異聞三国志【燎原の夜明け】

七海ポルカ

第1話




 満天の星が青い空に溶けていく。

 荒野にぽつりと広がる小さな林は、山岳地帯から流れてくる川の麓にあった。

 よく手入れを施されていることが分かる、黒い馬が、繋がれた樹の枝に咲く緑を食んでいる。


 

 バシャ……ッ



 深みを楽々と越え、足の着く浅瀬まで泳いでくると、潜っていた水面から顔を出す。

 振り返った愛馬が真っ黒な瞳でこちらを見る。

 驚いたように耳を動かしている姿に笑って、彼は浅瀬からざばり、と上がって来た。

 浅く日に焼けた肌は、月も落ちて溶けた、一瞬の静寂に沈んだ。

 鍛えられた見事な裸体を少しも隠すことも無く、川から上がると、側に置いていた布で髪を拭き、身体を拭いてから、馬の側に寄って行った。

 本当ならば、陽射しの真下で水浴びなどもしたいが、従軍中だとそう理想も言えない。

 最近は秋の気配も漂って来て、朝晩は涼しくなって来たと思っていたのだが、益州に入った途端、夏の暑さがぶり返し、日中の荒野の行軍はかなり厳しいものがあった。

 

「どっかで一回、軍全体にも休養を与えないとな……」


 身体を拭いて、下着を穿き下衣も穿き、枝に掛けてあった首飾りを先に首に掛け、木の根元に置いてあった丈の長い軍靴を持ち上げ、側に腰を下ろし、履こうとした時、涼しい風が通り過ぎた。

 風が裸足を撫でて、涼しくて気持ちいい。

 ふと、手を止めていた。



 ザザザザ…………、



 行軍中は夜でも場所によっては軍靴を脱ぐことが出来ない。

 久しぶりに締め付け続けていた足が解放され、流水に晒されて、折角の心地良さが惜しく、上半身が裸のまましばらく、両足を伸ばして、悠然と流れていく川の水面を眺めていた。

 やはり水場はいい。

 こうして水面を眺めてるだけでも、なんだか気が晴れる。

 涼しい夜風に当たっていると、しばらくして、自分の頭が不意にモフモフ、とした。

 振り返ると愛馬が首を伸ばし、彼の髪を食む真似をしていた。

 彼は笑って、馬の鼻先を撫でてやる。


「こら、食うな」


 靴を手早く履き、靴ひもを結び、立ち上がって、歩み寄った。

「はは……俺だけ水を浴びて、腹が立ったか」

 艶のある黒毛の生える首筋を手の平でゆっくり撫でてやる。

 多少剣呑な気配を纏っていた馬が、段々と落ち着いて行くのが分かった。

 許してくれたのだろう。

 小さく笑い、馬の額に、そっと自分の額を預ける。

 こういった遠征では、愛馬と愛剣が命を預ける相手だ。

 死ぬほど疲れても、この二つの手入れだけは怠るなと、それは軍に従軍するようになってから、一番最初に父親から教わったことだった。


 瞳を開くと、大きな、黒曜石のような眼がじっと彼を見ている。


 この遠征に赴くにあたって、新しい馬を調達したのだが、熟考を重ねて数馬に絞り込み、結局最後に残した三頭はどれも遜色ない軍馬になれただろうが、この馬にした最終的な決め手は、この闇のような黒毛と、じっと人を見つめて来る時の瞳の黒さだった。

「もう少し行けば漢寿に入る。

 大きな街だから、美味いものもたくさん食べれるぞ。

 水浴びもさせてやるから」

 ブルル……と鼻を鳴らした。

 まるで人間の言葉が分かるみたいに返事をしたので、笑ってしまう。

 これは、約束を破ったら相当怒られそうだ。

 よしよし、と首筋を撫でてやる。


「睨むなよ。

 お前の目は、あの百頭いる馬の中で一番俺の好きな女に似てたんだぞ。

 睨まれると、落ち込むだろ」


 馬の背に乗せていた衣を手に取り、羽織る。

 帯を結び、樹に立てかけてあった愛剣を掴むと、これも腰に巻き付けて下げた。

 彼の纏う衣は深い蘇芳色で、簡素なものだったが、孔雀石で出来た豪奢な鞘だけは、身につけると目に留まる。


 これは彼の父親の剣だ。


 父は死んだから、形見である。


 その剣の、鞘の根元に、薄紅色の帯が、丁寧に編み込まれて飾り紐になったものを、解けないように結びつけてある。

 これは長い遠征になるからと、本拠地の城から発つ時に、妻の帯を貰ったものだ。

 戦場には殺伐とした色が満ちる。

 その中で、ふっと異質な、柔らかなこの色が側にあることを、彼は――孫策はとても気に入っていた。

 でも、雨風や、戦場の泥に汚れて、さすがに色がくすんで来てしまった。

 無理もない……出陣してからもうすぐ二年になる。


 孫策は十七歳になった。

 孫策が十七歳になったということは、城で彼の帰りを待つ、同い年の妻もまた、十七歳になったということである。

 優し気な薄紅色の深衣を身に纏う、その姿を思い出す。

 類い稀な容姿と――自分を見る時の柔らかな表情を。


 孫策はまだ濡れている髪をぐしゃぐしゃと布で掻き回して、顔も思い切り拭いて、胸のざわめきを誤魔化した。

 折角冷たい水に浸かって、泳いで、気が紛れたというのに。


(会いたいな)


 徐々に夜から醒めていく空を見上げる。

 もうすぐ暁の時間になる。

 今日は綺麗そうだ。

 孫策は身支度を整えると、愛馬を繋いでいた手綱を解き、跨った。




◇ ◇ ◇




「――おかえりですかな」



 山岳地帯にある野営地付近に戻ると、まだ陣は見張り以外は寝静まっていたので、荒野を見通せる崖の側で、暁を見ようと思い時間を潰していた。

 樹に寄り掛かり、五分ほどして声が掛かった。

 振り返ると、黄公覆こうこうふくの姿があった。

 父の代から孫軍に従軍してくれている重鎮で、父――孫文台そんぶんだいの友人でもある。

「なんだ、黄蓋こうがい起きてたのか」

「年寄は早起きでしてなあ」

 ふはは、と笑っている。

 孫策は口角を上げてみせた。

 軍に、こういう明るい男が一人いてくれるのはいい。

 遠征などでは特に思う。

 黄蓋はいつも変わらず陽気だから、その姿があるだけで、若い兵達が安心する。


「寝苦しくて目が覚めたから水を浴びて来た」


 孫策は遠くに見える、川を顎で示した。

「ああ、いいですなあ。

 しかしこれからは、段々とお忍びは気を付けていただかなくてはなりませんぞ」

「うん。分かってる」

 孫策は頷いた。

 安心出来るのは、この辺りまでだ。

「涼州ではすでに断続的に、董卓軍との戦闘があるようですから。

 涼州騎馬隊の合流もそれが理由で遅れているようですからな」

「まぁ涼州騎馬隊はこの際、いいとしてもだな……袁紹が遅れてんのは腹立つな。

 何をダラダラやってんだよ。

 あんまり行軍が鈍いと、呂布軍に捕まるぞ」

「奴は神出鬼没ですからな。董卓とは違い、奴は都や宮殿住まいを嫌い、軍を率いて野営を好むそうです。

 それで長安の周囲を巡回している。

 呂布の巡回軍に遭遇したら、一巻の終わりです」


「野営を好むねえ……本当猛獣みてーな奴だよな」


 孫策は片膝を立てて、そこに頬杖をついた。

「あなたも野営を好むでしょう」

「馬鹿言うな。俺はフカフカの寝台で寝るのが好きだ」

「おや、そうでしたか。

 殿がいた頃は野宿しよう野宿がいい! などと言い張って殿を困らせていたと思ったのですが」

「それは子供の頃の話だ」

 孫策が半眼になる。

「子供の頃といっても貴方の場合は、ごく最近のことではないですか」

「最近じゃない!」

 黄蓋は笑った。


「……早く戦が始まんねえかな」


 孫策が小石を拾い上げ、崖下に向かって座ったまま、投げる。

「早くですか?」

「うん。今始まれば、冬前に決着つくかもしれないだろ。

 そうしたら、年内に富春ふしゅんに帰れるかもしれない」

 焦がれるように、孫策は膝を抱えて荒野の向こうを見た。


 水の麓。

 緑の多い、我が家。

 花咲く庭で待ってくれている顔を。


「冬に帰れれば、花の咲く春には間に合う。

 来年の春は周瑜と花見が出来る」


 黄蓋も目を細めて、「ああ、いいですなぁ」と笑った。


「涼州の冬は厳しい。越冬は避けたいですが」

「袁家の馬鹿野郎!」

 孫策がもう一度小石を放り投げる。

「……。今日、周瑜の夢を見た。

 俺と周瑜、二人だけの特別な思い出だから、お前にも教えてやらないけど、とても胸に残ってる時の夢で……」

「求婚なさった時ですか?」

「教えてやらねえって言ってんだろう」

「はは」

「もっとずっと、……昔のことだ。

 二人である約束をした。

 俺にとっても、周瑜にとっても、とても特別な約束だったから、俺はその時のことをたまに何度も夢に見るんだ。

 周瑜は、よく、あの時その約束をしてなかったら、どうなってたかなと言ってた。

 でも俺は繰り返して見る夢の中で、いつも、迷いなく同じことを繰り返す。

 違かったことなんか一度もない。

 だから俺は、何度あの場面になっても、同じ答えを選ぶんだ、っていう自信がある」

 黄蓋は息子を見守るような表情で、孫策を見下ろした。


 孫策は十二歳で結婚し、直後に父親と共に二年間遠征している。

 戻って来て、ようやく自分の城を持ち、落ち着けるかと思ったら袁術が劉表と開戦し、穏やかに夫婦の暮らしを出来たのは一年にも満たなかっただろう。

 父親の孫堅が、息子を気遣い、孫策自身の遠征は見送られたのだが、戦況が悪化していることを察して孫策は結局出陣した。

 その戦いの最中、父親の孫堅が暗殺され、江東において武勇の名高かった孫堅の死は、この地の情勢を混乱させた。

 まず、袁術が亡き孫堅の領地を、若すぎる孫策から預かるという名目で取り上げようとしたのだが、これは以前より、孫堅を信頼していた洛陽の翔貴帝しょうきていの勅命により、このまま孫堅の領地は孫策のものに、と押し留められたが、この件は孫策と袁術の不仲を決定的なものにし、状況は逼迫した。

 妻である周瑜が、三公さんこう輩出の名門である周家の力を借りて、袁術を牽制したので衝突は避けられたものの、孫堅の死を皮切りに江東・江南に火種は蒔かれてしまった。


 ……それでも幼馴染みと言うべき、この若い夫婦は、二輪の花のようにいつも仲良く寄り添って、父親の死に深く傷ついた孫策も、徐々に傷を癒しつつあった。


 そんな矢先だ。


 北方で予てより暴虐を振るっていた董卓が、呂布という武将を手に入れて、その武に頼り、長安から洛陽に進軍し、洛陽宮を襲って翔貴帝を長安に移そうとする事件が起きた。

 これは結局、未遂に済んだが、この暴挙についに諸将が反発の声を上げ、反董卓連合が結成されることになる。

 連合軍の総大将は四代三公の名門、袁家の袁紹だ。

 北方の有力豪族を中心に、広く大陸全土に号令が掛けられ、孫策は父親の喪中だったが、江東の有力豪族による<江東連合軍>を率いて参戦を決めた。


 富春の城を発って、二年。


 あの時は、桜が咲いていた。


 出立の直前まで抱き合って、軍が動き出すと桜の中で、ずっと手を振って孫策を見送っていた周瑜の姿を、黄蓋も見た。

 最悪、この大好きな妻を「連れて行きたい」などと孫策が言い出すと思っていた黄蓋だったので、さすがに馬に乗って走り出すと、心を決めたように一度も振り返らず駆け出した孫策と、その背を静かに見送る周瑜の姿には目頭が熱くなったのでよく覚えている。


 それは、もう会いたくて仕方が無いだろう。


 それでも、孫策はこの二年余りの遠征中、こちらを困らせるほど妻に会いたいと嘆くことも無く、立派に、孫軍全体の兵のことを考え、集中していたと思う。


「周瑜もきっと、同じだと思うんだ」


「……もう涼州は目の前です。

 涼州騎馬隊の連合軍と合流した後は、彼らの先導で一気に長安へと押し進む。

 大丈夫。上手く行きます」


 断続的に董卓軍と戦闘を続けている馬一族率いてる涼州騎馬隊はともかく、問題は東から長安を挟撃することになっている袁紹軍である。

 袁家の格は確かであっても、ここまで来るうちに、ならば何故これほど董卓をのさばらせるに至ったのかと、北方の有力豪族は不満に思っており、以前よりも袁紹の求心力は急速に落ちているようだ。

 諍いがよく軍で起き、その度に足止めを食っている、と連絡が入り、その度に孫策は苛々していた。

 また袁家の地位を盤石なものにしようと、不仲で有名だった袁紹・袁術の従兄弟がついに手を取り合い、参戦して来たというのに、予測通り行軍の最中でこの二人は喧嘩を始め、結局袁術は今回の反董卓連合からは手を引いてしまった。

 そのことでも二月ほど、無駄にしたのだ。

 各地で小規模な戦闘が行われたから、先に行軍している孫軍も、何とか士気が続いている。

 これでただ待たされるだけだったら、次第に馬鹿馬鹿しくなって江東連合も解散し、みんな家に帰り始めていただろう。

 袁術が去った後、袁術軍の兵力はそれなりのものがあった為、大規模な軍の編成が行われ、その為に孫策も袁紹の本拠である汝南の城に行った。

 そこは孫堅の居城だった寿春、また周瑜の実家である舒とも近い場所だったので、一度戻り、周瑜に会ってはどうかと薦めたが、「戦に集中したい」と孫策は頑なに江南には戻ろうとしなかった。


 それほどの決意が無ければ、逆に、周瑜とは離れられなかったのだろう。


「悪い。まだ開戦もしてねーのに愚痴った」


 孫策は立ち上がる。

「周瑜の夢見て、会いたくなっちまって」

「あんなにお美しいなら当然」


「ぶっ飛ばす」


 まだ、二人が幼い頃の印象から、黄蓋は時々周瑜を「姉」とからかった。周瑜を姉と呼ぶと、孫策は必ず怒るから面白いのだ。

 孫策が黄蓋の首に飛びつくようにして締めに掛かった。

 二人で笑いながら遣り合っていると、後ろから声がした。


「仲良しですな」


 韓当かんとうが笑っている。

「なんだお前も早起きかよ。

 孫軍年寄りがい過ぎだろ」

「世代交代に失敗しつつありますからなぁ。我が軍は」

「黄蓋。孫家の長として命令するから今回の遠征がお前の最後の戦にしろ。

 お前みたいなのが永遠に前線で元気いっぱいに頑張るから上から押し潰されて若い芽が埋もれて出て来ないんだよ」

「よろしい。では私は今回の遠征を最後に隠居しましょう」

「お。素直じゃねーか。足にしがみついて嫌だって駄々こねると思ったのに」

「まさか。私の後任には淩操を推しておくので、どうぞこき使ってやってくだされ。

 私は富春の城で優雅に隠居させていただき、留守を預かる殿の美しいご正妻に肩を揉んで長年の功を労っていただきましょう」

「なんだと。そんなこと許さん」

「私は晩年は孫に囲まれつつ、週末には周瑜殿に碁の相手をしていただきつつ、楽しく暮らすと決めておりますでな」

「何が週末だ。周瑜は週末も月末も年末も永遠に俺だけのものだ」

 韓当が可笑しそうに笑っている。

「そんなの絶対に許さんからな! 黄蓋! やっぱお前はずっと軍にいろ! お前みたいな五十過ぎても無駄に精力的な奴が留守の家で人妻と二人きりなんて絶対ダメだ! 事件が起こるぞ! よぼよぼになるまで隠居なんか絶対ダメだからな!」

「若殿は心が狭いのう、韓当。

 文台殿は家族ぐるみの付き合いを許して下さったと言うのに」

「うるせー 今だって十分家族ぐるみの付き合いしてんじゃねーか!」

「冗談ですよ。

 いつか孫策殿の王子に『おじいちゃんともっと遊びたいから引退して』と言われた時にしか引退せぬと心に決めております故」

「お前なに一人で勝手に話を決めてんだ」

 ぶはっ、と韓当が吹き出している。

「家に帰ったらお前のことは周瑜と一度相談する」

「周瑜殿は寛容ゆえ、老体に鞭は打たんでしょうな」

「勝手に周瑜に甘えんなよ黄蓋!」

「お二人の遣り取りを聞いてると、いつも富春の城にいるようですなぁ」

 孫堅がいる時もそうだった。

 韓当はそれが嬉しいのだ。

「俺の緊張感が削がれて戦に負けたらお前のせいだぞ」

 孫策がそこにあった岩に片足を掛け、不機嫌そうに腕を組む。

「それはいかん。墓石に『孫伯符 緊張感を削がれて戦死』と書かれますぞ」

「うるせえ! 俺は墓石にしがみついてでも死なねえからな。死んでたまるか!

 家で周瑜が待ってるってのに!」

「はっはっは!」

 黄蓋と韓当が笑い合っていたが、急に孫策が押し黙った。

「孫策殿?」

「年寄りが若者を苛め過ぎましたかな。むしゃくしゃしましたか? 

 ではどうぞ、思いっきり一度殴って下さって結構ですぞ。

 ほらこれ、この通り」

 両脇から孫策の顔を覗き込んで、二人は孫策が笑みを収め、荒野の向こうをじっと見ていることに気づく。

「……殿?」





「………………黄蓋。あの方角に、町などあったか?」





 孫策の指先が指し示した方角を見ると、遠くの浅い森林地帯に、彼の言った通り、灯かりがちらちらと光った。

 それは最初、時々目につくくらいだったが、瞬く間に、視界の端から端へと、星の瞬きのように広がった。

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