2:私カラ全テヲ奪イ取ッテイク

 朝の九時になっても妹は、薔子しょうこは起きてこなかった。私は起こそうか迷って、やめる。絵を描くために徹夜をしていたのかもしれないし、それならゆっくり休ませてあげたかった。


 すっかり冷めた朝食を冷蔵庫に入れ、書き置きを残す。店の方に行く旨を書いた手紙。今日は月彩つきさいの風景の一つ、賢者の海を買いたいと願い出てきた人と商談がある。


 本当はあまり、売りたくはない。購入した人が二人、もう不幸な目に遭っているのだから。偶然かもしれないけれど、これ以上犠牲者を出したくはない。でも、売らねば食べていけないのが事実で、思わずため息が漏れ出る。


 私は重くなった気分を振り払うように、食器を洗い、着替えてから家から出た。


 私たちが住む百依ももい町は小さな町だ。芝桜の花畑だけが有名で、他にあるのは、遠い海まで見えるという景観塔がこないだ完成したばかり。芝桜もただの緑に変わる中、地元の人間たちは景観塔へこぞって行ったらしいけれど、すぐに熱中は治まった。


 私はただ、町中にたたずむ景観塔を丘から眺めるだけ。最近は家と商店街、それからギャラリーにしか行き来していない気がする。薔子が絵を描きはじめれば、私に自由はない。


 ギャラリーには、家から歩いてすぐに着く。五分程度の距離だ。


「百合、おはようです」


 鍵を開けようとした時、ギャラリーの裏口から見慣れた人影が出てきた。小さな背の、外国人。


「おはよう、フィラス。早いのね」

「俺、することない。仕事、手伝います」

「いつもありがとう。じゃあ、今日もお願いしようかしら」


 フィラスはマレーシアから出稼ぎに来た青年で、景観塔を作る作業に借り出されていた。怪我をしていた彼を手当てしてあげた時から、妙に懐かれてしまっている。今では絵画の運搬なども担当してくれているから、困ってはいないのだけれど。


「百合は、一人で頑張りすぎる。もっと、人、頼って下さい」

「そうかもしれないわね」


 曖昧に笑って、私は真剣な眼差しのフィラスに軽くうなずいた。


 鍵を開け、二人で中に入る。少し蒸れた空気が外に流れていった。昨日の夜、クーラーを除湿にしておいてよかったと思う。初夏といえども油断はできない。下手をすれば絵画にかびが生えてしまう。


「今日は俺、何しますか」

「アクリルカバーとフレーム、布で拭き取ってくれるかしら。少し絵を増やそうと思ってるの」

「あの月の絵です?」

「……いいえ。昔、薔子が描いた油絵よ」

「百合はもう、絵を描かない。なぜ?」

「私の絵には価値がないから」


 それだけはなぜか、はっきりと言い切ることができた。


 そう、私の絵には商業的な価値はない。コンクールに出しても、賞賛を浴びるのは薔子の絵だった。私はいいところで奨励賞。双子だというのに、こんなに差があるのはなぜなんだろうか。


「前、描きかけの絵、見せてくれた。あれはとても、綺麗」

「花畑を適当にスケッチして、色をつけただけのものよ。あなたに見せたのは失敗だったかしら」

「完成したの、見たい。眼鏡で見られないです?」

「ああ……眼鏡、眼鏡ね」


 私は口ごもり、どう答えるかで悩んだ。


 フィラスがいうには、私にくれた眼鏡は魔法の眼鏡……らしい。見たい風景を覗けるという。二〇を過ぎて、魔法だなんてこれっぽっちも信じていないし、事実かけてみたけれど何も起こらなかった。


 不思議と薔子はそれを気に入ったらしく、私から奪い取って、今ではすっかり彼女のものだ。薔子はいつでも私から、何かを奪い去っていく。それでも私が強く出ないのは、薔子の視力が著しく落ちていっているから、それに尽きる。


 網膜色素変性症という病らしいが、本人は昔に一度、医者にかかったっきり。今も通院すらしていない。


 でも、と私は額縁を布で拭きながら気付く。


 あの眼鏡をかけてから、薔子は月彩の風景を描くようになった。あの子には見えているのだろうか。何か、私と違う別のものが。


 だとしたら羨ましい。描きかけの絵は、幼い時に家族で見た花畑を記憶から起こして描いたものだ。もしフィラスの言うことが本当で、何かを見られるならば、その続きも描くことができるかもしれないのに。


「ごめんなさい。あれはあなたからの贈り物だから、大事にしまってあるの」


 今更薔子に眼鏡を返して、とは言えそうにない。絵画のアクリルを拭くフィラスへ、私は申し訳なさげに嘘をついた。こちらを見るフィラスの視線にいたたまれなくなり、一番奥の部屋に行く。


 月彩の風景シリーズが、三つ、蛇の海を頂点に三角の形で並んでいる。宇宙と星を背景にした、暗鬱とした気味の悪い油絵だ。わざとなのかデッサンもとち狂っている。なのに、不思議な魅力がある。


 その魅力を、薔子の手腕を認めたくなくて、絵を見ないように努めて額縁を拭いていく。


 私はただただ狭量で、どこまでも醜いのだ。

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