6:千ノ仔ヲ孕ミシ森ノ黒山羊

 こめかみをさいなむ頭痛がして、あたしは目覚めた。黒と白とが混ざったマーブル模様の床、そこに倒れていることにようやく気付く。


「あれ……」


 体の自由がきかず、ふわふわとした感覚が心身を襲う。力が入らない四肢をなんとか駆使し、上半身だけを起こした。頭を振る。霞ががったように思考が上手く働いてくれない。


 確か、衛東えとうから手紙を預かってきたという運転手。そいつの車に乗った。勧められるままに飲んだシャンパンで、つい悪酔いしたのだろうか。よく思い出せず、朦朧としたまま辺りを見渡す。


 三つの絵があった。あたしの絵。月彩つきさいシリーズの三つだ。均等に、三カ所に置かれている。それが仄暗く、月のように光っていた。蛍光塗料なんか使っちゃいないのに。どこかとても不気味で、思わず視線を逸らした。


 外はもう夜だ。月明かりもない。ガラス張りになっている窓の外からは、町の明かりがポツポツと見える。


「ここって、あたし……」

「おや、お目覚めですかな。薔子しょうこさん」


 目の前の階段、そこから足音と共に衛東の声がした。後ろに運転手を伴って現れた衛東は、相変わらずの笑みを浮かべている。優しげな老人の顔。でも、なんだろう。黒い瞳が爛々と輝いていて、どこかいつもと違うようにも見えた。


 一抹の不安をかき消すように、あたしは衛東を睨みつける。


「ここって景観塔? 呼び出しといて何? 体も動かないし」

「まだドクター・ドリームが効いておるようですな。いや、何。我らの叡智を、少し分け与えただけのことですよ。いい夢は見られましたかな?」

「ドクター・ドリーム……? まさか、シャンパンに?」


 衛東はうなずく。きっと、薬のようなものなのだろう。一服盛られた事実に、背筋が寒くなった。薬には一回も手を出したことはない。それもあり、段々と怒りがこみ上げてきた。


「どういうつもりよっ、衛東!」

「そう怒らないで欲しいですな。敬意を示しただけですぞ。二〇〇万を渡したのもそうですが、我らが一族、チョー=チョー人が作り上げた貴重な薬の一粒。さぞやよい夢、幻覚を見られたはずなのですから」


 あたしは口ごもる。そんなことはない。夢で見たのは昔の、甘ったるい記憶だった。花畑で家族四人、笑いあった頃の夢。


 体はまだ動かない。あたしはただ、衛東を睨むことしかできず歯痒かった。一発ぶん殴ってやりたい気持ちなのに。


 衛東が一人、あたしの方に向かってくる。不躾に顎を掴まれた。見開いた目は黒曜石よりも深い黒で、視線だけで背筋が粟立つ。


「いやはや、あなたには心から感謝しておるのですよ。我らの神、その存在を絵という形で広く、世間に知らしめてくれた。千の仔を孕みし森の黒山羊。我らが偉大なる神をあなたは絵として描いた」

「何よそれ……あんたらの神様なんて知らないわよ……!」

「あの裏切り者が眼鏡を盗んだ際、早く殺しておこうと思ったのですがな。この国では不幸中の幸い、というのでしたかな」

「裏切り者って……」

「フィラス。あの痴れ者。神を拒み、恐れる愚かな男のことですよ。塔の支柱になるということすら放棄した裏切り者めが。しかし、まあ、眼鏡もあなたという才女に渡り……絵画という形で、無意識に我らが神を人々は認識した」


 めくれた唇から腐臭のような香りがして、思わず顔を背ける。けれど衛東の力は思った以上に強く、強引に元に戻された。


「あたしはただ、インスピレーションであの絵を描いただけよ……」

「それこそ我らが神の御業。あなたと波長が合っただけのこと。所詮あなたは、あの方の思念を読み取っただけ」

「ふざけんなっ! あれはあたしの才能だ!」

「ほほ、かわいそうな方だ。さしずめ孤独なあやの女王、とでも名付けたいところですが。そろそろお喋りは終わりにしましょうか」


 途端に突き放され、あたしはまた床に倒れこむ。こちらを見下ろす衛東の目はどこまでも冷たく、奥には哀れみすらあった。


 悔しく、同時に怖かった。才能を否定されたこと、これから何が起こるのかわからないという不安。それらがない交ぜになって、心臓の脈を速くする。


 体は少し、薬が切れたのか動きそうだ。でも、代わりに運転手が衛東の横に立ち、あたしを監視するように見つめてくる。逃げるにはどうしたらいいのだろう。頭が上手く働いてくれない。


「この塔は、レンのガラスというものを使って作られておりましてな。我が神を呼び出すために建てた代物なのですよ」


 恍惚とした、陶酔しきった衛東の声が大きく、空間に谺する。狂ってる。神だのなんだのと、こいつは狂いきっている。


 それしかわからないまま、また上半身を起こしたあたしの前で、運転手が大きなナイフを取りだした。どくんと心臓がまた、脈打つ。殺される? あたしはここで、死ぬ? そんな想像ばかりが膨らむ。


 だが、怯えたままのあたしを無視するように、ナイフは別のものを切った。運転手が切り裂いたのは、自分の左手首だった。ぼたぼたと血が滴る音がする。鉄臭い匂いもする。


 苦悶の顔すら浮かべず、運転手はそのまま機械のように動いた。あたしを中心にして、床に血で紋様を描いていく。絵を囲むような三日月の紋様を、三つ。


「苦労、苦労。ぬしの献身と犠牲は神の降臨によって報われよう」


 衛東はただ笑う。よほど深く切り、失血がひどいのか、運転手は床の端に倒れた。全身が痙攣し、それでもその顔は無表情のままだ。


 絵の発光がひどくなり、満月のような輝きで部屋が満たされる。


 ――怖い、と思った。神様とかわけのわからないものより、目の前にいる衛東が。絵のことが。そして、ざわつくような空気が。雰囲気、いや、何かの気配が確かにする。絵から、血の紋様から、ありとあらゆる場所から。


 何かがこっちを、見ている。


 初夏なのに震えが止まらない。寒い。怖い。


「……助けて」


 怯え、おののくあたしをよそに、衛東が杖を投げ捨てて叫んだ。


「イア! イア! シュブ=ニグラス! 千匹の仔を連れた――」

「助けてっ、!」


 堪らずに悲鳴を上げた瞬間だった。


 衛東の背後で炎が上がったのは。

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