。

 僕の手というか腕というか、僕の体、おそらく全身がほのかに光っている。

 輪郭がにじむような、ぼんやりとした、微かな光り方だ。


 白っぽい巨大な花弁がぼとぼとと崩れてゆく。

 毛も溶けてしまう。

 僕はそれらが外殻のようなものでしかないことを知る。

 どうやってか、僕は外側を剥がしている。

 その内側には、今の僕と同じように仄かに光るものが隠れている。

 花弁が崩れ落ち、毛が消え去って、それがあらわになる。


 ただ、その形は僕ほどはっきりしていない。

 それが何かはかろうじてわかる。


 女の人だ。


 女性らしき何かが、頭部ばかりか上半身がぐちゃぐちゃに潰れた煙の怪物にまたがっている。


 不明瞭で、女性の顔の造作まではとてもわからない。

 背恰好すら。

 でも、それが誰か、僕は即座に察する。


 ユラさん。


 急にいなくなった。

 僕を置いて、どこかへ行ってしまった。

 海じゃないかと僕はひそかに怪しんでいた。

 ユラさんは夜の海に一人で入っていったんじゃないだろうか。

 なぜそんなことを。

 そこまで推し量ることはできない。でも、そんな気がしていた。

 べつに入水自殺してしまおうという明確な意思があったわけじゃないかもしれない。

 魔が差しただけかもしれない。

 元気そうだったけど、本当は疲れ果てていて、ふと何もかもいやになってしまったのかもしれない。

 もっと別の理由があったのかもしれない。

 僕にはわからない。


「トモは見なくていい」


 僕が言う。

 僕が?

 トモ、と。

 今のは、僕が言ったんだろうか。

 九田架也の声で、見なくていい、と。


 僕は目をつぶる。

 そして、何かをする。

 僕は何かをしている。

 僕の、というか、九田架也の体が動いている。それは感じる。


 もっとも、具体的に何をしているのか、僕には把握できない。

 僕は見たい。

 目を開けようとする。

 だけど、僕の目は開かない。

 僕の瞼は頑強に抵抗する。


 いずれにしても、僕は何かをして、それが終わると、目を閉じたまま少し歩いた。

 僕は砂浜に寝転がり、両手で顔を覆った。


「もういいよ」


 僕が言う。


 僕はうなずいて、両手を顔の上からどける。

 目を開ける。


 頭を右方向に倒すと、そこに僕がいる。

 わずかに輪郭がぼやけていて、仄かに光っているような、僕が。

 片膝を立てて砂浜に座り、海のほうに目をやっている。


 僕、というか、九田友が。


 なぜか九田友はワイシャツを着てスラックスを穿いている。

 どこかの中学校の制服みたいな服を着ている。

 一見して僕は九田友だと思ったけど、それにしては体が大きい。

 顔つきも違う。

 九田友は小学校六年生、中学校に上がる前に死んだ。

 でも、僕の隣にいる九田友は小六じゃない。もっと年がいっている。

 今の僕と同じくらい、つまり、九田架也と同じくらいの年恰好に見える。


 僕は長々と黙りこくったあげく、九田友に尋ねる。


「カヤ?」


 どうして僕はその名を口にしたんだろう。

 ただ、言ったあとで確信した。

 九田友じゃない。

 カヤだ。


「うん」


 相手も僕のほうに顔を向けてうなずき、肯定した。


「久しぶり。トモ」


 今までどこにいたんだよ。

 なんで僕の、九田友の姿をしているんだよ。

 育っちゃってるし。声まで変わっている。声変わりしているじゃないか。

 言いたいこと、訊きたいことはいっぱいあるけど、うまく言葉にできない。


「ずっと出てこられなかったの。わたしにも方法がわからなかった。やっとこうして、トモと話せる」

「ほんとに……カヤなんだね」

「正確には違う」

「……どういうこと?」

「わたしはもう、わたしじゃないから。トモがトモじゃないように。ごめんね、トモ」

「何を……謝ることがあるんだよ」

「トモを死なせたくなかった。これは、そのために、わたしがしでかしたことなの」

「しでかした?」

「もとに戻すのは無理だったから。引き換えにできるものが、わたし自身しか、わたしにはなくて」

「引き換えに……それで僕は……カヤに?」

「浅はかだった。きっと、たくさんトモを苦しめた。ごめんなさい」


 カヤは、九田友の姿をした僕の妹、双子で、僕の片割れ同然のカヤは、うつむいてぎゅっと砂を掴んだ。

 僕のために、僕を死なせないために、自分自身を、自らの肉体を明け渡して、僕に譲った。

 そんなことまでしてくれたのに、まったく何を謝っているんだろう。

 たとえ僕が多少戸惑ったり苦しんだりしたとしても、それが何だっていうんだ。

 たしかに混乱は生じた。殿島家はひどいことになった。

 それがどうしたっていうんだ。


 カヤは僕に命をくれた。

 いったい誰がカヤを責められるだろう。

 たとえ糾弾する者がいたとしても、僕だけは何があろうと咎めたりしない。


 僕は僕の気持ちをちゃんと話したかった。

 でも、何かが引っかかっている。

 何だろう。


「ユラさんは?」


 僕が彼女の名を絞りだすと、カヤは目をそらして首を横に振った。


 あれはユラさんだった。

 あの花弁のお化けは。


 僕は身を起こしてあたりを見回した。

 煙の怪物は半分潰れているけど、体のあちこちから細い煙を上げている。

 花弁のお化けはいない。

 どこにも見あたらない。


 僕はまだ暗い海を眺める。

 いつもは漂っている怪物たちが、どうしてかいない。

 ただの海だ。

 夜の海が不気味に鳴っている。


「もう帰ってこないんだね。ユラさんは」

「いなくなったわけじゃない」

「え?」


 僕は隣に目を戻す。

 いない。


 カヤ。

 九田友の姿をしたカヤが消えせている。


 さっきまでそこにいたのに。

 一瞬前に声を聞いた。

 いなくなったわけじゃない。

 カヤは九田友の声でそう言った。


 煙の怪物が身震いした。

 僕らの父さんが。

 それとも、父さんだったものなのか。

 死んで、変わり果てた父さん。

 ろくでなしだったのかもしれないけど、死ぬまで僕らと一緒にいた。

 僕らにひもじい思いをさせることはなかった。


 そして、死んでからも、カヤを見守っていた。

 今は僕のそばにいる。


 僕は南の島の湿った生ぬるい夜気を吸いこんで、そっと息を吐く。

 胸に手をあてる。


「また会えるよね、カヤ」

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生きとし生ける僕は死を喰らうけもの【第3回 MF文庫J evo参加作品】 十文字 青/MF文庫J編集部 @mfbunkoj

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