8:ソシテ月ノ狂気ニ満チル
あたしは今日も月の絵を描く。
もう何日、こうしているのか自分でもわからない。それでも手を止められず、水だけを飲んで絵を描き続けている。
あの夜、景観塔で靄が消えたあと、あたしは我に返った。手元に残ったのは一枚の絵画だ。そう、賢者の海と銘打った代物。でもその絵は、あたしが描いた時とは大幅に変わり果てている。
深い夜の中、ストーンサークルに囲まれた場所にいる二人の人物。百合とフィラス。満月の月明かりの元、百合たちは怯えた表情で靄と対峙している。
その表情は、あたしのかけている眼鏡からもよく映った。まるで、目の前に現れたかのような――立体映像みたいな形で。
靄が動く度に二人も動く。炎が舞い散る時もある。絵画の様子が様変わりしているのを、あたしは苦々しい思いで見ていた。
「百合の側にいていいのはあんたじゃない」
ささやいて、絵画を睨む。そう、フィラス。あんたが百合の側にいるのは許されない。
百合、ねえ百合。あたしの可愛いお姉ちゃん。どうしてあたしを置いて行ってしまったの。振り返らず、一目散に。フィラスなんかと一緒に。
あの夜あたしは言った。一人にしないでと。なのに、百合。お姉ちゃん。あんたはあたしを裏切った。あたしは一人。今は一人。
あんたがいなくなった時、あたしじゃなくフィラスを選んだあの時、凄く、凄く虚しかった。でも同時に思った。あの行動はきっと、いつものように、あたしを守るためにしてくれものなんだって。
だけど、そんなもの望んじゃいない。馬鹿な姉。あんたがいなきゃあたしが輝かないことに、どうして気付かないんだろう。
あたしたちはコインのようなもの。太陽と月。表と裏。
今ならわかる。失ってはじめて理解する。百合は月なんかじゃない。あたしこそ月で、百合こそが太陽なんだという事実を。
欠けてはならないものを失って、あたしがどれだけ寂しいか、ねえ、わかる?
「わかんないでしょうね、お姉ちゃん。だからあんたは馬鹿なのよ」
呟いて、賢者の海を見つめた。
明るかった部分――月の部分に、うねった靄と触手が浸食しはじめている。その速度は、あたしが新たに絵を描く都度、早くなっていた。
賢者の海を横に、新しいカンバスへ描いているのは同じ絵柄だ。けれど、新しい絵の方には二人はいない。百合たちを描こうとしても構図がころころと変わるのでは、無理だ。
でも、その他は同じ。眼鏡が映し出してくれる景色、賢者の海の背景を忠実になぞり、全く同じ場所を新たに紡ぎ上げていく。筆は捗り、留まることを知らない。この調子なら、今日の内に完成させることができるだろう。
面倒なことは、いつも百合が、お姉ちゃんがやってくれた。身の回りの世話からギャラリーの経営、ローンの返済。でも、もうそんなものすら気にかけなくていい。
あの冒涜的なほど恐ろしい代物、衛東が神だといっていたあれ。それを見た瞬間、あたしは心を奪われた。
「ふふ」
つい、笑い声が漏れる。
あの蔦、触手に絡まれたなら。泡の一滴にまで身を浸すことができたなら。それはどんなに辛くて、気持ちよくて、痛くて、心地よいのだろうか。想像するだけで身震いしてしまう。
それだけじゃない。百合と共に溶けてなくなる感覚を共有したい。靄によって、あたしたちは身も心も蕩けて、一緒くたになっていく。想像が胸を昂ぶらせてどうしようもなかった。
百合、大事なあたしの片割れ。愚かで可愛いあたしの姉。
あんたがあたしを裏切ったなら、あたしもあんたを裏切るだけ。
「いいのよ、百合。そんなところも可愛いって思ってるんだから。あたしたちは一つになりましょ。フィラスなんかじゃなく、あたしと一緒になるべきだって、ちゃあんとわからせてあげるわ」
この眼鏡も絵も、あんたへの道案内。燃やすことなんてできない。
あたしが側に行ったなら、百合はどんな顔をするだろう。絶望? 失望? ただ呆然とするかもしれないな。
なんでもいい。百合と共に、少しずつ苦しみながら息絶えたい。それはとても幸せなことだろう。
思いを馳せて時は過ぎ、ついに絵は完成した。
気付けば夜になっている。電気もつけずにあたしは、ほの暗く輝く二枚の絵画を交互に見比べた。光りは少しずつ白くなりはじめ、とりわけ、新しく描いた方の瞬きが目立つ。
賢者の海の方では、すでに靄が月を覆い隠していた。まるで、新月の夜のように。これで準備は整った。
キッチンから取りだしておいた包丁、それを持ち、表面の冷たさを堪能する。これはフィラスにあげよう。早くあいつの心臓に突き立てたい。あたしから姉を奪った男に断罪を。
絵画からじんわりと溢れ出る冷気、生温い風。混ざり合った空気は硫黄のような匂いがして、景観塔であった出来事を思い出させる。
あたしは笑う。心からの、こんな笑みを浮かべたのはいつぶりだろう。
「いあ、いあ」
途中まで覚えていた、衛東の詠唱のようなものを唱える。
光りが広がる。
「シュブ=ニグラス」
体が、少しずつ絵画の方へと引き寄せられていく。
――待っててね。
「千の仔を連れた――」
お姉ちゃん。
――今、行くからね。
そして月明かりのような輝きに、あたしは陶然と目を見開いた。
【完】
月にあらざる彩の女王 実緒屋おみ@忌み子の姫は〜発売中 @mioomi_2432
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます