5:メイ・イブ

 数日が過ぎても、結局、警察に被害届は出せなかった。二つの海が盗まれたことを知っているのはフィラスだけだ。衛東えとうにはなんとかごまかしておいた。でも、それも時間の問題だろう。


 衛東と薔子しょうこはプライベートで会うことが多いという。薔子に直接、衛東が残りの二枚を要求すれば、妹は嬉々としてギャラリーに来るだろう。そうしたら、私は。


「百合、大丈夫ですか」

「ええ……ありがとう、フィラス。あなたこそ腕は平気?」

「大丈夫。俺、体は強いです」


 そう、と曖昧にうなずいて、私はため息をついた。執務室のソファに座るフィラスが、何かを言いたげな顔でこちらを見ていることに今、気付く。


「どうしたの? 何か言いたいことがあるの?」

「俺……」


 珍しく言いよどむフィラスは、どこか辛そうにしている。悩んでいるような、苦々しい表情につい目を瞬かせた。


「百合。あの絵も、眼鏡も、よくないものです」

「え……眼鏡?」

「はい。絵はまだ、いいかもしれない。でも、眼鏡、あれはだめ。百合、あれを叩き壊して」

「叩き壊せって言われても……いきなりどうして」


 フィラスの言葉に困惑した。だめと言われても理由がわからない。それにもう、私の手元にあれはない。薔子のものになってしまっている。それを奪い返すなんて真似は、到底できそうになかった。


「あれは、特別なガラスでできてます。偉いやつが小さく作った。大きなガラスを、特別な手法で。俺はそれ……魔法のガラスだと思って、盗んでしまった」

「盗んだ、って……」


 衝撃で上手く言葉が出てこない。盗み、そんなことをする人間だとは思えなくて、ペンを走らせる手を止めてしまった。フィラスが懺悔するように唇を噛みしめ、独白するままに任せる。


 フィラスは頭を振る。辛そうに、これ以上ないほど、悲惨な顔で。


「俺たち一族は、あれをレンのガラス……ムーン=レンズと呼びます。それは神様を呼ぶもの。そしてあの絵はきっと、その地図」

「神様? 絵が、地図? 待ってフィラス。意味がわからないわ」

「百合、あの眼鏡、今はあなたは持ってない。そうでしょう?」


 図星を突かれ、私は肩を落として素直にうなずく。


「百合には何も見えなかった。でも、薔子には見えた。きっと波長が合ったからです。薔子の絵を見て、なんとなく思った」


 神様、ガラス、地図――馬鹿馬鹿しいおとぎ話。私はそう感じたけれど、座ったままのフィラスの顔は真剣そのものだ。フィラスは外国人だから、神様なんてものを本気で信じているのだろう。


 そんな風にも感じながら、なぜか問いただすことをやめられない。


「確かに私には何も見えなかったわ……じゃあ、何? あなたたちの神様を呼ぶ地図を、絵として薔子が描いていたというの?」

「そうです。その神様、俺、怖い。降りればきっと」

「降りれば……?」


 その先を紡ぐことを拒絶するように、フィラスはぎゅっと目を閉じた。手を組み合わせ、よく見ると額に汗まで掻いている。


 その神様というのが、イエス様だとかそういう類いではないことを、私は悟る。そうでなければ、ここまで恐れる必要はないだろう。でも私にはピンとこなくて、戸惑うばかりだ。


 小首を傾げる私へ、フィラスが目を開け、視線をよこした。


「百合、頼みます。あの眼鏡だけは、壊して下さい」


 何も言えず、笑うこともできず、真摯な眼差しをただ受け止める。


「薔子も、危ないのね?」

「はい」


 言われて、私の心に魔が差す。


 このまま放っておけばいい。自業自得。そんな言葉ばかりが繰り返し、繰り返し、頭の中で踊る。


 両親が死に、それからはずっとあの子の面倒を一人で見てきた。わがままで、傲慢で、人を見下しているあの子。妹を見捨てたら、私はきっと楽になれる。甘い誘惑。甘美なささやき。


 でも、それでいいのだろうか。幼い頃、私の後ろばかりを追ってきた薔子のことを思い出す。花畑の中、拙い手で花の冠を作ってくれた時のこと。怖い夢を見たと、私のベッドに潜りこんできたこと。その温もりをまだ覚えている。


 実は誰よりも怖がりで、臆病な薔子は粉飾しなければ生きていけない。そのことを知っているのは私だ。この世でただ一人、私だけ。見捨てることなんて、できやしない。


「……電話、かけてみるわ」


 私は携帯を取りだし、薔子に直接連絡を入れた。


 けれど、出ない。留守電になってしまった。私は急ぎ通話を切って、椅子から立ち上がる。


「家に戻るわ。絵を描いているのかもしれないし」

「俺も、行きます。こうなったの、俺のせい」


 フィラスにうなずき、ギャラリーを閉めて私たちは家に戻った。


 けれど、どこにも薔子の姿はなかった。リビング、寝室、風呂場。もう陽は傾いているというのに、あの子はどこに行ったのだろう。残ったのはアトリエだけで、フィラスと共に中に入った。


 描きかけの絵や絵の具が散乱していて、窓には割れた形跡はない。いつもの様子に、少し安堵する。


「百合、あれ。サイドボード」


 転がっているスプレー缶を、なぜかたくさん鞄に詰めこんでいたフィラスが、気付いたように指さす。そこには白い封筒があった。手紙だろうか。申し訳ないと思いながら、それを読む。


 衛東からだった。月彩つきさいの風景について話したいことがある、と書かれていた。景観塔にて待つとも。


「景観塔……そこだわ、きっとそこに薔子はいる」

「今日は新月。五月の新月メイ・イブだ。早くしないと、神様が来る」


 焦りを滲ませた声音は、どこまでも真剣だ。


 私は神様なんて知らない。信じたこともない。でも、悪いことが起きそうな気がして、フィラスを連れ、すぐに景観塔へと向かった。

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