中編
バイトがない夜はいつもふらふらと一人で出かける。そして誰かと一夜を共にすることもあった。朝起きたときには何もかも夢だったんじゃないかと思うような、刹那的で生産性のない出会い。心の穴を埋めるように、膣の穴を陰茎で埋める。その行為は甘くも優しくもない。穴を埋めているはずなのに、余計に穴をほじくることで痛みが走る。かさぶたをはがすような痛みだけが私に生の実感を与える。私はその感覚を手放したくなくて、でも痛みからはやっぱり逃れたくてたまらない。誰かに体を拘束されているわけではないのに、体は動かない。
どろりとした澱みが排出される感覚と同時に目を開ける。キャンプマットを敷いているとはいえ、床は固く体は痛い。頬を流れる涙を手の甲で拭って立ち上がる。
血に染まったナプキンを変え、無地の黒いTシャツと黒いスキニーを身にまとう。合コンの華やかさとは程遠い格好で、髪をしばって家を出る。
赤木に指定された場所は繁華街にある居酒屋だった。赤木たちはすでに中に入っているらしい。黒いエプロンをした店員に「すいません」と声をかけると、不愛想でやる気のない顔を向けられた。澱んだ空気。死んだ魚の目。深夜のコンビニバイトをしている私みたいだ。
赤木の名前を告げると、店員は面倒くさそうに先導して店内を進み、ふすまの閉じた座敷の前で立ち止まった。私が靴を脱ぐと、店員がそれをさっと持っていく。ふすまを開けると吐き気のする声とともに、その場にいた全員の視線が飛んできた。
「おー結月ちゃん、やっと来てくれた」
女が3人、男が4人。計7人の中で、奥の壁際に座っている男に驚いた。
どうして、陽太がここに。
陽太は顔を私から背けて水を飲んだ。空いていたのは奥側の一番手前の席だ。陽太とはちょうど対角線上に当たる。私は動揺を見せないように笑顔を作る。
「結月です。よろしくお願いします」
愛敬だけの表情を振りまいてぺこんと頭を下げると、3人の女は顔をこわばらせた。明るい茶髪とこげ茶のパーマ、黒いボブ。よくもまあこれだけタイプの異なる女を集めたな、と思いながらにこやかに笑いかける。特にこげ茶は顕著だった。自分以外は引き立て役。そういうやり方は自分の嫌いな母親がよくやる方法だ。
「結月ちゃん、固いって。楽しくやろうな、楽しく」
赤木は「なあ?」と右に座る陽太にからむ。陽太は曖昧に笑って、でも何も返事はしない。全員分の酒が届いてからも、赤木の口は止まらなかった。赤木が何か言えば、左に座る男たちが大きくうなずき、女たちはきゃっきゃと高い声で笑う。それぞれの名前は最初に聞いたはずだけど、記憶には残らなかった。
「にしても、美人だねえ、結月ちゃん」
赤木の左隣、私の斜め前に座っていた男が感心したように言う。
美人。きれい。かわいい。そんな言葉でもてはやせば、女は誰でも喜ぶと思っているんだろう。私は母とは違う。嬉しくはないし、そんな言葉で流されるほど甘くもない。
女たちはきゃらきゃらと華やかな作り笑いを私に向けた。その表情は気持ち悪いくらい同じものだ。
「ほんと、美人。うらやましい」
「またそんなこと言って。ナツミだってかわいいじゃん」
「何言ってんの」
ナツミと呼ばれたこげ茶パーマは、見せびらかすように机の上に肘をついて指を組んだ。爪の先にはぷくりとしたピンクのジェルネイルに白い真珠のような石。彼女がちらちらと視線を向ける先にいるのは陽太だ。
今まで気がついていなかったけど、陽太も顔はそれほど悪くない。赤木や他の2人の男と比較して真面目そうに見える。普通に、まともにと育てられた陽太はたしかに悪くない。赤木が大学の名前をことさら強調していたので、陽太や赤木の通う大学はそれなりに有名なのだろう。ナツミは早々に陽太をロックオンしたらしい。
でも陽太と残りの6人の間には見えない壁が存在した。そのことに気がついているのは陽太と私だけだ。陽太が愛想笑いをしながらもこの場を楽しんでいないのは明らかで、そのことになぜか心が弾む。
食事が一通り済んだところで、ナプキンを替えるために席を立つ。座敷を下りたところには2組のつっかけが置いてあって、店内での移動にはそれを使うらしい。女性用のトイレは1つしかなくて、ドアの前には他の女がいて拳で叩いている。「大丈夫? 気分はどう?」すえた匂いが鼻をつんとつき、顔をしかめた。当分かかりそうだ。
諦めて席へ戻ろうとすると、ふすまごしにナツミの声が聞こえてきた。酒に酔うと饒舌になるらしい。
「結月ちゃん、ちょっと感じ悪いよね」
「そうそう。見た目ばっかり良くても中身が伴ってないと、付き合うと苦労するよ、絶対」
ナツミの言葉に同調したのは茶髪か黒髪か思い出せなかったけど、どちらかだろう。私は柱にもたれかかる。中身が伴っていないのは私だけじゃない。私をこき下ろすあんたも同じだよ。私はそう言ってやりたいけど、それを教えてやるほど優しくない。
「マジ? 結月ちゃんいいなって思ってたんですけど」
さっき私を美人だと評した男の発言にどっと場がわいた。
「やめときなって」
「絶対わがままだよ、ああいうタイプは」
「えー、俺貢がされんの」
「貢ぎ系男子」
「うわー最悪すぎ」
げらげらとひとしきり笑ったあと、赤木が尋ねるのが聞こえた。
「なあ陽太はどう思う?」
息を止めて耳を澄ます。陽太の返答は早かった。
「俺は何度も言ってるように、彼女作る気ないから」
「おまえ、まだそんなこと言ってんの? 俺がセッティングしたのに」
赤木が声を低くする。
「一言も頼んでない」
「素直になれよ」
「頼むから放っておいてくれよ」
「それとも陽太。ひょっとして結月ちゃん狙い?」
自分の名前に体がこわばった。陽太は黙りこむ。
男の部屋に行く、イコール、寝る。私はそういうものだと思っていたし、部屋を提供してくれているんだから一緒に寝てもよかった。
でも、陽太の部屋になし崩しに転がりこんでから1ヶ月、私たちは一度もセックスをしたことがない。セックスはおろか、触れ合うこともほとんどない。陽太と私が生活の中で交わるのは朝だけだ。陽太はベッドで寝て、私はダイニングの床で眠る。文字通り、静かに眠る。どんな相手と過ごすよりもよく眠れて、いつしかそれが当たり前になっていた。
当たり前。普通。私はそう思っていたけど、陽太はどうだろう。伯母によって植えつけられたのとは別の、陽太の普通。知りたい。知りたくない。その天秤は大きく揺れ動く。
つっかけの中で足の指を曲げたり伸ばしたりすると、関節が枝のように鳴った。ここは狭くて息苦しい。息苦しさから逃れるように、アパートのベランダで見た早朝の景色を思い出す。朝に浮かんだ家は無数にあって、人それぞれの普通があって、それと同じくらいみんなどこか歪んでいる。
私は床を踏みならして座敷のふすまを開け放つ。赤木は口をぽかんと開けている。その間抜け面を殴ってやりたくなる。散々私をこけにしたナツミは憎々しげに私をにらんでいる。私に向けられた視線はどれも不愉快なものだったけど、その全てが気持ち良かった。
「そうだよ。私と陽太は一緒に住んでんの。それがどうかした?」
陽太はあぜんとしていたけど、はは、と声を立てて笑い始めた。座ったまま、体をくの字にして笑っている。私もつられて笑い始める。重苦しい空気の中で笑っていること自体もおかしくてたまらない。ひとしきり笑ったあと、涙を拭って陽太を見た。
「行こう、陽太」
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