第3話





「――大敗したそうです」




 袁術は観月の宴で呼び集めた友人たちと、庭の舞台で奏で、踊る楽師達を堪能していたが、ある時騒がしく誰かが入って来たかと思うと、江東連合が涼州に入る手前、漢寿あたりで呂奉先の軍と遭遇し、壊滅したという話を持って来たのだ。

 その場は俄かに大騒ぎになった。

「ふん。孫家の子倅が。大口を叩いていたわりに他愛もない……」

 袁紹と対立し、今回の反董卓連合から脱退した袁術にとって、この報せは愉快だった。

 自分抜きで出来るなどと踏んでいるから、こんなことになるのだ。

 馬鹿は痛い目を見なければ分からないというから、今回のことはいい薬になるだろう。

 袁術が思ったのはその程度のことだ。


(呂布め。どうせなら袁紹を襲えば良かったものを。

 あやつが失敗すれば、帝は今度こそ私を頼らざるを得ん)


 ひとしきり愉快に思ったが、それが過ぎれば袁術はその話に興味を失った。

「放っておけ。

 孫家の子倅が死のうが生きようが、私には関わりない」

 反董卓連合が結成される前から、急速に孫策との関係が冷え切っていた袁術である。

「し、しかし……剛勇で知られた孫伯符を討ち取るとは、呂布も脅威ですな……!」

「小僧が弱かっただけだ。

 父親の孫堅はまだ慎重だったが、息子は短慮で、馬鹿だ」

「けれど江東連合は孫策を総司令に……」

「あんなもの! 奴の力ではないわ!! 妻が三公輩出の名門周家の娘ゆえ、特別に帝が計らって下さっただけではないか!!

 なにが<討逆とうぎゃく将軍>だ! 成人して間もない小僧が!!」

「は、はい……そうでございました……」

 袁術が荒れ始めたので、周囲の人間は目配せを交わし合い、この話は避けよう、という顔をする。

「しかし、……それでは董卓の専横を止めることが出来ないのでは?

 袁術殿……、もし、次がありましたらば、その時は袁術殿が立たれるしかありますまい……。

 さすがは四代三公の……」

 ふん、と面白くなさそうな顔をした袁術だが、ふと一瞬目を瞬かせた。

(三公輩出の……)


「袁術殿?」


「……そういえば、貴公、孫策の妻に会ったと前に申していたな。それは美しい女だったとか」

「は? ……あ、は、はい。それはもう……まだお若く、たしか、孫策殿とは同い年の幼馴染みだと聞きましたな。

 妻と一緒に建徳の城に寄った時に挨拶をなされて……

 いや、さすがは名門周家の御令嬢。

 白百合のように麗しい奥方であらせられた。

 また、ご夫婦仲も大変に仲睦まじいと、有名な……」


「白百合のように、か。」


 袁術が不意に呟き、暗い笑みを浮かべた。

「それは、そのような若い奥方が、こんなに早く未亡人になるとは哀れな……。

 孫堅に続き、長男の孫策までこんな早世をするとは……孫家の徳の低さはともかく、周家の御令嬢には罪はない。

 周家は我々同様、長く漢王室に忠義を尽くされて来た名門。

 そのような悲しい報せを聞いて、さぞ嘆いておられるであろう。

 可哀想に。

 それに、孫策には方々に敵が多い。

 残された奥方の不安、察して余りある。

 ここはひとつ、この袁術が訪問し、声を掛けて差し上げた方が良いかもしれぬ。

 ――そう思わんか? 貴公ら」


 一人、そんなふうにつらつらと喋った袁術が友人たちに同意を求めるかのように尋ねて来る。

 彼らはただ、一様に頷くだけだった。




◇ ◇ ◇


 


 耀淡ようたんはその日、いつもいる寿春じゅしゅんの城から孫権と共に、富春の周瑜の許を訪ねて来た。

 孫策が江東連合に参戦してから、周瑜が富春の城と側の建徳を一人で守っているので、時間があれば訪ねてやっているのだ。

「耀淡どの、ようこそいらっしゃいました」

「淩操殿。ご機嫌いかがですか」

つつがなくやっております」

 孫策が唯一城の守備に残して行ったのが、淩家の淩操りょうそうだった。

 父、孫堅の許でも武勇を振るった、優れた武将である。

 もちろん、人柄と武勇を信頼し、この男なら周瑜を任せられると思ったのだろうが、淩操は妻を早くに亡くし、一人息子しかいない。

 長い遠征となると踏んで、幼い息子を一人にするべきでは無い、と考え、今回孫策は淩操の参戦を見送ったというのもあるだろう。

「そうですか。周瑜は?」

「庭にいらっしゃると思います。

 耀淡殿のお越しを、朝から待っていらっしゃいました。

 呂蒙りょもう。周瑜殿をお呼びして来い」

 耀淡は微笑んだ。

「ああ、よいのですよ。子明しめい殿。

 どちらの庭です?」





◇ ◇ ◇




 周瑜はすっかり色づいた紅葉の木の下で、笛を吹いていた。

 足音が聞こえて来る。

「周瑜」

義母上ははうえ

 周瑜は立ち上がり、義母を迎えた。

 耀淡が周瑜を優しく抱きしめる。

「おいで下さって、嬉しいです」

「まぁ……こちらはすっかり秋ですね」

「はい。赤くなりました」

 過行く季節を、周瑜は夫の帰りを待ちながら、静かに過ごしている。

 周瑜のことは、嫁いできた時から出来た嫁だなとは思っていたのだが、最近更にそう思うようになった。

 この娘のことは幼い頃から知っている。

 孫策とよく姉弟のように遊んでいたからだ。

 その時から、孫策に、良い影響力を及ぼす、類い稀な娘だなと思った。

 孫堅も、そのようなことを言っていた気がする。

 非凡なのだ。

 名門の血筋を引き、非凡な娘だったが、周瑜にはそういう者が持ちやすい、傲慢さが少しもない。

 柔和な物腰で、いつも穏やかだ。

 気性の激しい孫策が、周瑜に惹かれるわけがよく分かる。

 これほど容姿も美しく、まだ若いというのに、周瑜は度重なる孫策の遠征にも文句を言わず、静かに日々を過ごしていた。

 寂しいというような空気を出すことも無く、いつも明るい。


「……秋が過ぎれば、冬が来ます。

 年内に、策が帰ればと祈ってはいますが……。

 貴方にはいつも苦労を掛けますね、公瑾こうきんどの……」


 周瑜は微笑む。

「いつも義母上や淩操殿が気に掛けて、こうして声を掛けて下さるので、平気です。

 それに、庭の手入れや、動物の世話があるので、気が紛れますし」

 周瑜は自分の側に置いていた籐の籠を持ち上げ、耀淡に見せた。

 そこには布に埋もれて四匹の猫が入っていた。

 みゅうみゅうと生まれたばかりの小さな体を震わせている。

「まぁ、可愛らしい。

 また生まれたのですか?」

「はい。つい十日前に」

「あとで香凜こうりんにも見せてやって。

 最近猫を飼いたがっているの。朝から晩まで猫が欲しい猫が欲しいと五月蝿くて。

 一匹分けていただいてもいいかしら」

「どうぞ」

 くすくす、と周瑜が笑っている。

「あの子の動物好きも文台殿譲り。策もそうなのです。

 孫家で動物が苦手なのは権だけなのです」

「? でも、仲謀殿は馬と池の鯉はお好きでは?」

「あら、そうね。鯉は好きだったわね。泳いでいる姿が好きなんですって」

 話していると、孫権がやって来た。

「義姉上、ご機嫌麗しゅうございます」

仲謀ちゅうぼう殿。よく来てくださいました。

 お二人とも、どうぞ中へ……お茶を入れますから、お菓子でも食べましょう」

 周瑜は促し、籠を持ちます、と言った孫権に猫の籠を預けると、三人は仲良く話しながら城の中へと入って行った。




◇ ◇ ◇

 


 夕食を取り、昼間に遊び疲れたらしい香凜を一足先に部屋に案内して寝かせてやりながら、夕食後の時間を、淩操も含めて穏やかに過ごした。

 周瑜と孫権が碁をしているのを、ゆったりと横椅子に座りながら耀淡と淩操が見守り、最近の寿春のことや、身の回りのことを話している。

 年越しはこちらで過ごそうと思うのです、と耀淡が言うと、周瑜は嬉しそうだった。


 本当に穏やかな、家族の時間を過ごしていた時。


 不意に騒がしい足音が聞こえて来た。

 何かを言い合うような声がして、すぐに姿を現わしたのは、建徳に普段駐留している魯子敬ろしけいだった。


魯粛ろしゅくか。どうした、そんなに慌てて」


 淩操が振り返る。

 魯粛は耀淡の姿を見つけると、慌てて一礼をした。

「子敬どの。どうぞお気遣いなく。寿春から遊びに来ただけですから……」

「は、……、その、」

「どうした? 何かあったのか」

 魯粛の顔面は、血の気が引いていた。

 彼は一瞬、周瑜の顔を見た。

「魯粛?」

 遅れて、呂蒙もやって来る。

「それが……、たった今、建徳に報せが届き、こちらに報せに。

 もう、一月前のことになりますが、江東連合が……」

 周瑜が白い碁石を持った手を止めた。


「こ、江東連合が、涼州に入る手前、益州の北の漢寿あたりで、董卓軍の……董卓軍の、呂奉先の軍と遭遇して、交戦状態になり――――、」


 淩操が立ち上がる。



「……全滅したそうにございます」



 孫権は碁石を置く音に、ハッとした。

「魯粛、――……一度、向こうで、」

 立ち上がろうとした孫権の肩を、周瑜が掴んだ。

義姉上あねうえ……」

 一瞬夜色の瞳を大きく見開いた周瑜だったが、今は、じっと窺うように魯粛だけを見つめている。

「詳しく話してください。魯粛殿」

「はっ、それが、」

「魯粛殿!! それどころではありません! その報せを受けた袁術が、建業から兵をあげてこちらに出発したという報せがあるのです!!」

 呂蒙が声を張った。

「なんだと!?」

 孫権が立ち上がる。

「それは本当のことですか、魯粛殿」

建徳けんとくに出入りする商人から、早文が来ました。

 彼は信頼出来る人間です。

 袁術の所にも出入りをして、その情報を私にいつももたらしてくれるのです」

「袁術が建業を発ったのはいつだ!?」

「三日前です。呉郡太守許貢きょこうの領地を迂回して船で来るので、この一週間の内には……」


「……何のために来るのですか」


 耀淡が冷静な声を響かせる。

「奥方様。袁術は孫策殿とは不仲であった。

 全滅の報を受けて、わざわざ悼みに来るような、そんな人間ではありません」

 淩操は言った。

「すぐに孫家としての対応を決めなければ、手遅れになります」

 孫権は狼狽した。

「ま、待ってくれ……淩操殿、孫家としての対応とは、」

 彼は、今の話すら信じられないのだ。


(全滅?)


 全滅とはなんだ?

「魯粛……、江東連合が全滅したとは、どういうことだ?

 兄上は?」

「……。」

 周瑜が俯いた。



「兄上はどうされたのだ!!!」



 孫権の声だけが、虚しく響いた。




◇ ◇ ◇



「……孫権殿があのような状態ですから……、周瑜殿、まことに心苦しいことではありますが」



「いえ……。私は孫策殿から留守を預かっているのですから、判断を任されるのは当然のこと」

 隣の周瑜の背に、耀淡がそっと手を添えた。

 「……とにかく、今夜中に、養父上ちちうえに手紙を書きます。

 急いで舒城じょじょうの周家に届けてもらい、助言をいただきましょう」

 淩操が頷く。

「魯粛殿、策が死んだと、……遺体を見た者がいるわけではないのですね?」

 耀淡は念を押す。

「はい、それは……。ただ、全滅したとだけ伝わってきております」

「では、中には逃げ延びた者もいるでしょう」

「それはいるでしょうが……」

 口に出して、魯粛は唇を結んだ。

 すぐに否定的な言葉を発する、自分を戒めたのだ。

 何でもかんでも人の望みを潰せばいいというものではない。


「今は袁術のことを決めなければ」


「恐らく、この城を奪うつもりでしょう。

 奴は大殿が亡くなった時も、寿春の城は元々自分の領地だと、孫策殿から取り上げようとしたのですから」

「……。」

 音がして、孫権が庭から戻って来た。

 夜風に頭を冷やして来たのだ。


「権。貴方もここに来るのです。皆の話を聞きなさい」


 母親が言うと、孫権は心を秘めた表情で、小さく頷きやって来た。




「……城を明け渡しましょう」




 周瑜が言った。

 全員がさすがに、驚いた顔をして周瑜を見た。


養父ちちには頼める限りのことを頼むつもりですが、孫家のことは孫家のこと。

 すべきことを決めなくてはなりません。

 寿春、建徳、富春の三つの城。

 まず袁術の要求を聞いてのことですが、あの男が欲しいというのなら明け渡しましょう」


「周瑜殿」

「城の守りのほとんどが、江東連合に参戦して留守にしているのです。

 この地の有力豪族は皆そうしているので、大切なこの時期に、江東・江南に混乱をもたらすようなことは誰も考えませんでしたが、この時期に関係ない戦を巻き起こすことに恥も感じない袁術では交渉の余地はないでしょう。

 そんな男でも袁家の軍勢は侮れません。

 兵力では敵うはずもない。抗戦するなど、無理です」

 淩操が押し黙った。厳しい顔だ。

 周瑜の言っていることは正しい。だが心が簡単に頷けない。

 袁術には以前から、孫家への敬意も何も無かった。


「……義母上」


 周瑜が耀淡を見る。

「これは、あくまでも私の考えなので、何か私が誤っていると義母上が思われたら、仰ってください」

 澄んだ瞳で、周瑜は言った。耀淡は静かに頷く。

「私は袁術には会ったことはありませんが、孫策殿から人間性については聞いています。

 彼は嫉妬心や疑心は強いそうですが、自ら剣を取って戦うことはなく、自分の娯楽に時間を注ぎ込むことを好むそうですから、こちらが抵抗の意志を全く見せず、城の門を開けば、無理な戦闘は避けることが出来るかもしれない。

 けれど、そのことは……実際会ってみなければ、どうなるかは分かりません。

 義母上には、来ていただいたばかりで申し訳ありませんが、孫権殿、香凜殿を連れ、城から退避していただきたいのです」

 孫権が思わず顔を上げた。

「城は、無血開城が出来たとして、孫権殿は孫家の血を引く。

 私は、孫策殿はきっと生きていると思ってはいますが、それが万が一叶わなかった場合、孫権殿に何かあれば、孫家を継げる人間がいなくなってしまう。

 ですから孫権殿は、城から先に出ていただきたいのです」

「なぜですか、義姉上。袁術が無血開城を許すなら、私がここにいてもいいはずです」

「袁術は、貴方の命を託せるほどは、信用出来ません。」

 はっきりと周瑜は言った。

「魯粛殿。貴方は、呂蒙殿と共に孫権殿達を守って下さい」

「しかし建徳の守りは……」

「下手に兵がいた方が、袁術が警戒します。

 誰もいない方がこの際いいでしょう。

 例え今は、孫権殿の御身を許しても、死が明らかになれば孫家を継ぐ者である孫権殿の命を、袁術は奪うかもしれません。

 万が一、無血開城を許す代わりに、孫権殿だけは処罰するなどということにはなってはいけない」


「周瑜殿の仰る通りです。

 無血開城は理に適っても、孫権殿がここにおられるのはまずい」


 淩操が言った。

「では、私達はどこへ行けば良いでしょう」

 耀淡が尋ねる。

 周瑜は頷いた。

臨海りんかいに周家本家があります。

 周家本家は……私と孫策殿の結婚を反対し未だに不仲ではありますが……、ただ、袁術がもし孫権殿たちを追撃に出たとしたら、周家は大きな守りになる。

 袁術も、周家の領地に直接弓を射かけるのは、躊躇うと思いますし……、そのこと、養父上には私からも重ねてお願いしておきますので」

「わかりました。そうしましょう」

 耀淡は頷いた。

「お許しください」

 耀淡に詫びた周瑜を、彼女は抱き締めた。


「謝らないで、周瑜。

 ごめんなさい。何も出来ずに。

 今は、貴方に全てを任せるしかない」


「私は大丈夫です。

 袁術は名誉や、人の評価をとても気にする男だと孫策殿は言っていました。

 江東連合全滅の報せを受け、打ちひしがれた私が抵抗せずに降伏すれば、無理な総攻めなど、きっとしないでしょう。

 そんなことをすれば、諸将から大きな非難を受けることになるでしょうから。

 あとのことは、どうなるかは分かりませんが……けれど、袁術が孫権殿たちを追撃しないよう、そのことは私がこちらで、何とかしてみます」


 周瑜はもう一度、確かめるように言って、全員の顔を見回した。

 いつも孫策がそうするように、

 勇気づけるように、笑んで見せる。


「大丈夫です。とにかく、今は出来る限りのことをしましょう。

 孫策殿が無事に戻られれば、例え今、袁術に城を明け渡しても、きっとどうにかしてくれます。抗戦して、城が燃えて無くなれば、折角孫策殿が生きていても、彼の帰る家が無くなってしまう。私はそれは、いやです」


「周瑜……」

「妻は家を守るもの……。幼い頃から、義母上に教えていただきました」

 耀淡は周瑜の手を握り締めた。

「勿論、妻は家を守るものです。

 けれど、決して忘れてはなりません。

 伯符には、貴方が全てなのです。

 例え家が残っていても、貴方がそこにいて、待っていてくれなければ、そんな家は伯符にとって空虚なものになってしまう。

 貴方は伯符の宝物なのですから。

 ……自分のことは大切にするのです。

 決して家を守り、自分が死ぬようなことがないように」


 周瑜はしっかりと耀淡の手を握り返した。



「はい。義母上。ありがとうございます」




◇ ◇ ◇



 周瑜は部屋に下がるとすぐに舒の周尚しゅうしょうに手紙を書いた。

 必要なことは全て書いて、今日のうちに、文を送った。


 さすがに眠れず、庭に出た。


 もう、暑いということは無いが、今日は風はあまりなく、穏やかな気候だった。

 秋の草や花が咲く庭の景色も、周瑜は好きだった。心が落ち着く。

 池のほとりに腰掛けて、水面に映る半分に欠けた月を見つめる。



『江東連合が全滅した』



 周瑜はゆっくり目を閉じる。

 恐らく、報せは本当だろう。

 ……だけど、何故か、周瑜の心は落ち着いていた。

 勿論、悲しい。

 大勢の知り合いが参戦していたのだ。

 衝撃を受けたし、悲劇だ。

 それでも、不思議と、孫策がその悲劇の渦に巻き込まれて死んだと、そんな風に思わなかった。


 彼が生きている気がするのだ。


 生きているというより、孫策が死んだら、自分はそれが分かる気がするのである。

 今、その感覚が全くない。

 だから孫策はきっと、生き延びている。



(伯符……)



 周瑜は目を閉じる。

 すると、涼州の荒野を、果敢に剣を掲げ、味方を守りながら戦う孫策の姿が脳裏に自然と浮かび上がった。


(君ならきっと、どんな苦境も)

 


 かさ……、葉を踏む音がして、振り返ると、庭の、美しく生え揃った紫苑の花の側に孫権の姿があった。



「仲謀殿……」

 彼は夜衣の姿だ。

 一度部屋に戻ったが、眠れず出て来たのだろう。

 自分と一緒だ。

 不安げな青い瞳だった。

「眠れないのか?」

「……、いえ」

 首を振ったが、戻ることもなくそこに佇んでいる。

 周瑜は小さく笑んで、彼を手招いた。

「そうか……。なら、少し話そう。ここにおいで」

 孫権は驚いた顔をしたが、やがてゆっくりとやって来た。

 孫家の兄弟の中では一番大人しく、生真面目な性格をしているのが孫権だった。

 だが、似てないとは思わなかった。

 孫策も生真面目なところはある。

 そういうところは、この兄弟は似ていた。


「義姉上……、」


 池のほとり、周瑜の側に腰掛けて、躊躇いがちに孫権が口を開いた。

「やはり、……私はここに留まっては、……だめでしょうか」

「……。――孫権殿は、ここに留まって何がしたいんだ?」

 孫権は顔を上げた。


 なにを。


 それは胸に突き刺さる言葉だった。

 確かに今の自分がここに残って何が出来るだろう。

 手勢を従えて抗戦も出来ない。

 周瑜こそを、逃がしてやることも出来ない。

 いるだけだ。

 孫権は無力な自分が恥ずかしかった。

 兄の孫策は、今の孫権と同じ歳には、すでに軍を率いていた。

 周瑜は静かに、見つめて来る。


「わたしは……」


「孫権殿。皆を率いなければならないのは、怖いか?」

 眼を強く閉じ、孫権は俯く。

「…………。」

 きっと軽蔑される。

 怖いなど。

 この人は、孫伯符の妻なのだ。

 強い魂を持つひとを、愛した。

 でも、今は誰かに心の内を吐露したかった。

「…………わたしの、間違った判断で、人が死ぬのは、……こわいです」

「うん……」

 周瑜は頷いた。

「そうだな……」

 孫権が顔を上げる。

 青い瞳が大きく見開いた。

 周瑜は静かに微笑んでいた。

 周瑜に何を言ってるんだとか、情けない奴めとか、否定されなかったことが、自分でもそんなに嬉しかったのかと思うほど、孫権は安堵した。


「……でも、やらなければ。

 貴方は、孫伯符の弟で、孫文台そんぶんだいの息子なのだから。」


 ぎゅ、と孫権は唇を噛んだ。

 その通りだ。

 怖くてもやる。

 悲しくてもやる。

 兄はずっとそうして、父の文台亡き後、孫家を率いて、守り抜いて来てくれた。

「孫権殿。間違った判断をしない人間なんていない。

 それに、正しい判断を下したからといって、人が必ず死なないわけじゃないだろう?」

 父の顔が過った。

 父の死を、涙を流さず、静かに孫権に詫びた、兄の姿が。

 見開いた青い瞳から涙がこみ上げ、頬を一筋、伝い落ちる。

 二人は、正しいことを。

 ……この世界で、誰もが明日の命を脅かされず、生きていける、そういう当然の暮らしが出来るようにと、幼い頃から戦っていたのに。

 何故か董卓や、袁術がのうのうと生き残って、二人がいなくなってしまった。

 孫権は急に、孤独を強く感じた。

 もう、孫家は自分だけになってしまったのだ。

 幼い頃、父がいて、母がいて、兄弟がいて。

 家族が集まって、話した。


 もう、二度と全員揃うことはないのだ。



「…………すみません」



 涙は零れたが、周瑜の前で子供のように泣きじゃくりたくなくて、孫権は奥歯を噛み締め、唇を引き結ぶと顔を反らして伏せた。

「貴方一人に何もかも背負わせたりしない」

 周瑜が孫権の肩に手を置いた。

「義母上も、魯粛殿も淩操殿も貴方の側にいる。

 伯符だって、最初から何もかも強かったわけじゃない。

 彼は義父上の許で時間を掛け、学んで、成長したんだ。

 貴方もそうすればいい」

「……、」

「貴方は伯符の自慢の弟だ。

 些細なことでも深く考えてる。

 どんなことであろうと、判断も、……貴方が本当に考え尽くして出した答えなら、必ず孫策はそれでいいと頷いてくれる。

 もちろん、わたしも……」

 孫権は膝の上に置いた手を、握り締めた。

「……義姉上、は……」

「うん?」

「何故、兄上が生きていると、それほど真っ直ぐに信じれるのですか?」

 周瑜は瞳を瞬かせてから、微笑む。

「……うん……どうしてかな……。昔から、そうだったからかもしれないな。

 ずっと、孫策という人間を見て来たから……。

 幼い頃、孫策が帰らなくて、大騒ぎになったことがあったよ。

 貴方は小さくて、覚えてないかもしれないけど。

 川に落ちたのか、山で獣に襲われたのかと、皆慌ててたけど、私は不思議と、そうは思わなかった。

 でも彼が戻らないなら、戻らない理由が何かあると思ったんだ。 

 私は山に見に行った。

 いつも孫策と遊んでた山だ。

 案の定、地面に空いてた深い穴に落ちて、出れなくなってただけだった」


「でも、今回のことは」


「分かってる。勿論、全滅した部隊の指揮官だけが生き残っている可能性は低い……。

 それでも、時が過ぎて、あの頃より孫策も強くなった。

 あの時は落ちた穴から這い上がって来れずに不貞腐れて眠ってたけど、今は、身動きが取れなくなったとしても、きっと何か方法を考えて戻って来るはずだ」

 泣き顔は見られたくなかったが、そう話す周瑜の瞳が見たくて、恐る恐る孫権は顔をもう一度上げた。


 静かな瞳だ。

 澄んでいる。本当に、この人は兄の生存を心から信じているのだ。


 孫権は二人の絆の強さに圧倒された。


「すぐに強くなんてならないでいい。

 周囲の人に助言を貰い、助けてもらい、一歩ずつでいい。

 でも、孫家を継げるのは貴方だけだから、引き受けて欲しい。

 孫権殿。

 ここに残る方が辛いなどと思っていたら、先は厳しいぞ」


 周瑜が瞳を真っ直ぐに覗き込んで来る。

 まるで、兄が語り掛けて来てくれているようだった。

「どうした?」

「いえ……、……兄上が、声を掛けてくれているように思えて」

 周瑜は笑った。

「そうか。夫婦は似るというからな」

 優しく微笑み、それから両腕で、孫権の身体を抱き寄せる。

 きっと孫策なら、弟にそうしただろうと思ったからだ。



「全てを背負ったりしなくていい。

 ……けど、今は泣いてはだめだ」



 孫権は温かい周瑜の身体に包み込まれながら、頷いた。

 本当は自分が、心細いはずのこの人を、義弟として抱きしめてやらなければならなかったのだ。


 

 周瑜の強い魂に心の底から敬意を感じ、孫権はこの夜だけは涙を零した。



 周瑜は叱らずに、優しく撫でてやった。


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