3:海ハ盗マレタ

「さて、風間さん。賢者の海はお幾らで売ってくれるのですかな?」


 腰の曲がった老人は、杖で床を叩きながらにこやかな笑みを私に向けてくる。少し黒みがかったしわくちゃの顔に、小首を傾げた。


「本当にあれを買う気ですか、衛東えとうさん」

「もちろんですとも。いや、なんなら全てのシリーズを買い取りたいのですがね、妹さんがなかなか首を縦に振ってはくれんのですよ」


 机を挟み、茶を啜る老人――衛東は薔子しょうこのパトロンだ。初期の抽象画から風景画、それらを買ってくれるお得意様でもある。そして、景観塔を建てるのに出資した富豪。でも、付き合いはあまり長くない。この町に来てそう長くはないのだ、彼は。


「薔子があれを売りたがらない、というのははじめて聞きました」

「あれだけの代物だ。手元に数枚置いておきたい、という気持ちがあるのでしょうな。気持ちはわかりますぞ」

「呪われている、という絵画でも?」

「気にはなりませんな。偶然が重なっただけでしょう」


 私はワンピースの膝部分を、自然に握っていた。本当に偶然なのだろうか。そんな疑問が頭から離れなかった。


 それでも食べていくためには、あの絵画を売らなければならない。画材費だって馬鹿にならないし、家のローンだってまだ残っている。打算と不安が交錯して、心の中がどうしようもなくざわめく。それを押し殺し、自然に微笑んでみせた。


「衛東さんはお幾らで、賢者の海を買うおつもりでしょう」

「ふむ、そうですな。薔子さんの名は界隈にも広く知られはじめておる。悩みますが……」


 衛東はここ、二階の執務室にある窓を遠く眺めた。開けっぱなしにしている窓から、木々のざわめきだけが大きく響く。


 しばらくして、衛東がより深く笑った。


「二百万、ですかな」

「え……」


 予想より遙かに巨額の金額を呟くように言われて、私は驚いた。


「おや、高すぎましたかな? だが、あの絵にはそれだけの価値はある。薔子さんの将来性を見ても、妥当な金額だと思いますが」

「そう……ですか」


 将来性。そんなものすら私にはない。それを買われる感覚は、一体どんなものなのだろう。高揚? それとも、衝撃? 考えても答えなんて出なくて、静かに茶を飲むことしかできなかった。


「もちろん現金で払いますぞ。他の月彩つきさいも売ってくれるというなら、その倍は出すつもりですが」

「そ、それは嬉しいです……でも他の月彩シリーズは、妹の承諾を得てからでないと……」

「そうですな、今度、薔子さんを直に口説くことにしますか」


 衛東の言葉に愛想笑いを浮かべ、ゆっくり立ち上がった瞬間だ。


 ――一階の方で、何かが割れる音がした。


「今の……?」

「おや、どうかしましたかな」


 老人である衛東には聞こえないほどの、小さな音。扉を閉めていたから私にもごく僅かにしか聞こえなかったけれど、それでも耳に、確かに入ってきた。


「すみません、衛東さん。少しお待ち下さい」

「ええ、待ちますとも」


 衛東に一言おいて、私は急ぎ足で執務室から出た。


 吹き抜けになっている場所から下を見る。一階に客はない。奥の部屋はどうだろう、ここからでは見えなくて、私は階段を降りた。下にはフィラスがいたはずだけど、そう思いながら。


 怖いくらいの静寂の中、周囲を見て回る。風景画を主に飾っている玄関口やバルコニーに変化はない。とすれば、裏口だろうか。


「フィラス、いるの? 返事をして、フィラス」

「百合、俺、ここです」


 月彩シリーズが飾られている部屋の横、裏口に続く通路からフィラスが現れた。細い右腕には血の跡があって、思わず口を手で覆ってしまう。


「どうしたの、その怪我。一体何があったの?」

「盗まれた」

「えっ?」

「誰かに、絵を、盗まれました。あの不気味な絵の二つ」


 顔が青ざめるのが、自分でもわかった。それでも先にフィラスの無事を確認してしまう。見たところ、幸いにも彼の怪我は大したことがなさそうで、シャツを破って止血もしてあった。


「フィラス、その絵ってまさか……」

「こっち。あの部屋のもの」


 フィラスが指を差したのは、月彩シリーズが飾られている部屋だ。ばくばくと鼓動が鳴る。急いで中に入ってみると、部屋の正面にあったはずの絵――蛇の海と泡の海が、ない。


「嘘……」

「誰か、来ました。裏口の扉破って来たから、追った。でも、俺、ナイフで切られて、それで」

「いいの、あなたが無事なら。そ、それにまだ一枚、残ってるもの」


 口から出任せばかり飛び出る。これは完全な窃盗で、警察に電話をしなければならないだろう。いや、それよりも二つの海だ。薔子の傑作が盗まれたことに、私は背筋が凍りついた。


 曰く付きだから、誰かが噂を聞きつけて盗みに入った。それが恐ろしいのではない。薔子が怖かった。このことを話したら、薔子は怒り狂うだろう。犯人にではなく、私に。


 なくなった二枚、欠けた三角を見つめて一人佇む。衛東のことも、フィラスのことも忘れてただ、震えた。クーラーが効いているのにも関わらず、冷や汗を流すままにして。

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