後編

 居酒屋はとても混んでいて、つっかけのまま外に出た私たちをとがめる店員はいなかった。陽太は少し気にしていたけど、私の靴はどうせ安物だ。また捨てて新しいのを買えばいい。そう言うと陽太は呆れたように笑っていた。

 外の空気は相変わらず体にまとわりつく。横を車が通るたびに、排気ガスのひりつくような匂いと一日中の暑さを濃縮したような熱風が吹きつける。

「赤木たち、きっと私たちがそういう関係だと思ってんだろうね」

 からんからん。私たちがアスファルトをほんの少しミリ単位で削るたび、私たちが歩く音が生まれる。それが面白くて私はかかとを地面に打ちつけて歩く。がっと大きな音が鳴ったのと、私がバランスを崩したのは同時だった。転ばなかったのは陽太が私の腕をつかんだからだ。肘に陽太の指が食いこんで、私たちは見つめ合う。触れ合ったのは初めてだ。でも、赤木の普通と私たちの普通は違う。「痛いよ」

 陽太は私の肩を抱き、耳元に口を近づけた。熱い吐息が耳たぶに触れる。ベッドに押し倒される瞬間みたいだ。でも体を駆け上がるあの嫌悪感も、興奮も、快楽、虚無感もなかった。私は目を閉じる。車のエンジン音が近づいてくる。

「キスしてもいい?」

 陽太の言葉に私は目を開ける。「する気もないくせに」

 陽太の肩を押して遠ざけると、陽太は目を見開いていた。そしてほっとしたように息を吐き出した。「バレたか」

 すれ違いざま車が陽太の顔を照らし出す。いたずらがバレたような小学生みたいだ、と思った。母と父が別れる前、私の母や私がまだまともだった頃、私たちは長期休みに互いの家を行き来した。陽太と私は大人の目をこっそり盗み、いたずらをした。お菓子を勝手に食べた。行ってはいけないと言われた場所へ勝手に行った。その背徳感にぞくぞくした。悪事がバレて私だけが怒られたときはどこかほっとしていて、陽太だけが怒られたときは罪悪感があった。

 どうして今まで忘れていたんだろう。あの頃、私はまだまともだった。今みたいに胸にぽっかりと空いたような穴もなくて、それを埋めたいとも思っていなかった。今と比較してみじめな気持ちになりたくないから、思い出そうとしなかったのかもしれない。

 私が河川敷へ下る階段を降りると、陽太は何も言わずについてきた。車道から離れるだけで、周りは一気に静かになる。水の流れがいろんな音を飲みこんでいる。

 対岸にはずらりと並んだ飲食店が崖から張り出すように足場を組んでいて、そこには煌々と光が灯っている。たくさんの人間が等間隔に座っていて、その多くは恋愛関係だったり友人関係だったり、きっと親しい人間と一緒なのだろう。私と陽太はそのどちらでもない。

 私が暗い河川敷に座ると、陽太もまたその隣に座る。

「あんなところで過ごして涼しいのかな」

 私は躊躇せず指さす。きっと向こうからは闇にいる私たちは見えない。対岸のまばゆい光は川面に反射し、異界のようにゆらゆら揺れる。

「いや、涼しくないと思う」

「やっぱりそうなんだ」

「暑いし虫ばっか多そう」

「うわ、嫌すぎる」

 手を伸ばしても届かない光の中を勝手に想像してはこき下ろす。それが一人ではないことにほっとする。

「俺、結月に謝らないといけない」

 コンクリートの割れ目からは雑草が生えていた。陽太は開いた足の間に伸びた草をいじりながら口を開いた。陽太は私に顔を向けず、ちぎった草を川に向かって投げる。

「結月ならやれるんじゃないかって思って部屋に呼んだんだ」

 ぶちり。陽太の手元でまた雑草がちぎれる。

「でも私たち、一度もそういう雰囲気にならなかったよね」

「それは俺の問題。俺、誰にも惹かれたことがないんだ」

 陽太のこわばったぎこちない笑みが昔とかぶる。顔立ちは精悍になって、身長は伸びて、筋肉もついて、成長した。でも変わらないものもある。

「これからのことなんてわかんないけどさ、多分俺はこれからもそうなんだと思う。じゃない」

 。私と陽太をしばる強力なくさび。

 私は母みたいにならないと誓いながら同じことをしていて、そんな母を嫌う伯母は陽太に普通であることを強いてきた。私たちはがんじがらめになって、どれだけあがいてもそこから抜け出せない。海の底に沈むように息苦しくて、自分ではどうにもできない。でも、同じように苦しんでいる人がいたとわかった瞬間、ふすまを開けていた。

「だから結月が赤木に啖呵切った瞬間、すげースカッとした。ああ、それでいいんだって」

 陽太は初めて私を見た。黒い目がガラスのように私と夜闇を映し出す。

「あいつらに理解してほしいなんて、これっぽっちも思ってない。でもどう思われても」

「どうでもいい」

 私は陽太の言葉を引き継いだ。右足に履いていたつっかけを脱いで手に持ち、迷うことなく放る。ぼちゃん。川の手前で水飛沫があがり、つっかけはぷかぷかと揺れていて、異界の光を遮っている。右足の裏が伸びた草でちくちくする。

あぜんとしていた陽太は、私がにんまりと笑うと声を立てて笑い始めた。「マジか」

「普通なんてどうでもいい」

 私がもう片方に手をかけると、「待って」と制した。

「今度は俺が投げたい」

 私はうなずいて履いていた靴を差し出す。立ち上がった陽太が振りかぶって投げると、私よりもはるかに遠くまで飛んで行った。対岸の人が何事かと立ち上がったのが見える。

「最後は一緒に投げよう」

 陽太は履いていたつっかけを私に手渡す。立ち上がると足の裏に固いコンクリートを感じる。昼の熱を全て吸いこんでいるようでまだぬるい。固くてぬるいその感触は、なぜだかとても気持ちがよかった。

 

 目が覚めると固い床で、体のあちこちがひどく痛んだ。1ヶ月で見慣れた部屋で伸びをする。汗でべたついた感触に、暑さで目が覚めたのだと理解する。でも体は不思議と軽い。

 生ぬるい空気を感じて陽太の部屋へ入ると、カーテンも窓も開け放たれていた。ふわりと香るのは嗅ぎ慣れた煙の匂いだ。陽太が煙を吐き出す姿は慣れているように見える。

 私が近づくと、手すりに身を預けていた陽太は振り返って右にずれた。左のつっかけを脱いだ陽太は片足で器用に立ち、脱いだ方を投げてよこす。私は両足で片方のサンダルに乗って外に出る。軽くジャンプして手すりにもたれかかると、それを待っていたように陽太は尋ねた。

「結月も吸う?」

 左手で差し出された箱を受け取り、1本抜き取ったところではたと気づく。

「今日は止めないんだ」

 陽太は子供のように笑う。

「結月も立派な大人だ」

 そうか。すでに日付は変わり、夜明けが近い。言われてはじめて誕生日を迎えたことに気がついた。

「立派とは程遠いけどね」

 それもそうか、と陽太はライターを取り出した。陽太からもらった煙草を口でくわえ、カチリと火を点ける。私の手元が明るく照らされる。東の空は白み始め、遠い山や市街地の建物が影を作っている。私が吐き出した煙は雲のように空にたなびき、やがて見えなくなった。

「もう少し一緒に過ごしてもいい?」

 私の言葉に、陽太はくしゃりと笑ってうなずく。

「1DK30平米の部屋は一人暮らしには広すぎる」

 西の空には白い月が輝いていた。

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残月 藍﨑藍 @ravenclaw

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