第4話





 豪奢な大船団が城から見える港に着岸するのが見えた。

 周瑜は見届けて、振り返る。



「淩操殿、そろそろ袁術が来る。出発された方がいい」



 数日前に、すでに孫権達はここを発った。

 淩操だけは、ごく少ない護衛と共に、袁術の到着を待つ、と言ってここに留まったのだ。

「はい。奥方様が、袁術との謁見を無事に済まされましたら、出発いたします。

 それに、別に何もないならば、私が去る理由もないのですから」

 周瑜は歩き出す。

「……。ありがとう」

 部屋に向かい、翡翠色の深衣に、美しい一振りの剣を身につけた。

 これは十二歳の時、孫策が父親に連れられて初めて洛陽宮で翔貴帝しょうきていに会った時、授けてもらった護剣だ。

 彼はそれを、周瑜にくれた。

 確かに細身の美しい剣は孫策好みのものではなかったが、それ以上に彼は、密かに洛陽宮に縁のある周瑜こそ、これを持っていた方がいいと思って贈ってくれたに違いなかった。


 孫策のそういう、筋を通した優しさが、周瑜は大好きだった。



「伯符……」



◇ ◇ ◇



 玉座の間に、大勢の兵を従え、姿を現わした。

 玉座の側に佇んでいた周瑜を、一際豪奢な衣を纏った男が見据える。

 護衛の兵はすでに剣を抜いていた。

 これが親交の訪問でないことは、明らかである。

 袁術は玉座の隣に佇んだ、美しい女を見て、少し目を見開き、「ほう……」と声を零した。


「噂には聞いていたが。

 確かに美しい。

 江東連合総司令にして、反董卓連合<討逆将軍>孫伯符殿の奥方か?」


「はい。周公瑾と申します。太守殿」

「美しい人は、声も美しいのだな」

 袁術は後ろにいる護衛達を、手を上げて控えさせると、ゆっくり周瑜に歩み寄った。

「――さて。今日私がここに来た訳だが……分かっているか?」

「察するところはありますが、今日お会いして、きちんと貴方の口からお聞きしようと思っていました」

「そうか。では言ってやろう。

 江東連合は北伐で呂奉先の軍とぶつかり、全滅した。

 孫伯符も死んだ。

 江東連合には江東、江南の有力豪族も多く参戦していた。

 その全滅は、この地にまた混乱をもたらすだろう。

 ――そこでこのわたし……江東三郡太守の袁公路えんこうろが、この城をもらい受け、江南の重しとなるべく来てやったのだ」

 周瑜が玉座から離れ、ゆっくりと袁術の許に歩いて来る。

 彼女の腰には剣があったので、袁術の護衛兵が彼女に剣の切っ先を向け、身構えた。

 だが、袁術は女如きに何が出来る、と泰然とそこで腕を組んだ。

「異論があるかな?」


「いえ。三郡太守殿に、全てお任せいたします」


 袁術は腕を解いた。

 周瑜は袁術の前に膝をつき、美しい拱手の構えを見せた。

 一瞬、その美しい所作に目を奪われたが、ハッとして袁術は咳払いをする。

「ほう。……それは素直なことだが……孫家の持つ、寿春、富春、建徳の城を、全てこの袁術に明け渡すというわけか?」

「はい」

 後ろで兵たちも、少しざわついた。

 袁術は辺りを見回す。


「……確かに、ここへ入る時も、護衛の姿がなかったな。

 兵はどうした」


「江東連合全滅の報せを受け、孫家の孫権殿がこの地を離れられましたので、その護衛に参りました。とはいえ、元々伯符殿が大半の兵は引き連れて出兵しましたので、袁術様が気になさるほどの兵は残っておりません」


「なに。孫権が城を出ただと」


 袁術は剣呑な気配を見せた。

「何故、私の許しもなく城を出た」

「身を案じて、私が出るよう、勧めたのです」

 周瑜は言った。

「何の身を案じる? 私が孫権を殺すとでも思ったか?」

「……いえ。貴方ではなく、呉郡の許貢きょこう殿、会稽かいけい王朗おうろう殿など、以前より敵対関係にあった豪族たちが、江東連合全滅の報を受け、孫家を今こそ根絶やしにしようと、攻め来ることを危惧したのです」

 問い詰めようとしたが、返った答えは筋は通っていた。

「ああ……敵の多い男だったからな、孫策は」

 にや、と袁術が笑う。

「そうか……だが、感心はせぬな。

 そなたではなく孫権とやらだ。

 兄が志高く、反董卓連合に参戦したというのに、自分の身が危うくなれば、未亡人となった義姉に全てを任せて自分はさっさと逃げ出すとは。

 勇猛果敢な孫家の血も、二代で終わりか」

 袁術の笑いに、後ろにいる兵たちも嘲笑を重ねた。

 周瑜は何も言わなかった。

 こういう声とも、これから孫権は戦わなくてはならない。

 孫権の美しい、青い瞳を思い出す。

 

 きっと大丈夫だ。

 彼は勇敢に戦ってくれる。 


「……ふん。まぁいい。孫家の子倅など、いざとなればどうとでも出来る。

 それで、無血開城をすると言っているのに、そなたは帯剣をしておるが。

 この城が袁術のものになった以上、自分の立場がよく分かっているのか?」


 高圧的に男は言い、周瑜の側にやって来ると、顔を伏せていた周瑜の顎を掴んで上向かせた。

 彼女は目を伏せている。

「目を開けろ。私を見るのだ」

 周瑜はゆっくりと目を開く。

 袁術を見上げた。


 ――この美貌。


 袁術の口許に、暗い笑みが浮かぶ。

 一瞬、もし孫家が城を明け渡さなければ、兵をけしかけて城を落とし、この女もあからさまな虜囚に出来たものを、と思ってしまった。

 後ろの兵も、周瑜の上げた顔にざわめいたのが分かった。

 今この女は、たった一人、この袁術軍の最中にいるのだ。

 虜囚の女ならば、どのように扱おうが世に憚らなかった。


(惜しいことをした)


 とはいえ、孫策に義理立てすることもない。

 周瑜は腰の剣を、ゆっくりと抜いて、袁術に向かって掲げる。


「これは、夫が、洛陽宮の翔貴帝に初めて拝謁が叶った時に戴いた宝剣です」


 柔らかな衣に包まれる、女の肢体を上から見下ろし想像していた袁術は、<翔貴帝>の名に、初めて反応した。


「なに」


 袁術はこれまでにも、幾度も帝に拝謁しているというのに、まだ一度もそんなものを貰ったことがない。

「この城を御守する方に、差し上げた方がいいと、身につけておりました。

 ……どうぞ」

「ほう。これはこれは…………」

 袁術は宝剣を掴むと、ゆっくり玉座に向かって、そこに座った。

「……いや、正直な所、そなたの夫である孫策と私は不仲だったので、このような出迎えをされて少し戸惑っているのだよ……。

 そなたと孫策は、江東でも鴛鴦夫婦と有名であったからな。

 さぞや私のことを毛嫌いしているのだろうとな」

「申し訳ありません」

 深く頭を下げた周瑜に、袁術はふと、視線を止めた。


「……うむ、まぁ、そのことはいい。

 不仲とはいえ、お互いに領地を持つ男同士のこと。

 そなたは舒城周家の令嬢であったな?」


「はい。父は洛陽県令の周異ですが、両親が私の幼い時に早世しましたので、叔父の周尚が、我が娘のように育てて下さいました」

「ふむ、そうか……。それは哀れなことだな……」

 袁術は何かを考えているようだ。

 翔貴帝と孫策に、護剣を与えるほどの繋がりがあったことと、周家のことをやはり考えているのだろう。

「――よし。とにかく、無血開城するならばそれでよい。

 私は従兄の袁紹とは違い、無駄な争い事は好まぬ。

 この地は我々の軍が占拠するが、それでよいな」


「はい。江東連合が潰走した今、袁術様に御守りいただくしかありません」


 袁術は満面の笑みを浮かべた。

「そうか。なら良い。

 そなたが孫策から私をどういう人間だと聞いているかは知らぬが、私は決して鬼ではないのだ。とはいえ、私も色々と忙しい。

 この地には軍だけ残し、これより建業に戻る。

 周瑜よ。そなたも共に参れ。

 この地はこれより戦場になるかもしれぬ。

 か弱いおなごが一人残っていた所で、陰惨な目に遭うだけだ。

 だがこの袁術の側であれば、いかなる者でも容易く手出しは出来ぬ。

 感謝いたせ」

 周瑜は深く、袁術の前に平伏した。



(……伯符)



 君はこの光景を見たら、目を輝かせて怒るんだろうな。


(でも……許してくれ)


 もう一度会うためには、これしか方法がない。


(私はここで、君を待っているから)









 君の帰りを、ずっと待っているから。

 





<終>




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異聞三国志【燎原の夜明け】 七海ポルカ @reeeeeen13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ