7:振リ向カナイデ

薔子しょうこ!」


 点火棒ライターとスプレー缶で衛東の背中を燃やしたフィラス、二人の側を横切り、私は薔子の元に向かって走った。焦げ臭い、人体が燃える匂いが胃を痙攣させ、酸っぱい胃液がこみ上げてくる。


 へたりこむように座り、泣きながら肩を震わす薔子を抱きしめた。


「怖い、お姉ちゃん、怖い」

「うん、うん。もう大丈夫よ、私がいるから大丈夫」


 子供みたいに泣きじゃくる薔子を慰めながら、背中へ吹きつける熱風に耐える。振り返れば、フィラスが恐ろしい形相で衛東えとうへ炎を吹きかけていた。


 絶叫を発し、ふらつきながら悶え苦しむ衛東。塔の最上階を炎の明かりが照らしている。でも、それより明るい輝きが辺りに充満していることに気付いて、その光源を思わず探した。


 三つの絵が瞬いている。地図と呼ばれたあの絵。その側には血を流し、倒れている男の姿があった。


 申し訳ないけれど、男のことは気にしちゃいられない。


「薔子、立てる? すぐにここから逃げて」

「やだ。お姉ちゃんと一緒にいる。怖い。一人にしないで」


 幼児のようになった薔子を見捨てることもできず、困りきり、もう一度フィラスの方を見た。


 フィラスの近くに衛東は倒れていた。顔を焼け焦がされた衛東の姿はむごたらしく、顔を背けてフィラスを呼ぶ。


「フィラス、これからどうすれば……」


 その瞬間だった。


 絵から放たれた光が一直線上に集まり、天上のガラスを照らす。途端、暗緑色の靄が頭上に現れる。泡立ち、爛れているような靄が。吹き出す冷気と生温い風。ゲル状の泡が滴り、床を溶かした。蔦のようなものが伸び出て、天上のガラス全体を覆っていく。


 全身が総毛立ち、私はその場に釘付けになる。何かわからない、恐ろしいもの――いや、理解してはいけないものが、来る。


 薔子の悲鳴にも反応できず、私は広がる靄をただ眺めていた。


 神。あれを神と呼ぶのなら、この世のドブをこり固めて崇めた方がいい。


「百合っ、見るな!」


 叫んだフィラスが、再び炎で絵画の一枚、泡の海を焼いた。


 刹那にして蔦の伸びる勢いが止まる。泡立ったゲルがそこら中、小雨のように降り注ぎ、我に返った私は慌てて薔子を立たせる。


 端に寄る私たちを見たフィラスは、続いて蛇の海を焼いていく。人の肌をも溶かす酸性のゲルに怯まず、一心不乱に道具を使って。融解していく絵は光を失い、その度に靄が若干、縮んでいく気がした。


 でもまだ、最後の一枚が残っている。賢者の海。奥にある一枚をまるで守るかとするように、滴るゲルの量が多くなる。それを受け、フィラスの腕からスプレー缶が落ちた。


 フィラスを狙い撃ちするかのように、ゲルの雨は増え続けるばかりだ。このままじゃ絵が燃やせない。


「……いい? あなたはここにいるのよ、薔子」


 返事はない。薔子はまるで、自失したかのように天上を見つめ続けている。もしかしたら気絶しているのかもしれないが、その方が都合がいい。


 怖い、その気持ちを押し殺し、フィラスの元まで走る。泡によって自分の皮膚が、髪が、焼け爛れていく。どうしようもなく痛く、恐ろしい。でも痛覚で思考は逆に、はっきりとしてきた。


 奇跡的に無事だったスプレー缶を拾い、うずくまるフィラスの手を握る。フィラスが頭を振った。苦痛を堪えた顔で。


「だめです、百合。逃げて」

「あなただけに任せられないわ。薔子の責任は、私の責任よ」


 肩に、腕に、頭にゲルが降りかかる。火傷した時の痛みより、遙かに鋭い痛みが私を襲う。でもきっと、絵を燃やせば。


 震えるフィラスの手と自分の手を合わせ、賢者の海に向かってスプレーを噴射する。同時に、着火。けれど――


 まるで絵画に吸いこまれるように、炎が消えた。


「どうして!?」

「衛東……いや、チンドゥーの呪文、不完全だった。出てこようとしてるの、神様じゃない。黒い仔山羊だ。火は……効かない」


 私の叫びにフィラスは苦悶を堪え、ささやく。


「どうすればいいの? どうしたら上の靄は消えるの?」

「絵は地図、同時に扉。異界への道しるべ。百合、あの絵を見て下さい。絵の中でも靄が月を隠してる。新月は、だめだ」

「じゃあ……」

「俺、絵の中に入ります。そして靄を直接燃やす。それしかない」


 絵の中に入るだなんて真似、と言おうとしてやめた。先程から、信じられないようなことが起きている。一縷の望みがあるなら、どんなに現実離れしていることでも受け入れなければ。


「……私も行くわ」

「だめです。普通の人、入れば狂う。戻ってこられない」

「そうね、そうだと思ったけれど。それはあなたも一緒でしょう?」


 こうして話している間にも、ゲルは私たちを苛み続けている。悔しげに唇を結ぶフィラスへ、私は苦痛を堪えて笑った。


 考えてみれば狂気の沙汰だろう。もうすでに狂っているのかもしれない。正義感からでもなく、義務感からでもなく、ただただ本能のままに私は動いていた。ちっぽけな、人としての良心。


 いや、そんなものじゃない。単に薔子へ植え付けたかった。私という存在を。私のことを軽んじていた薔子の心に、どうしようもないほどの重しを括り付けたいだけなのだ。


 こんなときまでも醜悪な私は、苦痛を堪えて振り返る。薔子の方へ。


「薔子、よく聞いて。その眼鏡は燃やすのよ。そしてもし、もう二枚の絵画が戻ってきたら、それも同じようにするのよ」


 薔子がゆっくりとこちらを見た。虚ろな表情と視線のまま。私は必死に優しい声を作り、また同じ言葉を繰り返す。二回目でようやくわかってくれたのだろう。薔子は微かにうなずいた。


 ゲルの勢いが激しくなった。音を立てて肉が焼かれていく。限界が近い。


「行きましょう、フィラス。きっとこの靄は、この世に出てきちゃいけないものだわ。私を導いてちょうだい。この靄を消すために」

「……わかった。百合、俺の手、離さないで下さい」


 言われたまま、フィラスの小さい手を握りしめる。


 そして私たちは、ためらいもせず、振り向くこともなく絵画の方へと飛んだ。


 ――絵が光り。


 ――真っ白な閃光が走り。


 ――景色が歪み。


 ――走馬灯のように流れた記憶が、黒に塗り潰され。


 ――私は。


 ――ワタシ は。

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