残月
藍﨑藍
前編
1DK30平米の部屋は一人暮らしには広すぎる。築2年。バストイレ別。独立洗面台。
普通の暮らしをすれば私と同じ年齢でも手に入るものなんだろうか。一夜限りの相手と別れ、この部屋へと戻ってきた私はそう思った。きっと、まともじゃない私には決して手に入らない生活だ。
ベランダへ出られる部屋では
「今帰ったの」
起こさないように気をつけたつもりだったけど、陽太は私が帰ってきたことに気がついたらしい。陽太の眠たげな表情を見下ろしながら短く答える。
「うん、そう」
「遅かったな」
「いつも通り」
「いつも通り遅かったなって言ってるんだよ」
寝起きの陽太は汗でべたついた顔で困ったように笑う。私は陽太の顔を殴りつけたいような衝動に駆られて、ついと視線を逸らす。
エアコンの効いた部屋は息苦しい。そんなとき、私はいつも窓を開ける。
ガラス戸に続き、網戸も開ける。途端に湿度の高い熱気が顔や手足にまとわりつく。ベランダに置いてあるつっかけに足を入れ、手すりの上に腕を置いて体を預ける。ポケットから煙草を1本取り出して口でくわえ、息を吸いこみながらカチリとライターで火を点ける。空はすでに明るくなり始めていて、見下ろした街は少しずつ動き出している。夜と朝の混じった不安定な闇の中で、私の手元だけがほんの少し一瞬だけ照らされる。煙草の先の赤は一瞬にして見えなくなった。白いけむりが頼りなさげに立ちのぼる。
そんな不安定な時間は嫌いじゃない。夜でもなく昼でもない。誰のものでもないこの時間は、私だけのものだ。
「
陽太は部屋の中から怒ったように言う。それがおかしくて私は振り返る。
「あと少しで20歳になるっていうのに?」
「そういうことじゃない」
「普通じゃないから? まともじゃないから?」
普通。まとも。
陽太はその言葉に表情をくもらせた。寝ぐせのついた間の抜けた頭と陽太の表情はあまりにもアンバランスで、私はくっと笑った。
***
陽太の母親――私の伯母と私の母親はすこぶる仲が悪い。年が一回り離れていることはそれほど関係がない。長女として生まれ、親の期待を受けて育った伯母は冗談の一つも言わないような真面目な人だ。それに対して私の母は、真面目とは程遠い。楽な方に逃げ、そのくせ自分の機嫌も満足に取れないような人だから、周りに迷惑ばかりかけて依存して、あげくの果てに捨てられた裏切られたといって泣きわめくような人間だ。当然、この姉妹の馬が合うわけもない。
真面目な伯母は、息子を妹のようにしてはいけないと思い、陽太を普通に育ててきた。私から見れば、狂信的なほどに。その甲斐あって、陽太は普通に高校に通い大学生になった。
状況が変わったのは、ほんの1ヶ月前のことだ。母親はまたいつものように男に振られたと言って家で泣きわめいていた。バイトの時間を気にしながら母親をなだめていると、酒に酔ったあの女は据わった目で私を指さした。
「あんたがいると知った途端、みんな裏切るのよ」
「じゃあ産まなきゃ良かったのに」
私がそう言うと、あの女は持っていたチューハイの缶を私にぶちまけた。果物の甘たるい匂いと、鼻に抜けるような感覚に吐き気がした。
「結月まで私を裏切るのね」
バイト先では嫌がらせを受け、生理前だった私はいらついていた。台所でコップに水を入れ、それをあの女にぶっかけると、スマホと財布だけをポケットに入れて家を出た。あの女が騒いでいたような気がするけど、心底どうでも良くなった。
梅雨真っ盛りの夜明け前の湿度はすごくて、酒をぶっかけられたので体はベトベトで、それでもなぜかすごく気持ちが良かった。駅前のネットカフェで熱いシャワーを浴びながら思ったことは、罪悪感でもなく不安でもなく、「今月分の金を置いてくるのを忘れたな」だったけど、今さら戻ろうとは思わなかった。
さっぱりとした体でスマホを見ると、スクロールしてもスクロールしても母親からの着信履歴が残っている。嫌気がさして電源を落とそうとしたところで、思いもかけない人物から電話が入っていることに気がついた。
「久しぶり」折り返すと相手はすぐ電話に出た。
『結月、今どこにいる』
淡々とした話し方は記憶通りで、懐かしくて泣きたくなる。
『叔母さんがすごい剣幕で電話してきたって母さんから連絡があった』
「……言わないで」
私がそう答えると、陽太はため息をつく。しばらく無言のままで時間が過ぎ、そろそろ切ろうかとしたところで陽太が言葉を発した。
『行くところがないなら、うちに来る?』
今思えばお互い魔が差していたとしか言いようがない。陽太は私を誘い、私はそれに乗った。親しいわけでもない。恋愛感情があるわけでもない。性欲を処理する相手でもない。そんな人間のもとへ転がりこむなんて、本当にまともじゃない。
***
ダイニングで目が覚めると陽太はすでにいなかった。陽太は部屋のベッドで休み、私はダイニングルームの床にキャンプマットを敷いて眠る。陽太の大学の友人が泊まりに来たときは、いつもそれを使っているらしい。
寝ぼけまなこでスマホの時間を見るとすでに午後9時を回っている。一日のほとんどを寝て過ごしたことになる。その不健康さには我ながら呆れるしかない。
べたついた顔を洗い、気持ちばかりの化粧をする。几帳面な陽太は鏡の掃除も怠らないから、鏡面には私の顔がはっきりと映る。私の嫌いな、母親とそっくりの私の顔が。化粧をするときだけでも、急に視力が悪くなれば良いのに。
近くのコンビニでアルバイトを始めたのは、陽太の部屋に転がりこんですぐのことだ。自分の食い扶持や宿代くらい自分で稼ぐ。それは私なりのなけなしのプライドだ。コンビニの深夜バイトを選んだのは家を飛び出す前にもしていたから。系列は違ってもコンビニであることに変わりはないので仕事にはすぐに慣れた。いまだに慣れないのは同僚の存在だ。
暗い夜に24時間営業のコンビニは眩しすぎる。生活。便利さ。社会。明るい店内にはあらゆるものが揃っていて、外の闇は一層濃く感じられる。
目のくらむような白い店内に足を踏み入れ、レジ店員に会釈しつつバックヤードに入る。更衣室で紺の半袖シャツと黒いズボンを身にまとった。髪を黒ゴムでしばれば、私も社会の一部になる。
勤務時間ちょうどに店に出ると、今日朝まで一緒に過ごす男はすでにレジの前に立っていた。
「結月ちゃん、遅いって」
その男――赤木は私に人好きのする笑顔を向ける。
「よろしくお願いします」
私がどれだけ無感動に言ったところで、赤木は「つれないなあ」と笑うだけだ。
「どうせ客もあんま
な、と言って赤木は私の肩に触れる。
気楽に、と言われたところでやるべき仕事の量は減らない。朝番が来る午前6時までに、店内の清掃や検品、品出しなどやるべきことは山のようにある。私が一人で店番をすることのないようにシフトを組んでいると店長は胸を張っていたが、赤木は全く働かないのでほとんどワンオペ状態だ。入って1ヶ月の人間にワンオペをさせるなんてどうかしている。
日付が変われば客がいない時間が長くなる。私が店内の床を磨いている間、赤木はちんたらとレジの横でスマホをいじっている。
「それでさあ、そいつがさあ、言うんよ。彼女なんか欲しくないって。そんなわけないやん? ただ強がってるか、自分の本心に嘘をついてるだけやって思うわけよ」
赤木はひたすら一人で話し続けている。私は無心でモップを動かす。水を含んだモップは重くて、慣れていても腕に疲労がたまっていく。空調は効いているけど、全身に汗がにじんでくる。
「なあ、聞いてる、結月ちゃん」
両腕で力を込めて動かそうとしたモップが急に止まり、その衝撃でモップの柄が腹に刺さる。痛みをこらえて顔を上げると、赤木が片手でモップの柄を持っていた。
「やっとこっち向いてくれた」
あ、と思ったときにはすでに遅かった。赤木の指が私のあごに触れたのと、赤木の顔が近づいてくるのは同時だった。口を開けさせられ、赤木の舌が私の口の中をまさぐった。唾液が絡み合い、逃れようとすればするほど赤木の舌先は私の口の中を縦横無尽に駆け回る。
気持ち悪い。でも、どこかその気持ち悪さを甘受している自分がいて、そのことがもっと気持ち悪い。
「やっぱ結月ちゃん、美人やわ」
気の済んだ赤木は顔を離すと、満足気にそう言った。
美人。母と生き写しの私。私の大嫌いな顔。離れたいとわかっているのに、男を拒絶できない女。キスを受け入れ、胸を揉まれ、陰茎を受け入れることでしか満足できない女。辿る末路はきっと同じ。私はそんな自分が嫌いでたまらない。
うがいをしたい。酒に焼けたのどに、煙草の煙をまぶしたい。あとで買おう。私はレジをちらりと見る。
「俺はその友達のために合コンを開くことにしてん。出会いがないねんて。可哀想。結月ちゃんも参加してくれるやろ?」
馬鹿馬鹿しくてたまらない。合コンを開く赤木も、赤木に哀れまれるその友人も。そして、赤木の部屋について行き、一夜を共にしてしまった私も。
私の冷笑を肯定と受け取ったのか、赤木は私に連絡先を交換するように迫った。
「おっけ。結月ちゃんが酒も煙草もやってること、店長には黙っとくな」
うるさいな。私は心の中で言い返、無心でモップを動かし続ける。
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