6:千ノ仔ヲ孕ミシ森ノ黒山羊
こめかみを
「あれ……」
体の自由がきかず、ふわふわとした感覚が心身を襲う。力が入らない四肢をなんとか駆使し、上半身だけを起こした。頭を振る。霞ががったように思考が上手く働いてくれない。
確か、
三つの絵があった。あたしの絵。
外はもう夜だ。月明かりもない。ガラス張りになっている窓の外からは、町の明かりがポツポツと見える。
「ここって、あたし……」
「おや、お目覚めですかな。
目の前の階段、そこから足音と共に衛東の声がした。後ろに運転手を伴って現れた衛東は、相変わらずの笑みを浮かべている。優しげな老人の顔。でも、なんだろう。黒い瞳が爛々と輝いていて、どこかいつもと違うようにも見えた。
一抹の不安をかき消すように、あたしは衛東を睨みつける。
「ここって景観塔? 呼び出しといて何? 体も動かないし」
「まだドクター・ドリームが効いておるようですな。いや、何。我らの叡智を、少し分け与えただけのことですよ。いい夢は見られましたかな?」
「ドクター・ドリーム……? まさか、シャンパンに?」
衛東はうなずく。きっと、薬のようなものなのだろう。一服盛られた事実に、背筋が寒くなった。薬には一回も手を出したことはない。それもあり、段々と怒りがこみ上げてきた。
「どういうつもりよっ、衛東!」
「そう怒らないで欲しいですな。敬意を示しただけですぞ。二〇〇万を渡したのもそうですが、我らが一族、チョー=チョー人が作り上げた貴重な薬の一粒。さぞやよい夢、幻覚を見られたはずなのですから」
あたしは口ごもる。そんなことはない。夢で見たのは昔の、甘ったるい記憶だった。花畑で家族四人、笑いあった頃の夢。
体はまだ動かない。あたしはただ、衛東を睨むことしかできず歯痒かった。一発ぶん殴ってやりたい気持ちなのに。
衛東が一人、あたしの方に向かってくる。不躾に顎を掴まれた。見開いた目は黒曜石よりも深い黒で、視線だけで背筋が粟立つ。
「いやはや、あなたには心から感謝しておるのですよ。我らの神、その存在を絵という形で広く、世間に知らしめてくれた。千の仔を孕みし森の黒山羊。我らが偉大なる神をあなたは絵として描いた」
「何よそれ……あんたらの神様なんて知らないわよ……!」
「あの裏切り者が眼鏡を盗んだ際、早く殺しておこうと思ったのですがな。この国では不幸中の幸い、というのでしたかな」
「裏切り者って……」
「フィラス。あの痴れ者。神を拒み、恐れる愚かな男のことですよ。塔の支柱になるということすら放棄した裏切り者めが。しかし、まあ、眼鏡もあなたという才女に渡り……絵画という形で、無意識に我らが神を人々は認識した」
めくれた唇から腐臭のような香りがして、思わず顔を背ける。けれど衛東の力は思った以上に強く、強引に元に戻された。
「あたしはただ、インスピレーションであの絵を描いただけよ……」
「それこそ我らが神の御業。あなたと波長が合っただけのこと。所詮あなたは、あの方の思念を読み取っただけ」
「ふざけんなっ! あれはあたしの才能だ!」
「ほほ、かわいそうな方だ。さしずめ孤独な
途端に突き放され、あたしはまた床に倒れこむ。こちらを見下ろす衛東の目はどこまでも冷たく、奥には哀れみすらあった。
悔しく、同時に怖かった。才能を否定されたこと、これから何が起こるのかわからないという不安。それらがない交ぜになって、心臓の脈を速くする。
体は少し、薬が切れたのか動きそうだ。でも、代わりに運転手が衛東の横に立ち、あたしを監視するように見つめてくる。逃げるにはどうしたらいいのだろう。頭が上手く働いてくれない。
「この塔は、レンのガラスというものを使って作られておりましてな。我が神を呼び出すために建てた代物なのですよ」
恍惚とした、陶酔しきった衛東の声が大きく、空間に谺する。狂ってる。神だのなんだのと、こいつは狂いきっている。
それしかわからないまま、また上半身を起こしたあたしの前で、運転手が大きなナイフを取りだした。どくんと心臓がまた、脈打つ。殺される? あたしはここで、死ぬ? そんな想像ばかりが膨らむ。
だが、怯えたままのあたしを無視するように、ナイフは別のものを切った。運転手が切り裂いたのは、自分の左手首だった。ぼたぼたと血が滴る音がする。鉄臭い匂いもする。
苦悶の顔すら浮かべず、運転手はそのまま機械のように動いた。あたしを中心にして、床に血で紋様を描いていく。絵を囲むような三日月の紋様を、三つ。
「苦労、苦労。ぬしの献身と犠牲は神の降臨によって報われよう」
衛東はただ笑う。よほど深く切り、失血がひどいのか、運転手は床の端に倒れた。全身が痙攣し、それでもその顔は無表情のままだ。
絵の発光がひどくなり、満月のような輝きで部屋が満たされる。
――怖い、と思った。神様とかわけのわからないものより、目の前にいる衛東が。絵のことが。そして、ざわつくような空気が。雰囲気、いや、何かの気配が確かにする。絵から、血の紋様から、ありとあらゆる場所から。
何かがこっちを、見ている。
初夏なのに震えが止まらない。寒い。怖い。
「……助けて」
怯え、
「イア! イア! シュブ=ニグラス! 千匹の仔を連れた――」
「助けてっ、
堪らずに悲鳴を上げた瞬間だった。
衛東の背後で炎が上がったのは。
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