第2話



 白み始めた、藍色の空の下。

 これがまだ闇夜だったら、もっとあの明かりは目立っただろう。

 だが明るくなり始めていた空の下に溶けて、その時初めて気づいた。

 孫策はごく薄い、青灰色せいかいしょくの瞳を見開き、叫んだ。



「黄蓋!! 全軍叩き起こせ!! 敵襲だ!!」



 韓当が激しく狼狽する気配をしたが、黄蓋と孫策は同時に駆け出していた。


「敵襲だ――――!!」


 黄蓋の声が轟き、すぐに戦鉦せんしょうが鳴り始める。



「孫策殿!!」



 近衛兵隊を指揮する、朱治しゅちが姿を現わす。

「鎧を!」

「今はそれどころじゃねえ!! 見張りはどうした! 向こうに潜ませておいたんじゃないのか!」

 朱治は返答に詰まったようだ。

 孫策は舌打ちする。今は、問いただしている場合じゃない。


「黄蓋! 弓隊をまとめて連れて来い! すぐに下に降りるぞ!」


 自分の弓を掴み高台に戻り、佇んでいた馬に跨り、騎乗した所から目を凝らす。

 揺れる灯かりは一度こちらにそのまま吹き出しそうになったが、不意に動きが変わった。

 川を避ける、深く曲がった地形を迂回し、少しの静寂の後、東の方角からぐわっ、と何かが飛び出して来た。

 黒い、影。

 一糸乱れぬ行軍。

 木々をなぎ倒すかのように揺らしながら、大地に次々と突き立つ旗には、暁を表わす紫闇しあんの布地に、星を射る射騎しゃきを描く。


 董卓軍。


 だが、中に違う旗がある。

 血で染め抜いたような赤い布に『呂』の字が見えた。

 地を抉る、騎馬の迫り来る音。

 黒一色の騎馬隊の真ん中から、突然、燃えるような赤毛の一騎が躍り出る。




 ――――呂奉先りょほうせん




 肉食獣のように長安の周辺域を徘徊し、反董卓連合の繋がりのある豪族の城や砦を次々と襲撃していると聞いた。

 赤兎馬せきとばという、非常に気性の荒い赤毛の馬に跨り、特別に作らせた巨大なげきを、軽々と片手で操る。

 董卓の暴虐の魂に、呂布の武勇が、現実の残忍さを吹き込んだのだ。

 反董卓連合には呂布軍だけは避けるべし、という共通の認識がある。


 だが、何故ここに。


 袁紹軍の別動隊が長安付近で工作活動を行っている為、董卓が守りを固める為に、長安に呂布を呼び戻していると聞いた。


(くそッ!!)


 まだ自軍は、体勢が整っていない。

 一瞬だ。

 この一瞬の判断が命取りになる。

 浮き足立つ自軍の気配を背に感じ、孫策は一瞬深く目を閉じると、すぐに目を見開いた。


「――全軍、撤退させろ」


 朱治が孫策を見る。

 今、この場で決戦に持ち込むことに、大した意味はない。

 戦うにしても、もっと万全な状況でぶつかればいいのだ。

 今にこだわる必要はない。

 孫策が下した判断はそれだ。

「ぼやぼやするな!! 相手は呂布だ!! このままぶつかったら全滅するぞ!!」

「孫策殿!!」

「黄蓋!! 全軍撤退だ! 陣を捨てて、とにかく北方に向けて逃げろ!!」

「ハッ!!」

 さすがに躊躇いなく、黄蓋が呼応する。

「弓隊、揃いました!」

「俺と来い!」

 孫策が馬の腹を蹴り上げて駆け出す。

「撤退まで足止めする!!」

 弓隊が孫策の後を追って動き始める。

「殿! 殿はお戻りください!! 危険です!! 指揮官が殿しんがりをするなど!!」

「そんなこと言ってる場合か!!」


「韓当! 孫策殿を止めろォッ!!」


 朱治が叫ぶ。

 山道に降りる所で、韓当が飛び出すようにして孫策を止めた。

 手綱を引かれて驚いた孫策の馬が嘶き、立ち上がる。

「韓当!! おまえ……」

 朱治が追いついて来る。

 「孫策殿! 今はとにかく、軍をまとめている時間はありません! 各々が散り散りになって逃げた方がいい!」

 黄蓋も弓を担いで姿を現わした。

 孫策軍の重鎮ともいうべき三武将が揃って、孫策を推し留める。

「あの騎馬隊を見たでしょう!! 何より、向こうは夜襲を成功させて勢いづいている。

 殿も無意味です!

 貴方の全軍撤退の号令は間違っていない! 

 すぐに離脱を!!」

 くっ、と孫策は下を向いた。

 文字通り、何もしないで逃げるのか。


「今は意地を張る時ではありません!」


「……――――分かった。逃げる」


 黄蓋が大きく頷いた。

「殿は私と! さあ、行きましょう!!」

「弓隊ついて来い!」

 三人に守られるようにして、孫策は再び馬で駆け始める。

 山岳地帯と言っても明日にはすぐに動くので、ごく浅い場所に陣を張っていて良かった。

 これが中腹辺りだったら、麓を押さえられて逃げ場がなかったところだ。

 荒野に出ると、孫策軍が騎馬兵も、歩兵隊も、まさに逃げ惑うように山岳地帯から飛び出していた。

 黒い騎馬隊は目前まで迫っている。


「この先に、白水に続く森林地帯がある!! とにかくそこまで、走り抜けろ!!」


 走っていた前方の歩兵が、横から射られて突っ伏すのが見えた。

 左側に並走する黒い騎馬たちが、今は弓を構えている。

 一斉斉射が始まる。


「打ち返せ!!」


 後方から怒声が飛んだ。

 ついて来る弓隊がこちらからも打ち返すが、孫策軍の兵士は射貫かれどんどん倒れていくというのに、黒い騎馬隊はびくともしない。

(……なんだ?)

 孫策は弓を構える。

 狙いを定め、駆ける馬上から一騎に矢を放った。

 キン、と肩に当たった矢が弾かれる。

「!!」

 漆黒で塗ったような、黒い鎧。

 孫策は舌打ちをして、もう一度矢を番える。

 脹脛の辺りで馬の腹を押さえ、体勢を馬上で安定させると、並走する一騎に向かって撃つ。

 顔すら覆う、黒い鎧の、唯一の弱点である目元を射貫き、その一騎は馬上で体勢を崩し、倒れた。

 だが、鎧に当たった矢は悉く弾かれる。


「馬を狙え!!」


 馬も、胴の側面を、同じ漆黒の鎧で固められている。

 首と、足だけが覗いているのだ。



「くそッ……!!」



 このまま一騎ずつ倒しても、どうにかなる規模ではない。


 敵がどのくらいで襲来したかは分からない。

 だがこの騎馬隊は少なくとも百騎はいた。

(そうだ、呂布……)

 孫策は肩越しに振り返り、戦場に視線を走らせる。

 呂布はどこだ。

 先頭を駆けていた一騎。

 思って、振り返った身体を戻して前方を見た時……血飛沫があがった。

 並走していた距離を縮めてくる騎馬隊に先駆けて、赤毛の馬が戦場を稲妻のように斜行し、孫軍に襲い掛かる。

 巨大な戟が薙ぎ払う。

 人間の身体が、弾け飛んだ。


「迂回しろ!! 呂布と遣り合うな!!」


 韓当の声が聞こえた。


「足を止めるなァ――ッ!!!」


 朱治や、黄蓋は。

 従軍する他の武将はどこだ。

 孫策は探した。

 みんな無事なのか。

 いや。今、例え生きていたとして。


(この中で、一体何人が生き残る)


 視線を左右に走らせるだけで、見知った顔があった。

 孫策軍は父から引き継いだ兵が大部分を占めるため、孫策とは幼い頃からの付き合いの者も多い。

 父親の友人として、孫策を自分の息子のように気に掛けてくれる者もいたし、そういう男の息子もまた従軍の道を選び、孫策とは兄弟のような付き合いをしている場合もある。

 軍には、戦闘要員以外にも従軍している者がいる。

 軍医や文官だ。

 辛うじて武器は所持していても、彼らは正規の戦闘要員のような戦い方は出来ない。

 悲鳴が上がり、この混乱の中どうしても逃げるのにも後れを取り、後方に集まっていた後続部隊が黒い騎馬隊に捕まり、飲み込まれるのが見えた。

 彼らはほとんど背から射貫かれ、剣を振り下ろされている。

 敵の力量を見切ったのか、後続部隊を全滅させるのにこれだけの数はいらないと踏んだのか、

 大きな影の塊のように襲い掛かって来ていた騎馬隊が、十人規模の小隊にみるみる別れ、左右から逃げ惑う孫軍を挟撃にかかった。

 最初から決めていたような、乱れの無い動きだ。

 一糸乱れぬ鳥の集団行動のように動く黒い軍の中で、呂布だけが縦横無尽に、単騎で暴れ回っている。

 逃げる孫策軍の頭を押さえるつもりだろう。


「朱治!! 敵が先頭を潰す気だ!」

「ハッ!! 突破します!!」


 勇猛果敢で知られる朱家の男らしい、明快な了承と共に、朱治が槍を掲げて、近衛を連れて戦闘の方へと駆け抜けて行く。

 黒い騎馬隊が小部隊編成に分かれると、ようやく後方が見えた。

 旗が上がっている。

 董卓軍の追撃だ。

 呂布軍は先鋒に過ぎないのだ。

 討ち漏らした敵を、悠然とあの手勢が飲み込む。

 襲い掛かって来た敵の剣を馬上で受け止め、弾き、孫策は剣を打ち下ろす。


「こいつら……ッ!!」


 また、この黒い鎧だ。

 普通ならば鎧も裂き、相手を斬れる孫策の一撃が弾かれた。



「ッ、あああああああ――――ッ!!!!!」



 弾かれた剣を切り返し、孫策は咆哮するともう一度、首と胴のつなぎ目辺りに狙いを定め、斬りかかる。

 敵の首が吹っ飛び、血飛沫が上がった。

「殿!!」

「くそッ!! こいつらの鎧、何だ!!」

 また襲って来たもう一騎を斬り伏せ、孫策が怒鳴る。

 明らかに普通の敵の纏う鎧とは違う。

 厚く、重い。

 辛うじて力で押し切っているが、こんな戦い方を出来る兵は例え孫策軍でも限られている。


 悲鳴が上がった。


 そちらの方を振り返った時、非戦闘要員が固まった所に向かって、別の黒い騎馬が襲い掛かるのが見えた。

 槍で貫かれそうになった軍医を庇い、一人の将官が黒い騎馬と槍を交わした。

 受け止め、押さえ込んだところに、横から別の騎馬が突っ込んで来る。


兪河ゆか!!」


 見知った顔だった。

 孫策は体が勝手に動いていた。

「孫策殿!!」

 黄蓋の制止する声が聞こえたが、孫策は剣を構えてそちらに駆け出して行く。

 辛うじて孫策の剣は間に合い、斬られそうになっていた兪河を助けた。

「兪河! 脚を止めるな!」

「殿!」

「この後に後続も来る!! 戦は無理だ! 逃げるぞ!!」



「孫策殿!!!」



 不意に、声がして、ハッと肩越しに振り返れば、炎のような気配が、こちらに向かって凄まじい速さで迫って来た。


 呂布。


 体勢を整えようとした孫策よりも早く、突っ込んで来る呂布と孫策の間に、黄蓋が割って入った。

 呂布を食い止めようと槍を構えたが、腰を浮かせるようにして、馬上で構えた戟が唸り、黄蓋の槍ごと、身体を薙ぎ払った。


「ぐあっ!!」

「黄蓋!!」


 馬ごと、力任せに吹っ飛ばされた。


 黄蓋は孫策軍でも見事な体躯と武技を持つ武将である。

 孫策は、黄蓋が武器を合わせたのに、力で捻じ伏せられるのを初めて見た。

 自分を庇って一撃を受けた黄蓋に、孫策は馬上から飛び降りる。

 助け起こした。

「黄蓋!」

「殿……ッ、私に構わず、お逃げください。

 ここは私が……」

 黄蓋はすぐに腕を押さえつつ身を起こす。

 黄蓋を薙ぎ払い駆け抜けて行った呂布が、更に後続部隊の方へ突っ込んで行った。

 地に武器を撃ち込むというように突き立ててから、呂布が赤兎馬から降りた。

 戟を拾い上げ、足を竦め、逃げることも出来ずにいる後続部隊に向かって、武器を振るい始めた。


 一振り。


 薙ぎ払われた三人ほどが軽々と宙に浮き、後方に吹っ飛ばされる。

 突けば槍先は兵の胸から背まで貫通し、呂布は人間の身体を貫いたままの戟を両腕で大きく旋回させて、また薙ぎ払った。

 人間の体が引きちぎられる。

 もう一振り。

 幾つかの首が飛んだ。


「やめろ……」


 孫策が怒りの形相で立ち上がる。

 剣を構えた。



「やめろオオォ――ッ!!!」




「! 孫策殿!!!」




 黄蓋が呂布に向かって斬り込んで行った孫策に向かって叫ぶ。

 ブオン、と旋回した戟を躱し、孫策は低い体勢から渾身の力を込めて呂布の胴に一撃を入れた。

 漆黒の鎧に、ピシッ、と細く表面に傷は走ったのが見えたが、次の瞬間、音を立てて真ん中から砕けたのは孫策の剣の方だった。


「なにッ!?」


 眼を見開き、自分の剣が砕ける様を、最初から最後まで見下ろしたが、次の瞬間、呂布の振り払った太い腕の肘が、孫策の肩に決まり、彼は横に薙ぎ払われた。

 孫策とて、決して小さい身体というわけではないのにだ。

「っ!!」

 殿を御守りしろ、と誰かが怒鳴ったのが聞こえた。

 孫策はドオン、と思い切り地面に突っ込んだが、衝突の瞬間に辛うじて受け身を取り、すぐに身を起こす。

 だが、猛禽は相手を仕留めるまで攻めの手は休めない。


「殿――――ッ!!」


 顔を上げた視界の中央。

 漆黒の鎧に身を固め、背に緋色に染めた長い雉の飾り羽を付けた呂布が、戟を構え、突っ込んで来るのが見えた。

 孫策でさえ、見上げる長躯。

 それなのにこの男は早い。

 襲い掛かる剣を砕くほどに頑丈な、強度ある鎧を身に纏っていても、力だけではなく、俊敏だった。

 猛獣のように瞬く間に目前に迫って来る呂布を体勢を整えないまま見上げた時、ぞわ、と孫策の背が震え、脳裏が警鐘を鳴らしたのが分かった。

 一瞬足が竦み、立ち遅れる。

 呂布が真上から戟を打ち下ろして来る。

 風圧を額に感じた時、死がごく近くにあることを嗅ぎ取ったのだと思う。

 だからだったのか。

 ほんの刹那の瞬間、孫策の脳裏に過ったのは周瑜の顔だった。

 こちらをじっと見つめて来る、夜色の瞳。




 死ということは。


 周瑜に二度と会えなくなる。





 そう理解した時に、孫策の胸の奥から消えかけた闘志が吹き出してきて、とても太刀打ち出来ないことは分かっているが、腰の短剣を引き抜き、呂布に向かって斬りかかっていた。

 呂布の表情が輝き、威勢を上げて渾身の力を戟に込める。

 身を深く捩って、一撃を辛うじて交わす。そして突き返した短剣の先を、自分が先ほど傷つけた呂布の鎧の痕に向かって力の限り突き立てようとしたが、切っ先が触れたと思った瞬間、完全には避け切らなかった呂布の一撃が、孫策の脇腹を深く抉った。


「ぐはッ……!!」


 ドシャッ、と音を立てて孫策の身体が地に倒れ込む。


「殿!!」


 すぐに脇腹から血が流れ出て来た。

「ぐ……っ、く、!」

 孫策は歯を食いしばり傷口を手の平で押さえると、身体を起こそうとしたが、激痛のあまり体が上手く動かない。

 だが、辛うじて肩越しに振り返った視界が、なおも孫策にとどめを刺そうとした呂布を止めようと、護衛兵や、黄蓋、戦闘員でない軍医達もが一斉に斬りかかって行くのが見えた。

 剣の音。

 悲鳴。


「……く、そ……ッ」


 孫策は歯を食いしばった。

 味方が斬られて行く。


「くそ!! やめろ!! 俺の兵を殺すな――ッ!!」


 孫策は叫んだ。 

 手を何とか地に押し当てて、身体を起こそうとする。

 血に塗れた手。

 父親を看取った時のことを思い出した。

 自分が射貫かれようとした時も、父が庇って助けてくれた。

 お前がいなくても俺は射貫かれていた、

 そういうことが、戦場にはあるのだと、父は言っていた。


 

『策。戦場は生きるか死ぬかだ。

 生きて帰ったものが一番強い。


 お前は生きて戻り、孫家を継げ』



 土を握り締める。

 この地は、江東の地じゃない。




『江東を平定するんだ』




 周瑜が目を輝かせた。


『それが伯符の夢なのか?』

『そうだぞ。大きいだろう。夢は大きく持てって親父が言ってた!』

 幼い周瑜が笑う。

『なら、私も君の夢が叶うよう、助けてやる。

 君が私を助けてくれた、そのお礼だ。

 友達はお互い、助け合うものなんだろう?』



 江東の地でもない場所で。

 周瑜を置いて。


(俺はまだ、なんにも……)


 何にも成してない。

 父に委ねられたままのものを、そのまま失おうとしている。

(それでいいのか)

 孫策の身体の底から、紛れもなく自分に対しての怒りが湧き上がって来た。



「それを、黙って、受け入れんのかよ……っ!!」



 力を込めて、孫策は身を起こした。

「孫策殿!」

 声がした。


虞翻ぐほん! 殿を無事な場所へ!」


 馬で駆けて来た虞翻が、孫策を馬上へと引き起こそうとしたが、孫策はその手を押し留めて、自分の力で騎乗した。

 虞翻が驚いて、自分の前に乗り上げた孫策を見上げる。

 いきなり馬を蹴って走り出させたので、振り落とされそうになった虞翻は慌てて孫策の身体にしがみついた。

 そして、脇腹の傷に気づく。

「孫策殿、この傷は……」

 血が流れ出ていく。

「すぐに手当てをせねば、」



「弓を寄越せ!!」



 馬上から孫策が怒鳴った。

 凄まじい戦気だった。

 駆けて来た韓当が自分の弓を、孫策に向かって放る。

 握り締めた弓に、指に重ね掛けた二本の矢を番えて思い切り引き絞った。


 


「呂布ッ!!!」




 喉の奥から、血が滲み出る。

 鮮血を吐きながら、孫策は咆えた。




「江東連合の総司令、孫伯符はここだ!!!」




 矢を放つ。

 振り返った呂布が戟を振り回し、矢を叩き落とした。


「貴様にも人の誇りがあるなら、そんなところで兵卒を殺してないで俺を追って来い!!」


 続けざまに孫策はまた二連の矢を引き絞った。

 今度は呂布の横をすり抜けて、その後ろで孫軍の兵を今まさに殺さんとしていた黒い騎馬兵の喉を貫き射殺す。

 虞翻は孫策の体にしがみつきながら、まだ弓を撃つ力を残している孫策の気力に驚愕した。

 孫策は血を吐いているのだ。

 この脇腹の傷は臓まで届いているに違いない。


 呂布がにぃ、と笑った。


「面白い。――今の言葉、後悔するなよ小僧!!!」


 呂布は嘶く赤兎馬の手綱を掴んで、また騎乗した。


「来るぞ!! 韓当!! 右に迂回しろ! 

 このまま森林地帯までは逃げきれん! 丘を越えれば崖があり、下は河だ!

 飛び込め!!」


 狼狽した韓当の顔が見えた。

「どうせこのままじゃ殺される!!

 まずは騎馬の脚を止める!

 河に入るしかない!!」


「私が先に行きましょう!」


 後ろから一騎、駆けて来た。


「黄蓋ッ!! 無事か!」


 あなたこそ。

 黄蓋は孫策の左半身を見た。

 血が流れて、下衣どころか、馬の背までが孫策の血に染まっている。

 しがみつく虞翻が何とか、自分の衣で血を止めようとしているが、黄蓋と視線があうと、彼ははっきりと首を横に振った。

 これ以上血を失ってはまずい。そういう顔だ。

 それは分かったが、黄蓋にはどうしようもなかった。


(……もう少しだけ、もってくだされ……!!)


 祈る気持ちで、心に思う。

「みんな遅れるな!! 逃げ切るぞ!!!」

 孫策は出来る限りの声を、戦場に響かせた。

 その間も、彼は馬上で周辺にいる黒い騎馬兵を射貫いて行く。

 まさに孫家の長に相応しい、深手を追っても尚、弓を引く、不屈の闘争心だった。

 孫策のその姿に、逃げ惑うばかりだった孫策軍の兵達も、戦える者は戦意を少しだけ取り戻したらしい。

 弓を持つ者が、こちらからも撃ち返し始めた。



「生き延びるぞ!!」



 戦場に木霊する。

 蹄の音がして、孫策のすぐ脇を、誰も乗せていない黒毛の馬が、駆け抜けて行った。

 乗り捨てた孫策の馬が、主の声を聞き分けて戻って来たのだ。

 逃走路を知っているかのように、先頭へと躍り出る。

 闇夜のように長い鬣が、風に走る。 




(――周瑜!)




 弓の弦が弾けて切れた。

「私の弓を!」

 壊れた弓を捨てると、誰かが弓をすぐに寄越した。

 自然と、孫策の側に兵達が集まって来る。

 ここに来て一丸となり、孫策軍は呂布軍の追撃を振り切ろうとしていた。


 そうだ。逃げ切れる。

 必ず。

 孫策は歯を食いしばり、心の奥で、呼んだ。


(俺は必ず、お前の許に帰る)


 暁の空が滲み始めている。



「生き延びるぞ!!」



 孫策は矢を放ちながら、味方を鼓舞するように何度も、叫んだ。


 そして自分自身に、強く言い聞かせたのだった。



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